深夜のフラウ城に、警笛と衛兵の足音が錯綜する。
皇帝お気に入りの奴隷、サイファ・テイラントが逃げた――。
その報せは、あっという間に城内を巡ったが、誰一人、慌てる者などいなかった。ああ、またか。そう溜息をこぼすだけである。
サイファが皇帝に召されて、およそ三月。その間、彼女が脱走を企てなかった日は、一日として無かった……。
*
アーレオス大陸のほぼ半分を占める強国、イグラット帝国には、古くから厳格な種姓制度が敷かれていた。
現人神とされる皇帝を長に、皇族が神職と政を兼務し、その下に彼らに仕える宮人、財界を支える商人、それ以外の大多数――工人・農人・猟人・漁人らを総称した平民、奴隷の順に階級が設けられている。
特に奴隷は、更に三つの身分に分けられた。見目麗しく、主に鑑賞用として飼われる上級の I 種。召使いとして、身の回りの雑務をこなす中級の II
種。そして、単なる労働力として肉体を酷使する、下級の III 種である。
こういった身分制度自体は、さして珍しくもなかったが、この国における奴隷制度は、一風変わっていた。
それは、自分より身分の高い者に請われれば、何人といえども、その者に隷属せねばならない――というものである。
この掟は皇族間にも適用され、皇帝に奴隷として召されることは名誉であり、出世を約束されたも同然だった。
その栄えある奴隷 I 種、サイファは、猟人だった。帝都から遠く離れたディールという農村の出で、珍しい白い鷲を献上しにきたところ、皇帝の目に留まったのである。
彼女の類稀なる美貌は、人ならぬ者≠思わせた。広い帝国領の中でも、二人といない銀の髪。上質の象牙のように滑らかな肌。
そして、最も人々を惹きつけたのは、水華石に似た青い瞳だった。万華鏡のように千変万化する輝きが、見る者の心を捕らえて放さない。
それは、現つ神すらも例外ではなかった。
サイファを一目で気に入った時の皇帝、ハシリス四世は、彼女を直属の奴隷として迎え、居城に住まうことを許した。
皇族以外の、まして、一介の猟師が皇帝に召されたのはイグラット史上初のことで、サイファは幸福な娘≠ニして民の羨望を集めた。
しかし、城での華やかな暮らしは、彼女にとって不幸≠ナしかなかった。
美しい装いも、贅沢な食事も、大切な人が一緒でなければ、意味など無いからだ。
サイファの大切な人は、故郷にいた。
他界した母に代わり、赤ん坊の頃から育ててきた幼い弟。彼女が皇帝に仕える事を誉れとしながらも、少しも喜ばずにいてくれた父……。
大切≠ナあり、それが全て≠セった。
彼らを思うと、サイファの足は勝手に動いた。
ディールに灯る、我が家の明かりを目指して……。
*
サイファは、城の北西に位置する時計塔に潜んでいた。
歯車の回転する鈍く重たい音が、暗がりの底で蠢くように響いている。
(今日こそ逃げ遂せてやる)
何度誓ったか分からない誓いを胸に、そっと下の様子を窺うと、濃紺の闇の中、自分を探す衛兵たちの松明が、漁火のように揺らいで見えた。
その時――。
「好い加減にしたらどうだ?」
突然、背後から低い男の声がして、サイファはぎくりと身を竦ませた。ふり返らずとも、その声には聞き覚えがあった。
「また、あんたか……」
忌々しげに声の主をふり仰ぐ。
「それは、こちらの台詞だ」
苦笑いを浮かべつつ、月明かりに照らし出されたのは、長身の青年だった。
無造作に刈られた漆黒の髪と、翠玉の瞳。逞しいとは言い難いが、すらりとして見栄えのよい体躯……。
帝都防衛隊長、ユウザ・イレイズだ。
瞳の色に似合いの深緑の外衣を纏い、腰に細身の長剣を佩いている。
「陛下がお待ちだ。行くぞ」
素っ気なく投げつけられた言葉に、サイファは頬を膨らませた。
「さては、あたしの後をつけてきたな?」
そうでなければ、こんなに簡単に見つかるわけがない、と唇を噛む。
「そんな事をしていられるほど、私は暇では無い」
ユウザは、いかにも面倒くさそうに言うと、サイファが立ち上がるのを待った。
「……なぁ、見逃してくれないか? どうしても、家に帰りたいんだ」
幼い弟が待っている、と情に訴えてみるも、無理だ、の一言で済まされる。
「お前は陛下のお気に入りだ。そんな勝手が許される訳あるまい」
「そんなの分かってるよ。だから、頼んでるんじゃないか。あんただって、本当は嫌なんだろ? 皇族の一員だっていうのに、陛下の犬みたいに飼われてるなんて……」
「知ったような口をきくな」
サイファの言葉に、ユウザは瞳を冷たく細めた。
十八の若さで国防の要を担う彼は、同時に、 I 種として皇帝に仕える身でもあった。
詳しい事情は知らないが、皇族の中でも直系に近い血筋で、皇帝の奴隷なんかにならずとも、立身は確実だったらしい。
「お前は陛下直属の奴隷だが、私の方が身分は上だ。私が望めば、お前は私の奴隷にもなり得るのだぞ?」
「それがどうしたのさ? あんたは、あたしと同じ I 種じゃないか。陛下の前では同等だよ」
ユウザの射すくめるような視線に、内心、気圧されつつ、サイファは挑戦的に顎をしゃくった。脅えているとは、思われたくなかった。
ふいに、ユウザの目から険が消えた。それどころか、一切の関心を失ったような無表情になる。
「陛下の前では、だろう? 今は私と二人きり。同等ではない」
行くぞ、と有無を言わせず腕を掴まれ、サイファはしぶしぶ従った。
*
「今宵は、随分あっさり見つかってしまったのねぇ」
皇帝、ハシリス四世は、ユウザに引きずられるようにして戻ってきたサイファに、おっとりと微笑みかけた。
もうすぐ七十歳になろうかという女帝は、サイファの脱走を厭うどころか、まるで遊戯の一つのように楽しんでいた。
真夜中だというのに、紅玉のついた冠を戴き、真珠が散りばめられた臙脂色の礼服をきちんと着込んでいるあたり、彼女が寝ないで待っていたことを窺わせる。
「ユウザもご苦労でしたね。今日は何処に隠れていたのかしら?」
ハシリスは、傍近く控えるユウザの髪を優しく梳いた。その口調も仕草も、まるで幼子を褒めてやっている時のような甘さがある。
「時計塔でございます」
彼はハシリスにされるがまま、顔色一つ変えずに答えた。年頃の青年にとって、その行為はさぞ屈辱であろうに――。
「サイファ、近う……」
ハシリスに手招かれ、サイファはその足元に跪いた。年の割に美しい手が、小動物でも扱うように触れてくる。
そうやって頭を撫でられるたび、サイファはどうしようもない無力感に襲われた。
故郷のディールで、サイファは一番腕の良い狩人だった。
一度狙った獲物は、それが飛んでいる鳥であっても必ず射止めたし、自分の背丈より一回りも大きな熊を一発で仕留めた事だってある。
そんな男勝りの彼女を村の誰もが一目置き、サイファの矢には精霊が宿る、と称えた。
それなのに、今の自分ときたら、豪奢な衣装を押し着せられた、生きる着せ替え人形だ。毎日をただ生きて≠「るだけで、夢も希望もありはしない。
(どうすれば城から出られるだろう? いっそ、この手に噛みついてやれば……)
逆賊として帝都追放になるのでは? と、サイファは危険な妄想を抱いた。しかし、すぐさま我に返る。
(陛下にそんな事したら、追放で済む訳ないだろ)
即、斬首だ。自分の浅はかさに、げんなりする。
「サイファよ。妾に仕えるのは、そんなに嫌ですか?」
眉をひそめて考えこんでいると、ふとハシリスの瞳に翳りが差した。
「いいえ……」
サイファは小さく頭を振った。
「陛下にお会い出来ない時間があまりに退屈で、外を歩き回らずにはいられないのです」
城から逃れる事を心から望んでいるのに、ハシリスの寂しげな顔を見るのは束縛される以上に嫌だった。
かつては女傑と謳われた彼女も、今では孫のような年の奴隷を慈しむ、心優しい老婆である。だから、本気で逃げられないのだ。
「では、あなたにユウザをつけましょう」
「えっ!?」
思いも寄らなかったハシリスの提案に、サイファはぎょっとした。ユウザの眉も、ぴくりと上がる。
「ユウザ、そなたには帝都防衛隊長の職務を与えていましたが、たった今、その任を解きます。明日からは、サイファの相手をしてあげなさい」
ハシリスの無邪気な笑顔を前に、彼は、御意、と応えただけだった。
(ちょっとは抵抗しろよ!)
心中で、サイファはユウザに蹴りを入れた。許されるなら、本当にボコボコにしてやるところだ。
同じ I 種という立場にあっても、自分とは違い、少しも躊躇う事なく命令に従っていられる彼が、信じられなかった。
そこに自分の意志は無いのか? それとも、奴隷の分際で意志を持とうとすること自体、愚かな事なのか?
端整だが、ほとんど表情を変える事のないユウザの横顔を、サイファはぼんやりと眺めた。
感情を押し殺したような、冷めた眼差し……。
いつか、自分もあんな風になってしまうのだろうか?
サイファは胸の奥が重たくなるのを感じた。
隷属する≠ニいう意味を、見せつけられた気がした。
- 2003.03.26 -