Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 1 話  [][もの][]われる[もの]
 深夜のフラウ城に、警笛[けいてき]と衛兵の足音が錯綜[さくそう]する。
 皇帝お気に入りの奴隷、サイファ・テイラントが逃げた――。
 その報せは、あっという間に城内を巡ったが、誰一人、慌てる者などいなかった。ああ、またか。そう溜息をこぼすだけである。
 サイファが皇帝に召されて、およそ三月[みつき]。その[かん]、彼女が脱走を企てなかった日は、一日として無かった……。
 アーレオス大陸のほぼ半分を占める強国、イグラット帝国には、古くから厳格な種姓制度が敷かれていた。
 現人神[あらひとがみ]とされる皇帝を[ちょう]に、皇族が神職と[まつりごと]を兼務し、その下に彼らに仕える宮人[みやびと]、財界を支える商人[しょうにん]、それ以外の大多数――工人[こうにん]農人[のうじん]猟人[りょうじん]漁人[ぎょじん]らを総称した平民、奴隷の順に階級が設けられている。
 特に奴隷は、更に三つの身分に分けられた。見目麗しく、主に鑑賞用として飼われる上級の I 種。召使いとして、身の回りの雑務をこなす中級の II 種。そして、単なる労働力として肉体を酷使する、下級の III 種である。
 こういった身分制度自体は、さして珍しくもなかったが、この国における奴隷制度は、一風変わっていた。
 それは、自分より身分の高い者に請われれば、何人[なんぴと]といえども、その者に隷属せねばならない――というものである。
 この掟は皇族間にも適用され、皇帝に奴隷として召されることは名誉であり、出世を約束されたも同然だった。
 その栄えある奴隷 I 種、サイファは、猟人だった。帝都から遠く離れたディールという農村の出で、珍しい白い[わし]を献上しにきたところ、皇帝の目に留まったのである。
 彼女の類稀[たぐいまれ]なる美貌は、人ならぬ者≠思わせた。広い帝国領の中でも、二人といない銀の髪。上質の象牙のように滑らかな肌。
 そして、最も人々を惹きつけたのは、水華石[すいかせき]に似た青い瞳だった。万華鏡のように千変万化する輝きが、見る者の心を捕らえて放さない。
 それは、[あき][かみ]すらも例外ではなかった。
 サイファを一目で気に入った時の皇帝、ハシリス四世は、彼女を直属の奴隷として迎え、居城に住まうことを許した。
 皇族以外の、まして、一介の猟師が皇帝に召されたのはイグラット史上初のことで、サイファは幸福な娘≠ニして民の羨望を集めた。
 しかし、城での華やかな暮らしは、彼女にとって不幸≠ナしかなかった。
 美しい装いも、贅沢な食事も、大切な人が一緒でなければ、意味など無いからだ。
 サイファの大切な人は、故郷にいた。
 他界した母に代わり、赤ん坊の頃から育ててきた幼い弟。彼女が皇帝に仕える事を誉れとしながらも、少しも喜ばずにいてくれた父……。
 大切≠ナあり、それが全て≠セった。
 彼らを思うと、サイファの足は勝手に動いた。
 ディールに灯る、我が家の明かりを目指して……。
 サイファは、城の北西に位置する時計塔に潜んでいた。
 歯車の回転する鈍く重たい音が、暗がりの底で蠢くように響いている。
(今日こそ逃げ遂せてやる)
 何度誓ったか分からない誓いを胸に、そっと下の様子を[うかが]うと、濃紺の闇の中、自分を探す衛兵たちの松明[たいまつ]が、漁火[いさりび]のように揺らいで見えた。
 その時――。
「好い加減にしたらどうだ?」
 突然、背後から低い男の声がして、サイファはぎくりと身を竦ませた。ふり返らずとも、その声には聞き覚えがあった。
「また、あんたか……」
 忌々しげに声の主をふり[あお]ぐ。
「それは、こちらの台詞だ」
 苦笑いを浮かべつつ、月明かりに照らし出されたのは、長身の青年だった。
 無造作に刈られた漆黒の髪と、翠玉の瞳。逞しいとは言い[がた]いが、すらりとして見栄えのよい体躯……。
 帝都防衛隊長、ユウザ・イレイズだ。
 瞳の色に似合いの深緑の外衣[マント][まと]い、腰に細身の長剣を[]いている。
「陛下がお待ちだ。行くぞ」
 素っ気なく投げつけられた言葉に、サイファは頬を膨らませた。
「さては、あたしの後をつけてきたな?」
 そうでなければ、こんなに簡単に見つかるわけがない、と唇を噛む。
「そんな事をしていられるほど、[わたし]は暇では無い」
 ユウザは、いかにも面倒くさそうに言うと、サイファが立ち上がるのを待った。
「……なぁ、見逃してくれないか? どうしても、家に帰りたいんだ」
 幼い弟が待っている、と情に訴えてみるも、無理だ、の一言で済まされる。
「お前は陛下のお気に入りだ。そんな勝手が許される訳あるまい」
「そんなの分かってるよ。だから、頼んでるんじゃないか。あんただって、本当は嫌なんだろ? 皇族の一員だっていうのに、陛下の犬みたいに飼われてるなんて……」
「知ったような口をきくな」
 サイファの言葉に、ユウザは瞳を冷たく細めた。
 十八の若さで国防の要を担う彼は、同時に、 I 種として皇帝に仕える身でもあった。
 詳しい事情は知らないが、皇族の中でも直系に近い血筋で、皇帝の奴隷なんかにならずとも、立身は確実だったらしい。
「お前は陛下直属の奴隷だが、私の方が身分は上だ。私が望めば、お前は私の奴隷にもなり得るのだぞ?」
「それがどうしたのさ? あんたは、あたしと同じ I 種じゃないか。陛下の前では同等だよ」
 ユウザの射すくめるような視線に、内心、気圧されつつ、サイファは挑戦的に顎をしゃくった。脅えているとは、思われたくなかった。
 ふいに、ユウザの目から険が消えた。それどころか、一切の関心を失ったような無表情になる。
「陛下の前では、だろう? 今は私と二人きり。同等ではない」
 行くぞ、と有無を言わせず腕を掴まれ、サイファはしぶしぶ従った。
「今宵は、随分あっさり見つかってしまったのねぇ」
 皇帝、ハシリス四世は、ユウザに引きずられるようにして戻ってきたサイファに、おっとりと微笑みかけた。
 もうすぐ七十歳になろうかという女帝は、サイファの脱走を[いと]うどころか、まるで遊戯の一つのように楽しんでいた。
 真夜中だというのに、紅玉のついた冠を戴き、真珠が散りばめられた臙脂[えんじ]色の礼服[ガウン]をきちんと着込んでいるあたり、彼女が寝ないで待っていたことを窺わせる。
「ユウザもご苦労でしたね。今日は何処に隠れていたのかしら?」
 ハシリスは、[そば]近く控えるユウザの髪を優しく[]いた。その口調も仕草も、まるで幼子を褒めてやっている時のような甘さがある。
「時計塔でございます」
 彼はハシリスにされるがまま、顔色一つ変えずに答えた。年頃の青年にとって、その行為はさぞ屈辱であろうに――。
「サイファ、[ちこ]う……」
 ハシリスに手招かれ、サイファはその足元に[ひざまず]いた。年の割に美しい手が、小動物でも扱うように触れてくる。
 そうやって頭を撫でられるたび、サイファはどうしようもない無力感に襲われた。
 故郷のディールで、サイファは一番腕の良い狩人だった。
 一度狙った獲物は、それが飛んでいる鳥であっても必ず射止めたし、自分の背丈より一回りも大きな熊を一発で仕留めた事だってある。
 そんな男勝りの彼女を村の誰もが一目置き、サイファの矢には精霊が宿る、と称えた。
 それなのに、今の自分ときたら、豪奢[ごうしゃ]な衣装を押し着せられた、生きる着せ替え人形だ。毎日をただ生きて≠「るだけで、夢も希望もありはしない。
(どうすれば城から出られるだろう? いっそ、この手に噛みついてやれば……)
 逆賊として帝都追放になるのでは? と、サイファは危険な妄想を抱いた。しかし、すぐさま我に返る。
(陛下にそんな事したら、追放で済む訳ないだろ)
 即、斬首だ。自分の浅はかさに、げんなりする。
「サイファよ。[わらわ]に仕えるのは、そんなに嫌ですか?」
 眉をひそめて考えこんでいると、ふとハシリスの瞳に[かげ]りが差した。
「いいえ……」
 サイファは小さく[かぶり]を振った。
「陛下にお会い出来ない時間があまりに退屈で、外を歩き回らずにはいられないのです」
 城から逃れる事を心から望んでいるのに、ハシリスの寂しげな顔を見るのは束縛される以上に嫌だった。
 かつては女傑[じょけつ][うた]われた彼女も、今では孫のような年の奴隷を慈しむ、心優しい老婆である。だから、本気で逃げられないのだ。
「では、あなたにユウザをつけましょう」
「えっ!?」
 思いも寄らなかったハシリスの提案に、サイファはぎょっとした。ユウザの眉も、ぴくりと上がる。
「ユウザ、そなたには帝都防衛隊長の職務を与えていましたが、たった今、その任を解きます。明日からは、サイファの相手をしてあげなさい」
 ハシリスの無邪気な笑顔を前に、彼は、御意、と応えただけだった。
(ちょっとは抵抗しろよ!)
 心中で、サイファはユウザに蹴りを入れた。許されるなら、本当にボコボコにしてやるところだ。
 同じ I 種という立場にあっても、自分とは違い、少しも躊躇[ためら]う事なく命令に従っていられる彼が、信じられなかった。
 そこに自分の意志は無いのか? それとも、奴隷の分際で意志を持とうとすること自体、愚かな事なのか?
 端整だが、ほとんど表情を変える事のないユウザの横顔を、サイファはぼんやりと眺めた。
 感情を押し殺したような、冷めた眼差し……。
 いつか、自分もあんな風になってしまうのだろうか?
 サイファは胸の奥が重たくなるのを感じた。
 隷属する≠ニいう意味を、見せつけられた気がした。
- 2003.03.26 -
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