放課後、昇降口にて。
「ちょっと、そこな水泳部員!」
掃除をサボって、とっとと部活へ向かおうとする不届き者の背中を、萩子は竹箒の柄で思いきりど突いた。
「いでっ」
海老のように身を反らせた不届き者――高見恭介が、不快も露わに振り返る。
「何すんだよ?」
「何、じゃないでしょ! 毎日、毎日、掃除サボって、どういうつもり?」
剣の立ち合いよろしく、萩子は恭介の眼前に箒を突きつけた。今日という今日は逃がさないわよ。
先日の席替えの結果、掃除当番やらグループ学習やらで、否でも恭介と行動を共にせざるを得なくなった萩子は、いよいよ我慢の限界を迎えていた。
皮肉屋の性悪男に成り下がっていた恭介は、その上、不真面目と無責任という最低なオプションまで装備していたのだ。
化学の実験でも、調理実習でも、面倒な事は全部他人任せ。協調性というものが完全に欠落している。
そのくせ、頭と運動神経はやたらと良くて、自分の事だけそつ無くこなす。
だから、教師受けも悪くないし、実状を知らない女子からの人気は頗る高い。
それだけでも、充分過ぎるくらい腹立たしいのに――。
「何、風紀委員みたいなこと言ってんだよ、萩ちゃん」
栗色の眉をひそめ、恭介は片腕で箒を払い除けた。このくらいの広さなら、俺一人抜けたって、どうって事ねぇだろ、と正当性の欠けらもない主張をする。
「誰が風紀委員よ! そんな馬鹿な理屈、通るわけないでしょ! それから、馴れ馴れしく呼ばないでって、何回言えば解るの?」
恭介の手にむりやり箒を押しつけ、萩子は忌々しく吐き捨てた。
あの日以来、恭介は萩子の事を萩ちゃん≠ニ呼ぶ。その度、萩子の心拍数がどれほど跳ね上がるかも知らずに。
いや、きっと、知っててやっているのだ。
「多分、ずっと、解んねぇよ」
言いながら、恭介が小さく肩をすくめる。
「俺、萩ちゃんっていう呼び名、結構、気に入ってるから」
いかにも人を食ったような、軽薄な物言い。
「苗字で呼ぶより、親しみ湧かねぇ? 何か、幼なじみっぽくて」
ふてぶてしい微笑。
決定だ。
(やっぱり、思い出してるんじゃない!)
確信した瞬間、これまでの朦朧とした感情が、一気に怒りへ傾いた。
上等だ。あくまで人をおちょくる気なら、こっちも受けて立とうじゃないの。
「全っ然」
キッパリ否定し、萩子はジロリと恭介を睨んだ。むしろ、言い様のない殺意を覚えるわ、と。
「……ふーん」
恭介はわずかに眉間をしかめ、心外そうにこぼした。可愛くねぇ女だな。
「相手がき……高見君じゃなければ、もっと可愛くなれるわよ」
昔の癖で、つい恭ちゃん≠ニ呼びそうになるのを誤魔化し、萩子は憎まれ口で返した。
「あっ、そ」
興醒めしたように呟いて、恭介は箒を肩に担いだ。
「じゃあ、俺は可愛い女の子でも手伝ってやるかな。――おい、河合」
萩子に背を向け、同じ班の女子――独りで重たい簀子を持ち上げようとしている由香子の元へと歩み寄る。
「お前じゃ無理だって」
萩子に接する態度とは一八〇度違う物柔らかさで、微笑みかける。危ないから、どいてろよ。
「あ、ありがとう。高見君」
一瞬、驚いた顔を見せたものの、由香子はすぐさま、人好きのする明るい笑みを浮かべた。頬を薄っすらと上気させて。
(……確かに、私より数倍素直で、可愛いわ)
納得しつつも、微かな敗北感を味わい、萩子は二人から顔を背けた。
(あいつ、あんな顔も出来るんじゃない)
掃除用具入れからチリトリを引っ張り出しながら、かつて恭介が隣の可愛い男の子≠セった頃を思い出す。
そもそも、五歳の誕生日を迎えるまでは、萩子と恭介は仲良し≠セったのだ。毎日のようにかくれんぼ≠オて、おままごと≠オて、他の友達と遊ぶ時も、いつも二人一緒で。共働きで忙しい恭介の両親に代わって、萩子の母が二人を遊園地や動物園に連れて行ったりもするくらいに。
『萩ちゃんのお母さん、優しいね』
若くてキレイだし、羨ましいな、と屈託なく笑った恭介に、そんな事ないもん、と膨れっ面で反発した、遠い昔の自分。今、思えば、それは母に対する些細な焼きもちだった。
あの頃の萩子にとって、恭介は大好きな幼なじみだったから。一番大切な、男の子だったから。
だから、あの裏切り≠ェ許せなかった。
信じてたのに、騙された。それも、二回も!
そして何より、恭ちゃん≠フ心が読めない、あの微笑みが怖かった。
(……結局、あれって、どういう意味の笑いだったんだろう?)
掃き集められたゴミをチリトリで掬いながら、萩子は考える。
あの流血笑顔は、悪戯が成功して喜んでいる風でも、萩子に嫌がらせをして満足したようにも見えなかったのだけれど……。
ゴミを捨て、ぼんやりしたまま、廊下に落ちていた春の交通安全週間≠フポスターを拾い上げる。
その直後。
「痛っ……!」
指先に鋭い痛みを感じた。
よく見ると、紙の端に画鋲がくっ付いたままだった。それに気づかず、思いきり掴んだので、親指に深々と刺さってしまっている。
「もう、ついてないんだから!」
これも恭介の呪いか? と、恨めしく思いながら、萩子は画鋲を抜き取り、傷を洗いに水呑場へ走った。
*
ちょろちょろと流れる水に指先を打たせていると、聞き慣れた厭味が降ってきた。
「たかが画鋲一個で、そんなに血流してる奴も珍しいよな」
袖口を肘まで捲くった恭介が、隣の蛇口を勢いよく捻る。
「悪かったわね、不注意で」
誰の所為で注意力が散漫になったと思ってるのよ! という、心の罵声を飲みこんで、萩子は素っ気なく返した。
ムキになったら負け。
苛めっ子には、ノーリアクションが最も有効なのだ。幾らいびっても、面白く無い。そう思わせられれば、勝ったも同然。
しかし――。
「ま、自覚してれば、いいんじゃねぇの?」
濡れた両手を軽く振って水を切り、恭介はワイシャツの胸ポケットを探った。そして、ほらよ、と絆創膏を差し出して寄越す。
「これ……」
萩子が目を瞠ると、恭介はいつもの小馬鹿にした笑顔になった。
「とろくて、短気で、おっちょこちょいで、おまけに可愛げのない萩ちゃんに、優しいキタカミ君からのプレゼント」
「キタカミ?」
萩子が聞き返すと、恭介は片頬をわずかに歪めた。
「あんた、俺のこと呼ぼうとする時、必ず、き……高見君って、どもるだろ? あれ、すっげぇ不愉快だから」
それやるから二度と間違えんな、と妙な交換条件を出して、くるりと踵を返す。
萩子は置いていかれた絆創膏を手に取った。
明らかに箱から出されたばかりと思われる、真新しいそれ。わざわざ、保健室に取りに行ってくれたに違いなかった。
(何で、こういう事するかな……)
こんな回りくどい、捻くれたやり方は、昔の純粋で、ストレートな恭介とは符合しない。
だが、その根底にある優しさは、案外、変わっていないのかもしれない。
(バカな奴。こんな絆創膏一枚で、アレをチャラに出来るとでも思ってんの?)
不当に高鳴る胸に苛立ちながら、萩子は心の中で毒づいた。
でも――。
「ねぇ! き……高見君!」
下駄箱の前で靴を履き替えている恭介を、大声で呼び止める。
「てめぇ、喧嘩売ってんのか?」
顔を上げた彼は、うんざりしたように眉を寄せた。
「あ、ごめん。でも、あの……ありがとう、これ」
しどろもどろになりながら、萩子が絆創膏を振ってみせると、恭介はわずかに笑った……ように見えた。
「いいから、早く貼れよ。血が手首まで垂れてるぞ?」
「え! 嘘ぉ!?」
ぎょっとして確かめようとした時、恭介の嘲笑が響いた。
「バーカ、冗談だよ」
画鋲で刺したくらいで、そんなになるわけねぇだろ、と軽くあしらわれる。
「う……」
冷静に考えれば、言われるまでもない事で、萩子は思わず苦笑した。ここ一番という時の自分の落ち着きの無さに、ほとほと嫌気がさす。
「じゃあな、萩ちゃん」
いつもの軽い調子で手を上げて、恭介は再び背を向けた。その後姿に、萩子はささやかな反撃を試みる。
「バイバイ、恭ちゃん」
はっきり聞こえるように言って、すぐさま回れ右をした。
今、恭介は振り向いたのだろうか? だとしたら、どんな顔をしたんだろう?
ものすごく気になるけれど、振り返るわけにはいかなかった。
今の自分の顔は、きっと、遠目にも判るほど、真っ赤になっているはずだから。
(あーあ、余計な事まで思い出しちゃった)
貰った絆創膏を指に巻きながら、萩子は苦い溜息をもらした。
初恋の、幼き君の面影を見た日。
- 2004.03.26 -