Written by Ao Kamisawa.
『Sweet Sweet Bitter』
第 6 話  二度[にど]あることは四度[よんど]ある
 我に返って、最初に込み上げたのは怒り。
 激しい憎悪、軽蔑、倦怠感。
 そして、遣り切れないほどの失望。
「こんなとこで、何してんの?」
 束の間の逢瀬を終えたらしい恭介は、渡り廊下のど真ん中に立ち尽くしていた萩子に、悠然と問いかけてきた。さっきまで、あんな濡れ場を演じていたとは思えぬ涼やかさで。
「別に、何も」
 にわかに嫌悪が蘇り、萩子は冷淡に吐き捨てた。恭介の横を[]り抜け、足早に歩く。
「何、怒ってんだよ?」
 萩子の早足とは対照的に、上履きの[かかと]を潰した恭介の靴音が、パッタパッタと能天気な調子でついて来た。その足音さえも、いやに[かん]に障る。
 萩子は恭介を無視して歩き続けた。
 こんな最低男、顔を見るのも、声を聞くのも嫌。言葉を交わすのも忌まわしい。
 全く、三つ子の魂百まで、とは良く言ったものだと思った。
『やっぱり、萩ちゃんのマシュマロが一番美味しい』
 あの日、幼い恭介がぬけぬけと言い放った台詞。今まで気にも止めなかったけれど、一番≠ェあるという事は、当然、二番≠竍三番≠烽ったという事だ。
 筋金入りの色好み。救いようのない、バカ男。
 昨日の放課後、恭介の胸に[もた]れて甘い笑みを浮かべていた由香子は、きっと知らないのだろう。自分が天秤に掛けられていたなんて……。
 汗をかき始めたオレンジジュースのパックを、萩子はそっと指先でなぞった。パタリと落ちた雫が、乾いたコンクリートに染みを作る。
「言いたい事があるんなら、はっきり言えよ」
 恭介の足音が乱暴に早まったかと思うと、耳元で舌打ちされた。感じ悪い女だな。
 その一言にカチンときて、萩子は横目に恭介を睨みつけた。
「くたばれ、極悪人」
 彼のお望み通り、言いたい事をはっきり言って、すぐさま視線を戻す。すると、ほんの一呼吸置いて、恭介が大笑いし出した。
「何だ、今のも見てたんだ?」
 可笑しくて堪らないというように肩を揺らし、唇の[はし]を厭味ったらしく吊り上げる。
「そういえば萩ちゃん、昨日も物欲しそうな顔で見てたもんなぁ? 俺と河合のキス」
 あからさまな嘲笑を向けられ、萩子は唖然として立ち止まった。言うに事欠いて、何を[]かすか、この馬鹿は?
 そこへ、恭介が煽るように続けた。
「あんな食い入るように見つめられて、すっげぇ、興奮しちゃった」
 やや前屈みの姿勢で萩子の顔を覗き込み、ワザとらしく唇を湿らせる。
「最っ低!」
 萩子は怒りに任せて右腕を振り上げた。しかし、恭介の左腕にあっさりと掴まれる。
「萩ちゃん、男いないだろ?」
 萩子の手首をぎっちり握ったまま、恭介は低く笑った。もしかして、ファースト・キスもまだ?
「は?」
 恭介の指を[ほど]こうともがいていた萩子は、思わず、間の抜けた声を出した。
「何言ってんの? 私のファースト・キスは――」
 あんたが奪っていったんじゃない! と、抗議するより早く、萩子の眼前を栗色の影が横切った。
 唇を覆う、あえかな熱。
 髪に差し込まれた、したたかな指。
 後ろ頭を押さえつける、大きな掌。
(何なの、これ?)
 自分の身に何が起きている?
 呆然と自問すると同時に状況を[かい]し、萩子は大きく目を見開いた。
(嫌っ……!)
 恭介の胸を両腕で突っぱね、勢い良く顔を背ける。
 しかし、唇には確かに恭介の感触が残されていて――。
 また、やられた。
 萩子はきつく目を瞑った。目頭がじわりと熱を帯び、鼻がつんと痛くなる。
「信じらんねぇ……」
 わずかな間の後、恭介が放心したように呟いた。その他人事[ひとごと]みたいな言い[ざま]に、萩子は間髪容れずに突っ込んだ。
「信じられないのは、あんたの頭よ!」
 こぼれる悔し涙が口角に流れ込み、ほのかな塩味が広がる。
 もう、嫌だ。
 どうして恭介とのキスには、こうも変な味≠ホかりつきまとうのだろう?
 ハンカチで目元を[ぬぐ]い、唇も[]こうとした時、不覚にも、四度目のキスを奪われた。
 しかも、ついさっきの触れるだけのキスじゃない。
「んっ――!?」
 何度も強く唇を[]しつけられて、無遠慮に割り開かれて。まるで、じっくりと味見でもされているような、深い、深いキス――。
 恭介の腕にきつく閉じ込められて、逃げる事も適わない。
 考える事すら、儘ならない。
 酸欠になりそうなくらい長いこと口づけられて、ようやく唇が離れた時には、軽く目眩がした。体中の力を吸い取られてしまったみたいに、膝が小刻みに震える。
 萩子は濡れた唇で忙しく空気を吸いこんだ。大きく肩を上下させ、呼吸を整える事だけに意識を集中させる。
 何も、考えたくない。
 何も、感じたくない。
 それなのに、頬に伸ばされた恭介の指が、萩子の感覚を否応無しに呼び覚ます。
 わずかに身を引き、抵抗を試みるも、あっさりと顎を掴まれ、上向かされた。
「見つけた」
 ぼやけた目に映るのは、愉悦を[たた]えた満面の笑み。
「何……を?」
 苦しい息で問いかけた時、萩子の視界に人影が飛びこんできた。
 赤味がかった茶髪、こちらを見つめて、身動[みじろ]ぎしない小柄な体。
(違う!)
 反射的に恭介の鳩尾[みぞおち]に膝蹴りを入れ、萩子は思い切り叫んだ。
「違うの、河合さん!」
 げぇほげほと、涙目で咳き込む恭介を捨て置き、萩子は一散に由香子に駆け寄った。
「あの、これには訳が――!」
「ごめん、あたし、邪魔するつもりじゃなかったの。もうすぐ予鈴が鳴る時間なのに、及川さん戻って来ないから、心配になって……」
 笑顔で繕おうとする由香子に、萩子は大きく[かぶり]を振った。
「本当に、違うの! 今のは、その、事故みたいなもんで、私と高見君は何でもないから!」
 どんな弁解をしても、傷つけてしまった事に変わりはない。でも、せめて、身の潔白だけは信じて欲しかった。
「お願い、誤解しないで!」
 深々と頭を下げる。
「違わねぇよ」
 そんな必死の萩子を嘲笑うかのように、復活した恭介が例の調子で口を挟む。
「いいから、あんたは黙ってて!」
 萩子が鋭い一瞥を投げつけた時、由香子が乾いた声で呟いた。
「……捜しもの、見つかったんだ?」
「え?」
 何の事? と、首を傾げた萩子の横で、恭介が頷く。
[わり]い、河合」
 少しも悪いと思っているように聞こえない、酷く冷静な口調。紡がれたのは、耳を疑いたくなるような一言だった。
「もう、暇潰しは要らない」
 午後の予鈴と恭介の頬が鳴ったのは、同時だった。
- 2004.09.22 -
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