Written by Ao Kamisawa.
『Sweet Sweet Bitter』
第 1 話  再会[さいかい]、そして記念日[きねんび]
 人生って、儘ならない――。
 ステージ上で新入生代表の挨拶をしている少年を睨みながら、萩子[しゅうこ]は静かに絶望していた。
 自分の人生は自分で切り開くものだという事くらい、良く解っていた。
 だから、第一志望に落っこちて、第二志望には願書すら出し忘れて、結局、第三志望の私立高校に落ち着いたのも、自業自得と納得済みだ。
 だけど――。
「……新入生代表――」
 一礼して、降壇してくる少年を目で追いながら、萩子は思う。
 何も、こんな試練≠ワで用意してくれなくても、いいんじゃないの? と。
 萩子が座っている列の一番前の席に、少年は腰かけた。
 スポーツで鍛えたと思われる、広い肩幅。日本人離れした、厭味なほどに長い脚。天然か人工か判断に迷う、栗色の髪……。
 しかし、それが前者である事を、萩子は苦いほど判っていた。
 高見恭介[きょうすけ]
 今から十年前、彼は萩子の家のお隣さん≠セった。
 そして、高々[たかだか]十五年の人生経験の中で、彼女が初めて殺意を覚えた相手である。
『萩ちゃん、マシュマロあげるから、目をつむって』
 ふいに蘇る、舌足らずな男の子の声。額をかすめた、柔らかい髪の感触。そして――。
 萩子は思わず身震いした。思い出しただけで、吐き気がこみあげてくる。
 あれは、忘れもしない萩子五歳の誕生日。
 近所の友達を招いた祝いの席に、恭介の姿もあった。
 苺がたっぷり載ったバースデイ・ケーキ。両親にねだって買ってもらった、大きなナマケモノのぬいぐるみ。口々におめでとう≠言ってくれる友達を前に、萩子は有頂天だった。
 だから、疑いもしなかった。
『萩ちゃん、マシュマロあげるから、目をつむって』
 恭介に言われた通り目を閉じると、唇に、少し温かくて、弾力のあるものが押し当てられた。
 マシュマロにしては少しおかしい気もしたけれど、幼なじみの言葉を信じていた萩子は、躊躇[ためら]いなく、その物体を齧った。途端、口中[こうちゅう]に不快な生臭さが広がって――!?
 ビックリして開いた目に飛び込んできたのは、唇からだらだらと血を流した恭介の顔。ショックのあまり、萩子は気を失った。
 気がついた後、恭介に何度も謝られたけれど、萩子は[ゆる]す気になれなかった。
 意識を手放す直前に見た彼の表情が、酷く恐ろしかったのだ。血を流しながら、それでも、にっこり笑った顔が。
 それから間もなく、高見家は他所[よそ]の町に引っ越す事になった。
 そのお別れの日、恭介は萩子に本物のマシュマロをくれた。ピンクのリボンがかけられた、白くてふこふこのを。
『ごめんね、萩ちゃん』
 そう言って、淋しげに微笑まれ、萩子は微かに胸が疼くのを感じた。もう会えなくなるかもしれないし、赦してあげよう、と思った。
『もう、いいよ』
 恭ちゃんも、元気でね、と萩子が心からの微笑を返した瞬間――二度目のキスを奪われた。
『やっぱり、萩ちゃんのマシュマロが一番美味しい』
 なんて、笑顔で[]かしやがった恭介の顔面を、萩子がグーで殴ったのは言うまでもない。
(思い出したら、ムカムカしてきた)
 恭介の後ろ頭を見ながら、萩子は唇を噛み締めた。
 あの日、補助輪付きの自転車に乗ってきていたら、あるいは砂遊び用の赤いスコップ、もしくは蛍光ピンクの跳び縄――とにかく、何でもいいから凶器になりそうな物を持ってきてしまっていたら、自分は本当に恭介を[]っていたかもしれない。
 それが、何の因果で同じ学校――それも、同じクラスになってしまったのか?
 萩子は深い深い溜息をもらした。
 どんな顔をして、会えばいいんだろう?
 入学式終了後。
 教室の前まで来たものの、萩子はドアの前に突っ立って、1年F組のプレートと睨めっこしていた。この中に恭介がいるかと思うと、体が前に進む事を拒否するのだ。
(ああ、トラウマって恐ろしい)
 それでも、意を決して、萩子が引き戸の取っ手に指をかけた時。
「早く入ってくんない?」
 真後ろから、不機嫌そうな男子の声が響いた。
「あ、ごめんなさい……」
 とっさに謝って、振り返った瞬間、萩子は思わず後退りして、扉に背中をぶっつけた。
 後ろに立っていたのは、中にいるとばかり思っていた、高見恭介その人だった。
 髪の色と同じ、栗色の瞳。日に焼けた、精悍な頬。かつて萩子が噛みついた唇は、あの頃よりやや厚みを増していて、やたら肉感的に見える。
 十年ぶりに再会した幼なじみは、萩子が記憶していた少年と、あまりにも懸け離れていた。男≠ニ呼ぶには早過ぎるけれど、もう男の子≠ニは呼べない。
 彼の変貌ぶりと、心の準備が整っていなかったのとで、萩子が身動き出来ずにいると、恭介はじっと見つめてきた。
 そして、一言。
「邪魔」
「は?」
「だから、あんたが邪魔で入れないって言ってんの」
 恭介は面倒臭そうに言うと、萩子の肩を押し退けて戸を開けた。とろい女、という捨て台詞まで残して、さっさと教室に入って行く。
(……今のは、何?)
 萩子は唖然として、その場に立ち尽くした。そうしながらも、たった今、起こった出来事を、頭の中でリプレイしてみる。
 自分に向けられた、無感情な目。不愛想どころか、人としてどうかと思うような発言。とどめは――あんた=B
(私の事、覚えてない?)
 萩子は少なからずショックを覚えた。
 お隣さんだったのに! 萩ちゃん、恭ちゃんと呼び合った仲だったのに!! ファースト・キスまで奪って行ったというのに!!!
(あんの野郎!)
 頭にきた。
 この十年間、萩子はあの忌まわしい過去に散々苦しめられてきたのだ。あまりにも記憶が鮮烈過ぎて、今でも、時々夢に見る。
 それなのに、その元凶たる恭介は、萩子に気づきもしなかった。
 まるで、苛めっ子と苛められっ子の関係。苛められた方は、いつまでもネチネチネチネチ覚えているのに、苛めっ子は、苛めていたという記憶すら持たない。
 でも、向こうが忘れているのなら、いっそ、このまま放っておいた方が都合は良かった。初対面の振りをして、素知らぬ顔で過ごせるのだから。
 むしろ、忘れてくれていた事に感謝すべきかもしれない。
 頭では、そう思う。
 だけど、心では、そうは思えない。
 ムカついて、ムカついて、泣きたくなるほど、口惜しくて……。
(私ばっかり、バカみたい……)
 萩子は落胆にも似た虚脱感を味わった。
 憎らしい相手でも――憎らしい相手だからこそ、哀しくなった。自分が与えた印象より、与えられた印象の方が、遥かに強かったなんて。
 麗らかな春の陽射しが、何だか目に染みる。
(恭ちゃんとのトラブルは、どうして、記念日にばかり起こるんだろう?)
 誕生日に入学式。
 忘れたくても、忘れられないじゃない。
- 2003.07.20 -
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