翌朝、教室に入ると、何処かに落としてきたはずの『進路の手引き』が、ご丁寧にも萩子の机の上に置かれていた。
お前が見ていた事くらい、気づいてた。
面と向かって言われるより、よっぽど悪質だと思った。
*
「どうしたの? 具合でも悪い?」
昼休み、机の上に突っ伏していたら、優しく声をかけられた。
「ううん。ちょっと寝不足なだけ」
のっそりと体を起こし、萩子は笑ってみせる。
ありがとう、河合さん――。
昨日の夜は、本当に眠れなかった。
重なり合う二人の影が瞼にちらついて、息苦しくて。
でも、それ以上に、自分が恭介を好きだったという事実に打ちのめされて。
あの忌まわしいキスから十年、萩子は確かに恭介を憎んでいた。
再会してからも、それは変わらなかった。変わらないはずだった。
今だって、冷静に考えるまでもなく、恭介が自己中心的で皮肉屋の性悪男だという事は良く解っている。あんな男を好きになる女は大馬鹿者だと、客観的に断言できる。
なのに、いつ、何処で狂ってしまったのだろう?
あんな場面を見せつけられるまで、自分の気持ちに気づけなかったのもマヌケだけれど、気づいた時にはもう他人のもの≠セったなんて、お粗末過ぎて笑えやしない。
しかも――。
「そう? なら、いいんだけど……」
朝から元気なかったみたいだから、と本気で心配してくれる由香子に、萩子は堪らなくなる。
もっと性格の悪い子だったら、きっと、ずっと楽なのに。性悪な恭介に相応しいと、厭味の一つも言える相手だったら、どんなにか……。
「ホント、大丈夫だよ。それより、河合さんこそ、目、赤くない?」
重苦しい吐息を飲み込んで、萩子は、さりげなく話題を逸らした。
綺麗にマスカラが塗られた由香子の目元を、しげしげと見つめる。ほんのりと紅い、心持ちふっくらした瞼。
「ああ、昨日、コンタクト外し忘れちゃって」
由香子は軽く眉を寄せ、私も眼鏡にしようかな、と笑った。
(私も≠チて、誰と――?)
一瞬、不思議に思って、でも、すぐに解ってしまった。
授業中にだけ、眼鏡をかける恭介。細い銀縁の、シャープな横顔。
「及川さんは、目、悪くないの?」
「うん。あんまり勉強しないからね、両眼ともに一.五」
小さく肩をすくめ、萩子は席を立った。
「購買行ってくるけど、何か買ってくる?」
コーヒー牛乳で眠気覚まそうかと思って、と真顔でおどけると、由香子はクスリと笑った。
「それじゃあ、オレンジジュース、お願いしていい?」
「了解」
しかつめらしく敬礼して、萩子は教室を後にした。
(大丈夫、うまく笑えた)
大股に歩きながら、自分の健闘を称える。
口惜しいけれど、由香子は、恭介には勿体ないくらい良い子だ。
あんなに可愛くて明るい子が傍にいたら、彼の曲がりくねった根性だって真っ直ぐに戻るかもしれない。
(あんな最低まで落ちた男を更生させるなんて、私じゃ、絶対、無理だもん。っていうか、面倒臭くて、やってらんない)
強がりという名の冷笑を浮かべ、萩子は廊下を足早に歩き……気づけば、全力疾走していた。
(泣くな、萩子!)
滲みそうになる涙を気合で押し戻し、唇を噛み締める。
恭介は、なぜ萩子に絡んできたのか?
自分の事が好きなのかも……という選択肢が消えた今、その謎は益々深まった。
しかし、最早、そんな事は、どうだっていい。自分は今、ようやく恭介の長い長い呪縛から解き放たれたのだ。
彼の心の中に、及川萩子は居なかった。
昔の萩子も、今の萩子も。
ただ、それだけの事だ。
*
自販機で買った紙パックのジュースを二本、軽く放り上げては受け止めながら、萩子は中庭に面した渡り廊下を歩いていた。
新緑に降り注ぐ初夏の陽射し。
赤茶けたベンチで昼寝する男子生徒や、花壇の縁に腰掛けて、お喋りに興じる女子生徒たち。
いつも通りの長閑な中庭の風景。
(今度、ここでお弁当食べようかな?)
いかにも健全な高校生活≠楽しんでいるように見える彼らの姿を、萩子は憧れにも似た思いで眺めた。
入学以来、ずっと恭介の言動に翻弄され、心の平静を欠いていた日々。そろそろ、安らかな気持ちになって、普通の女子高生≠しよう。
あの木の下辺りがいいよね、などと見当をつけながら、何気なく視線を移動させた先に、萩子は、またしても見てはいけないものを捕らえてしまった。
(こんな真っ昼間から、何やってんのよ!?)
中庭の一角、少し奥まった――とはいえ、十分、公共の場と呼べる場所で、目の覚めるような金髪の女子生徒が男子生徒にしな垂れかかっていた。
上履きのラインの色から、少女が三年生だという事が判る。一方の少年は、まだ一年生だ。
その内、少女がキスをねだるように顔を上げた。それに、少年が馴れた仕草で応じて……。
「ちょっと、ヤダ!」
慌てて顔を背けかけた時、萩子は、ふと、強烈な既視感に襲われた。いや、錯覚などではなく、今のと全く同じ¥景を確実に見ていると思った。
それも、つい昨日。
(まさか!?)
萩子は裸眼視力一.五をフルに凝らして、少年を見た。
少女の腰に回した腕の感じ、傾けた首の角度、わずかに丸めた広い背中。
そして、ゆっくりと持ち上げた顔は――嫌な予感、大当たり。
「……恭ちゃん?」
思考が、一時停止した。
- 2004.09.10 -