Written by Ao Kamisawa.
『Sweet Sweet Bitter』
第 7 話  [のぞ]んでないのに、蚊帳[かや][うち]
「……いってぇな、この暴力女」
 血の混じった唾を吐き捨て、恭介は眉間に深い皺を刻んだ。赤くなった頬を手の甲で押さえながら、恨みがましく言う。
「大体、何で、てめぇに殴られなくちゃならねぇんだ?」
「黙れ、人非人」
 萩子は言葉少なに斬り捨てた。
 暇つぶし≠ノ女の子と付き合う感覚も、それを口に出して言えてしまう無神経さも、到底我慢できるものではなかった。
 こんなロクデナシとは、早々に縁を切った方がいい。否、即刻切るべきだ。
 じんじんと痛む拳を密かに[さす]りながら、行こう、河合さん、と由香子を促す。
 しかし。
「待って、及川さん!」
 掴んだ腕を力いっぱい振り払われ、萩子は気勢を[]がれた。
「あなたこそ、誤解してるよ!」
 恭介の隣に寄り添うように立ち、由香子は毅然と言い切った。
「あたし、最初から知ってた……ううん、自分から頼んだの。遊びでもいいから付き合って欲しい、って! あたしね、実は、入学して間もない頃に、高見君にキッパリふられてるの。お前が相手じゃ本気になれない、って言われて……。すごく悲しかったけど、それでも好きだったから、遊ばれてもいい、って思えたの」
 だから、高見君は悪くないんだよ! と、潤んだ瞳で責められて、 萩子は言葉を失った。
「……嘘……でしょう?」
 最初から知ってた? 遊ばれてもいい? 何、言ってるの?
 軽くパニックを起こした萩子の頭に、更なる追い討ちがかけられる。
「そんな激しく誤解を招くような言い方するなよ、河合。女相手に、何、ぶりっ子してやがる」
 長い前髪をうざったそうに掻き揚げて、恭介が毒づいた。
「本気になれないなら、本気にさせてやる、って強引に迫ってきたのは、お前だったろうが。俺は据え膳食っただけだぞ」
 蔑むように由香子を見下ろし、鼻で笑う。恩着せがましく悲劇のヒロイン振るんじゃねぇよ、と。
 その、あまりにもあんまりな恭介の台詞に、萩子が思いきり顔を強張らせた時、当の由香子が、ぷっと吹き出した。
「そっちこそ、自己弁護なんて、見っともない真似しないでよね。人が真面目に告白してるのに、まずは味見が先だろ、なんて言っちゃって、いきなりキスしてきた鬼畜野郎は誰だったっけ?」
 いつもの明るい笑顔で、鈴を転がすような声で恭介を揶揄し、ゆったりと萩子に向き直る。
「高見君の言ってる事は嘘じゃないよ。彼が不特定多数を相手にしてるのも知ってたし、遊びでいいから付き合わない? って、あたしから持ちかけたのも本当。でも、さすがに暇つぶし′トばわりはムカついたから、ちょっと仕返ししてみただけ。ごめんね、及川さん」
 コケティッシュな微笑を投げかけられ、萩子はぽかんとした。
 明るく可憐な美少女が一転、百戦錬磨の大人の女≠ノ見えて。全くの別人みたいで。
 まして、彼女の口から発せられた言葉は、萩子の理解を遥かに超えていた。誰かと付き合うという行為を遊び≠ニして割り切れる、その精神構造が解らない。
 高校一年生で異性と付き合いがあるのは、今時、珍しくも何ともない。恋せよ乙女、万々歳だ。
 だけど、イガグリ頭の野球部員が爽やかに白球を追っているのと同じ放課後、同じ校内で、この二人は何をしていた?
 愕然と立ちすくむ萩子に、由香子は物柔らかな笑みを向けてくる。その余裕に満ちた風情がまた何とも言えず気詰まりで、萩子は手にしたままのジュースを手持ち無沙汰に持ち替えた。
 掌に溜まった水滴が筋となり、手首を伝い落ちる。
(何か、とんでもない人達と関っちゃったかも……)
 思わぬ成り行きに、萩子は困惑しきりだった。
 どうしたら、ここから、さり気なく消える事が出来るだろう? そんな、弱気な事ばかり考える。
「それにしても、ビックリしちゃった。こんな廊下でディープキスなんて、高見君も無謀な事するよねぇ。少しは、女の子の立場も考えてあげたら?」
 恭介に向かって、由香子は親しげな、遠慮のない口調で言った。せめて、あたしにしてくれたくらいの気配りはすべきだよ、と。
(それって、私には少しも気を遣ってないって意味?)
 萩子は我知らず眉をひそめた。
 確かに、放課後の教室≠ニ昼休みの廊下≠ナは、待遇に差があり過ぎるとは思うけど……。
 さらりと告げられた言葉の中に、何となく毒を感じてしまうのは、自分の被害妄想だろうか?
「うるせえよ」
 露骨な不機嫌顔で、恭介が大きく顎をしゃくる。
「気が済んだら、さっさと失せろ」
 図星を指されて痛かったのか、明るい栗色の瞳には、苛立ちと、由香子を牽制する鋭さが覗いていた。
 しかし、言われた本人は笑顔で首を振った。
「悪いけど、まだ済まないの」
 恭介の視線をぴしゃりと撥ね返し、[おもむろ]にこちらを見つめてくる。もう一つ、及川さんに謝らなくちゃいけない事があるのよ、と。
「私に?」
 今まで、微妙に蚊帳の外だった萩子は、突然、内側に招き入れられ、ますます戸惑った。
 己の胸に手を当てても、由香子に謝罪されるべき事柄は、何一つ思い浮かばない。一人のクラスメイトとして、同じ班の一員として、彼女とは仲良くやってきたつもりだった。
 だから、この告白はけっこう[こた]えた。
「廊下に落ちてたあの冊子ね、拾って、あなたの机の上に置いておいたの、あたしなの。ビックリしたでしょ?」
 ごめんなさいね、と言いつつ、由香子は悪びれた風もなく微笑んだ。森の小動物みたいに、愛くるしく小首を傾げたりして。
「……どうして?」
 動揺を隠し切れず、萩子は掠れた声で尋ねた。どうして、河合さんが?
 恭介の仕業だと思いこんでいた。あんな風に自分を責める、あるいは、見せつけるような行為。
 犯人が由香子だなんて、これっぽっちも疑っていなかった。こうして自白されても、動機が全然わからない。
 萩子の問いに、由香子は曖昧な笑みを返しただけだった。首を軽く[ねじ]って、恭介を見上げる。
「高見君って、心も体も自分の欲望に忠実すぎるのよね。だから、昨日のキスは本当に屈辱だった」
 可愛い声を沈ませて、微苦笑を浮かべて。
「あんなに優しくしてくれたのは、私の為じゃないんでしょう?」
 一縷[いちる]の望みに[すが]るような眼差しで問うた。
 恭介だけに向けられた、謎めいた糾弾。萩子は再び、蚊帳の外に放り出される。
 しかし、外側からでも十分わかってしまう真実が、由香子の瞳に表れていた。
(やっぱり河合さん、恭ちゃんの事……)
 口では遊びだなんて言っているけれど、彼女の目は真剣そのものだった。違う、と言って欲しい。切実に訴えている。
 それを振り切るように、恭介は眉一つ動かさず、無言のまま視線を外した。残酷なほど明確な、肯定の意志。
「やっぱりね」
 呆れたような、諦めたような溜息をこぼし、由香子はサッパリと笑った。だが、その表情とは裏腹に、涙が頬を滑り落ちる。
 とっさに背けられた由香子の横顔を、萩子は黙って見つめた。
 遊び≠ニいうスタンスは、彼女なりの自衛手段だったのかもしれない。自分の気持ちに応えてくれない薄情な男の傍に居るための、そうしながらも、プライドを維持していくための。
「及川さん、このジュース、[おご]らせてあげる」
 萩子の手からオレンジジュースのパックを引っ手繰り、由香子は、さっさと[きびす]を返した。
 渡り廊下に、萩子と恭介だけが残された。
- 2004.09.25 -
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