入学してから三週間。
お弁当を一緒に食べる友達が出来て、『映画音楽鑑賞愛好会』なんていう地味な会にも所属して、ようやく授業らしい授業も始まって。
萩子の高校生活は、ほぼ順調に形作られていた。
ただ一つ、目の前の障壁を除いては。
(……女の厄年って、いつの間に十五まで引き下げられたの?)
目の前にそびえるチャコール・グレイの背中を、見たくもないのに視界の端に入れながら、萩子は本気でお祓いを考えていた。
「今から座席表を回すから、自分で名前を書きこむように」
担任の指示で、教室がわずかにざわめいた。廊下側の一番前の席から順に、白い用紙が回されていく。
今日のホームルームは席替えだった。
これまでの出席番号順から、くじ引きで選んだ席に変わる。窓側から三列、前から二番目。
まあまあの席だと思った。内職に適しているとは言い難いし、前後左右とも知らない人だったけれど、それは一向に構わなかった。誰が誰とも把握し切れていない今、恭介以外の人間なら文句はない。
なかったのに、目の前の男子が席を交換しやがったのだ。眼鏡をかけてもなお視力が弱いとかいう、恭介と。
でも……。
(これって、ホントに偶然?)
恭介の行動に、萩子は微かな疑念を抱いていた。
目が悪いのは事実なのだろうけれど、どうして、よりにもよって、自分の前の席を選ぶのだろう? 机の列は、六つもあるのに……。
(もしかして、本当は思い出したくせに、ワザと知らんぷりして楽しんでる……とか?)
萩子は、恭介の目に映っているであろう、今の自分を思い描いた。
日本人形のように、真っ直ぐでツヤツヤした黒髪。長い睫が縁取る、少しキツめのアーモンド・アイ。ベビー・ピンクのグロスを薄くのばした唇。
十年前と比べても、そう劇的な変化は無いはずだ。
しかし、肝心の十年前の自分≠フ顔が、五歳児の記憶に焼きつくほどインパクトがあるか? と問われれば、首を傾げざるを得ないわけで……。
(やっぱり、偶然……なのかなぁ?)
必然≠カゃないというのも、何となく因縁めいていて嫌だな、なんて思っていると。
「はい、及川さん」
右肩を叩かれ、萩子は我に返った。
赤味がかった茶髪の少女が、座席表を差し出して寄越す。丸顔に大きな瞳が印象的な、可愛い子だ。
「ありがとう」
受け取りながら、萩子は表に素早く目を走らせた。自分の後ろの席の欄には、ちまっとした丸文字で、河合由香子とある。
「よろしくね、河合さん」
萩子が笑顔を作ると、彼女は、こちらこそ、と言って、いかにも快活そうな笑みを浮かべた。
明るくて、キュート。
男子が放っておかないタイプだと思いながら、萩子は前に向き直った。
(――さて、と)
自分の名前を書き込み、萩子は我知らず溜息をもらした。これを前≠ノ回さなければならない。
萩子は小さく一呼吸してから、シャープペンシルの先で、恭介の背中を軽く突ついた。振り向いた彼に無言で用紙を突き出すと、向こうも黙って受け取ってくれた。
ほっ、と息を吐いた時、恭介が、もう一度ふり返った。表中の萩子の名前を指差しながら、物言いたげに見つめてくる。
「な、何?」
萩子は思わずどもってしまった。名前を見て、今度こそ気がついたのだろうか?
「あんたの名前――」
もったいをつけるように間をあけた彼の口振りに、萩子の緊張が頂点に達した直後。
「何て読むの?」
ストンと底まで落とされた。
はぎこ≠ナいいのか? と、素で尋ねられ、萩子は、つい怒鳴ってしまった。
「しゅうこ≠諱I しゅ・う・こ!」
その途端、恭介の顔にあからさまな嘲笑いが浮かんだ。
「名前読み間違えられたくらいで、そんなムキになるなよ」
とろいくせに短気だなんて最悪だぞ、と吐かして、さっさと前を向いてしまう。
(……こいつ、マジでムカツク)
恭介の背中を半眼で見据えながら、萩子は改めて時の流れを感じた。
確かに、萩子が覚えている恭介は、人を騙してキスするような、ませたエロガキだった。
でも、それだけ大人びていた彼は、同年代の男の子みたいに、女の子に意地悪をして喜んだり、手を上げるような真似はしなかった。
むしろ、男の子に虐められている女の子を身を挺して庇うような、フェミニストだったのだ。
それが、何処をどう誤って、こんな皮肉屋の性悪男に成り下がったのか?
燃え上がる怒りを視線に込めて送っているところへ、恭介が、またしても振り返る。
「今度は何?」
萩子がつっけんどんに尋ねると、彼はさっきと同じように、座席表を指で示した。
「この萩≠チていう漢字、おかしくねぇ?」
「どれ?」
眉間に思いきり皺を寄せ、萩子は座席表を引っ手繰った。
自分の名前を間違えるバカが何処にいるのよ、と内心で毒づき、次の瞬間、その言葉を口にしなかった事に心から感謝する。
(何で、こういう時に限って、こんなアホな事しちゃうのよっ!?)
洒落にならない事に、萩≠ェ荻≠ノなっていた。こんな間違い、今まで、一度だってした事なかったのに――。
「とろくて、短気で、おっちょこちょい」
救いようがねぇな、と淡々と吐き出される恭介の悪態に、反論できる余地はない。萩子は穴があったらダッシュで潜り込みたい気分で、すごすごと自分の名前を訂正した。
「――はい」
げんなりしながら表を手渡すと、恭介はちらと確認してから、小馬鹿にしたように囁いた。
「次からは気をつけろよ、萩ちゃん」
向き直りざまの、明らかな嘲笑。
しかし、呼ばれた途端、萩子は過去に引き戻されたような気がした。
萩ちゃん。
今では両親さえも使わなくなった、懐かしい呼び名。繰り返し見る、悪夢の中でだけ、聞こえる音=B
(どうして?)
頬杖をつき、何事もなかったように正面を向いている恭介。その端然とした後姿を、萩子はもやもやした思いで見つめた。
(忘れてるんじゃないの? 私の顔も名前も……)
それなのに、どうして、あの頃と同じように呼びかけるんだろう? 成長しても思考回路は変わらないという事なのか?
それとも――。
考え事を邪魔するように、教室にチャイムが鳴り渡る。
週番の号令に合わせて礼をした後、恭介はふらりと出て行った。その広い背中に、萩子は心中で問いかけてみる。
やっぱり、ワザとですか?
- 2003.09.24 -