Written by Ao Kamisawa.
『Sweet Sweet Bitter』
最 終 話  極悪人[ごくあくにん]主張[しゅちょう]
 しばしの沈黙の後、萩子は繕うように呟いた。
「……そろそろ、戻らなきゃ」
 他人の失恋現場を目の当たりにしてしまった妙な感慨深さと後味の悪さ、怒涛の展開に圧倒され、すっかり飛んでいた恭介とのキスの記憶やらが一度に押し寄せてきて、気まずい事この上ない。
 萩子は、とりあえず歩き出した。
 何はともあれ、この重苦しい空気から逃れたい。きちんと呼吸が出来る場所で、頭を整理しなければ。
 しかし、それを妨げるように恭介が口を開く。
「ずっと、捜してたんだよ」
 ぽつりと、一言だけ。
 萩子はゆるりと顔を振り向けた。何を? と、目だけで尋ねる。
「もう、十年くらい前になるけど、俺には、物すごく大切な幼なじみの女の子がいて――」
 恭介の口から出た幼なじみ≠ニいう単語に、萩子は過剰に反応した。ぼんやりしていた頭が、たちまち冴えていく。
「子供心に、将来、絶対、こいつと結婚するんだ、って信じてた」
「はい?」
 何を言われるのかと、全身全霊で構えていた萩子は、あんぐりと口を開けた。
 全くの想定外。何人もの少女を手玉に取っていた性悪男が、何を突然、乙女チックな戯言[たわごと]を吐いていやがる?
「でも、親の都合で引っ越す事になって、今住んでる家に落ち着くまで、九ヶ所も色んな町を転々として……記憶が、混濁したんだろうな」
 呆気に取られる萩子をよそに、恭介は自嘲気味に口の[]を歪めた。
「すっかり、忘れちまったんだよ。その子の顔も、名前も」
 [とど]めを刺された気がした。
(ワザとじゃ……なかった?)
 萩ちゃん≠ニ昔の呼び名を使うのも、幼なじみっぽいだろ、などとしゃあしゃあと言い放ったのも、全てがタチの悪い偶然?
 これまでの恭介の思わせ振りな行動の一つ一つが、萩子の中で一斉に、その意味を失う。
「だけど、幸か不幸か、たった一つだけ、はっきり記憶してる事があって――」
 淡々と続けていた恭介は、ふいに眉を寄せ、静かに息を吐いた。自身を落ち着かせるみたいに、静かに深く吐き切って、口中で呟く。
「思い出すたびに、気が狂いそうになった」
 もう二度と巡り合えないかもしれないのに、忘れる事すら出来ないなんて。
 その切羽詰まった眼差しが、地を這うようにくぐもった声が、萩子の背筋をざわりと撫で上げた。
 恐怖に近い感覚。なのに、それが不思議と不快では無い事に戸惑いを覚える。
「だから、捜す事にした」
 俯けていた顔を上げ、恭介は迷いのない調子で言った。絶対に忘れない、この記憶を逆手に取って。
「……その記憶って、何なの?」
 全身の血がさざめいているかのように、体温が上昇するのを感じながら、萩子は躊躇[ためら]いがちに口を挟んだ。
 名前はともかく、顔も思い出せないような人間の――自分の、一体、何を忘れられずに苦しんでいるというのだろう?
 萩子が覚えている恭介との思い出といったら、一刻も早く忘れた方が身の為になる、痛すぎるエピソードばかりだ。どんなに記憶を掘り下げても、気が狂うほど素晴らしい思い出は湧いてこない。
 息を詰めて恭介の答えを待っていると、彼は、よくぞ聞いてくれたとばかりに微笑んだ。
「ファースト・キスの感触だよ。あの唇だけは一生忘れない」
 そう言って、萩子を見返す瞳は、確信に満ち溢れていた。あんたの唇が正にそれだ、と。
 束の間、萩子は口を開けたまま閉口した。
「……ちょっと待って。まさかとは思うんだけど」
 聞きたくないような、聞かなくても判っているような、強烈に嫌な予感に見舞われながら、恐る恐る尋ねる。
「人捜しするのに、一々、キスして確かめてた……とか言わないわよね?」
「言っちゃ悪いか?」
 他に方法が無いんだから仕方がない、と平然と返して寄越す恭介に、萩子は今度こそ完全に言葉を失った。
 まるで、シンデレラのガラスの靴。
 愛する人が残した唯一の手がかりを頼りに、執念で娘を見つけ出した王子……。
 最悪だ。
 最悪すぎて、いっそ天晴れだ。
 しかし、その労をねぎらってやる訳にはいかなかった。
「正直、かなり参ってたんだよね。最初のがあんまり良すぎた所為で、他の誰とキスしても、全然、感じねぇの。だから、欲求不満が溜まって溜まって、半狂乱ものだったんだけど――」
 恥知らずなボヤキを滔々[とうとう]とこぼしていた恭介は、ついと萩子に視線を合わせ、目元を和ませた。見つかったから、もう安泰だ、と。
「あんた、バカじゃないの?」
 萩子は乱れ打つ鼓動を懸命に抑えながら、決死の冷笑を作った。
「そんなふざけた理由で、私が、その幼なじみだとでも言うつもり?」
 ここで白を切り通せなかったら、前途は無いと思った。
 ほんの一時[いっとき]でも、恭介に心惹かれた自分。そんな弱みを握られたら、取り返しのつかない事になる。
 この最低最凶の幼なじみに一生ふり回され、纏わりつかれるなんて、生き地獄だ。
「悪いけど、あんたなんか知らないわよ」
「だろうな」
 予想に反して、恭介がケロリと首を縦に振る。俺だって、そんな奇跡は期待してねぇよ、と。
「何それ、言ってる事が変じゃない」
 少々拍子抜けしながら、萩子は怪訝に眉を寄せた。
「あんたが探してたのは、大好きな幼なじみなんでしょう?」
「まあね。でも、たった今、事情が変わった」
 頷いた恭介の顔に、会心の笑みが広がる。それを見た途端、萩子の背中を悪寒が猛スピードで駆け抜けた。
 それは、遠い日の悪夢。
 左の頬を赤く腫らした恭介と、唇から大出血させた恭ちゃん≠フ笑顔が、ピッタリと重なる。
「ツンと澄ましたその顔も、極上の唇も、落とし甲斐のありそうな、お堅い性格も、全部、俺好みな萩ちゃん≠ウえ居れば、顔も思い出せない幼なじみに用はない」
 王子様の心変わり。
 ガラスの靴が叩き割られた瞬間だった。
「……それって、遠回しに告白してるの?」
 萩子は、既にショート寸前の思考回路をノロノロと働かせた。
「いや、思いっきり直球のつもりなんだけど」
 苦笑いの恭介が、中世の騎士みたいに、萩子の足元に膝を着く。
「俺と付き合って欲しい」
 今まで見せた事のない一途な眼差しが、真っ直ぐに萩子を射た。それから、恭介をぶん殴った所為で赤くなった萩子の指に、そっと唇をつけ、上目遣いに見上げてくる。
 その凶悪にエロティックな面構えを斜めに見下ろしながら、萩子は、ただただ脱力した。
 全く、何という変わり身の早さだろう。厚顔無恥という言葉は、きっと、この男の為に作られたに違いない。
「返事は?」
 顔を上げた恭介が、傲慢な笑みを放る。断わられる可能性など、少しも憂慮していない強気な目。
「もちろん、ノーよ」
 握られた手を容赦なく叩き落とし、萩子はこれ見よがしの嘲笑を浮かべた。
「あんたみたいな本能丸出し男なんて、絶対に、お断り」
 人を馬鹿にするにも程がある。
 恭介が自分を――かつての幼なじみを捜していたのは、キスの相性が良かったという[けだもの]じみた理由だけで、別に、幼なじみである萩子に固執していた訳ではなかった。
 つまり、人捜しという名目は、女遊びを正当化する為の単なるこじつけ≠ノ過ぎず、恭介にとっての萩子の価値は、今も昔も、唇の感触だけだったという事になる。
 冗談じゃない。
 唇に惚れた≠ネんて、体が目当て≠ニ明言されたようなものではないか。そんな色ボケ男に、誰が靡くかコンチクショウ。
 無意識に般若の相になっていたのだろう。
 ちらりと萩子の表情を窺った恭介は、苦笑まじりの溜息をもらした。小さく肩をすくめ、立ち上がり様、謎かけみたいに呟く。
「萩と荻……」
 いくら似てるからって、自分の名前を間違えるか?
 その瞬間、萩子は弾かれたように恭介を見た。
「あれ、あんたの仕業!?」
 座席表に記された荻子≠フ文字。
 道理でおかしいと思った。あんな、有り得ないミス。
(でも、何の為に?)
 そこに思い至った時、恭介がぶっきらぼうに呟いた。
「何の興味もない女に自分からチョッカイ出すほど、俺は零落[おちぶ]れてねぇよ」
 それぐらい言われなくても解れ、と言いたげな、拗ねた唇。
「入学式の日、ステージの上で挨拶してた時から、ずっと気になってたんだよ。すっげぇ目つきの悪い女が、思いきり[がん]つけてきやがるから……」
 いつもの皮肉めいた口調で、恭介は言う。不愉快で、不可解で、気づけば、勝手に目が追っていた、と。
 萩子は唐突に目の前が開けるのを感じた。
 人をからかって、おちょくって、ふり回して。
 その目的は楽しむ≠アとではなかった。
 気になるから、構って欲しいから――好きだから、苛める。
 不器用で天邪鬼な子供の手口。それも、初歩中の初歩だ。
 真相は極めて単純だったのに、それを取り巻く要因が難解すぎた。
 互いに噛み合っていない記憶と、エキセントリックな成長を遂げた恭介の屈折した感情表現、プラス、節操なしな貞操観念が複雑化させた、あまりに間抜けな愛憎劇。
「恭ちゃんも、素直じゃないね」
 萩子は思わず笑ってしまった。笑うしかなかった。
 今までの苦悩は何だったのか? そんな虚しさをも超越した、底抜けの馬鹿馬鹿しさ。
 ずっと、恭介の掌の上で踊らされているとばかり思っていた。だけど、実際は、自ら踊っていただけだったのだ。
 在りし日の恭ちゃん≠ノ手を引かれ、惑わされて。
 少し、恭介を買い被り過ぎていたのかもしれない。昔の大人びた恭ちゃん≠フ面影ばかり追っていた萩子にとっては、思いも寄らない落ち≠セった。
「その呼び方、二度目って事は、期待してもいいんだろうな?」
 にやりと笑んだ恭介が、すかさずつけ込んでくる。
(二度目……ね)
 一瞬、胸を掠めた感傷を打ち消して、萩子はワザとらしさ全開の作り笑いを返した。
「期待は裏切られる為にあるって、知ってた?」
 ささやかなリベンジ、第二弾。
 例え、幼なじみという肩書が消えても、恭介が憎むべきクラスメイトである事に変わりはない。
 戦いは、まだまだ続くのだ。
 しかし、喉の奥で笑った恭介は、にっこりと唇を持ち上げた。
「萩ちゃんになら、何回裏切られても構わないけど?」
 一枚上手[うわて]の、[あで]やかな巧笑。耳元に落とされる囁きは軽薄そのもので、萩子はあっさり撃沈された。
「寒っ!」
 悶絶ものの恥ずかしさに全身が総毛立った時、午後の本鈴が盛大に鳴り響いた。
「ヤバイ! 次の授業、音楽室じゃん!」
 のんびり構えている場合ではなかった。
 はっと現実に返り、慌てて駆け出そうとするも、恭介に腕を掴まれる。
「つまんねぇ授業なんか、サボろうぜ?」
 心臓に悪い、甘い、甘い誘惑の微笑。
 でも、その奥に潜む彼の苦い本性を、萩子は嫌というほど心得ている。思い通りには決してならない。
「嫌よ! 皆勤賞狙ってるんだから!」
 素っ気なく振り切り、脱兎の如く走り出す。
「これだから、頭の固い女は……」
 恭介は、チッと舌を鳴らしながらも、大人しくついて来た。そして、あっという間に萩子を追い越す。
「もっと速く走れよ、萩ちゃん」
 相変わらずとろいな、と肩越しに厭味を寄越し、前を行く。
 その背中を見つめながら、萩子はそっと心に誓った。
 いつか、もっと、ずーっと時が経ち、恭介の愚行を心から許せる日が来たとしても、自分が本物の幼なじみ≠ナある事だけは、絶対に言わないでおこう。
 自惚れの強い、この女ったらしは、運命の女神すら懐柔させた、と本気で天狗になりそうだから。
終   - 2004.09.25 -

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