Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 3 話  最初[さいしょ]晩餐[ばんさん]
 サイファが目を覚ました時、日は既に西へ傾いていた。夕日が照らし出す長椅子の上に、監視役の姿は無い。
(一晩中いるって言ったのはハッタリか)
 勢いをつけて起き上がると、上掛けが床に滑り落ちた。
(……あいつが掛けてくれたのか?)
 意外に思いながらも、拾った上掛けを寝台の上へ無造作に放る。すると、布の下からバサバサと物音がした。
「あ、ルド! そこに居たのか!」
 サイファは慌てて上掛けを[めく]った。空いた蒲団の隙間から、白い鷲が這い出てくる。
「ごめんな、ルド」
 抱き上げて、その体を撫でてやると、鷲は大人しく身をゆだねた。
 皇帝に献上されたものの、自分を捕らえたサイファにしか服従しないこの鳥を、ハシリスは、なぜか大層気に入ったようだった。
 彼女は、サイファにその面倒をみるよう命じ、この不敬な鷲にルド≠ニいう名を与えた。ルドとは、神官が神に祈りを捧げる時に用いる神聖語≠ナ、正直≠意味する。
 以来、サイファは自室でルドを放し飼いにしていた。
 時折、部屋を訪ねてくる皇族や宮人たちに襲いかかっては、大いに不興を買っているようだが、そんな事は知ったことじゃなかった。誰が何と言おうと、ルドは皇帝に召された I 種であり、同郷の友なのだ。
 ルドを放してやると、サイファは廊下に顔を出した。扉を開けた途端、肉を焼く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
 間もなく、晩餐の時間だった。水差しや銀食器を抱えた II 種たちが、宮人の指図に従い、忙しそうに行き来している。
(腹減ったな……)
 美味しそうな料理の匂いで、サイファは急に空腹を覚えた。部屋に引き返し、再び寝台に突っ伏す。
(今日は、誰の見世物になるんだろう?)
 枕に顔を[うず]め、サイファは盛大な溜息を漏らした。
 隣国からの使者や大臣を伴う晩餐会で、皇帝の横に座して食事を取るのが、サイファの数少ない仕事の一つであった。まるで、食卓に飾られた花のように、好奇の視線に[さら]されながら……。
 それは、サイファにとって最も屈辱的な時間だった。
 彼らの目が、自分の顔や胸元だけでなく、[あぶら]で濡れた唇や肉刺[フォーク]を受け入れる為に開いた口腔[こうこう]にまで集まるのを、サイファは痛いほど感じていた。田舎のゴロツキ共でさえ、そんなあからさまな欲望を向ける事は無かったというのに――。
 そして、更にサイファを苦しめたのは、その貪欲なまでの眼差しに、ハシリスが少しも気づいてくれない事だった。食が進まない彼女に、きちんと食べなくては駄目よ、と優しく諭したりする。
 サイファが夜に家族を想うのは、晩餐で打ちのめされた後だからかもしれない。思い出す内に眠れなくなり、ここから[のが]れる事しか考えられなくなる。
 村にいた頃は、どんなに嫌な事があっても、家族の為に強くあろう、と思えた。だが今は、いくら頑張っても、この青い檻から出る事は適わない。好い加減、自分で自分を励ます事にも、疲れてしまった。
 その時、柱時計が十八時を告げた。
 晩餐会に備えて、身支度をさせられる時間だった。
 しかし、十八時半が過ぎ、ついには晩餐が始まる十九時になっても、一向にお呼びがかからなかった。
(忘れられてんのかな?)
 だったら行かないぞ、と嬉しいような、心細いような気持ちでいると、扉が叩かれた。
(やっぱり来たか……)
 諦めの溜息を[]いた時、ユウザが老翁[ろうおう]の宮人と、数名の II 種を従えて入ってきた。
「食事の時間だ」
 何時[いつ]まで寝ている、と苦笑を漏らしつつ、サイファの頭を軽く小突く。
 いつもなら、彼女に近づいただけで容赦ない攻撃をしかけるルドが、今日はなぜだか大人しい。
「痛い」
 サイファは八つ当たり気味にユウザを[]めつけ、体を起こした。それと同時に、目を見開く。
 宮人たちが彼女の部屋に食卓を設えていた。
 汁物[スープ]皿からは温かな湯気が流れ、こんがり焼けた豚肉が熱い鉄板の上でじゅわじゅわと音を立てている。
「……ここで食べるのか?」
 返ってくる答えが判っていても、確認せずにはいられなかった。
「そうだ」
 ユウザは深緑[ふかみどり]外衣[マント]をバサリと翻し、当前のように卓に着いた。
 城に来てからというもの、皇帝以外の人間と――まして、二人きりで食事をするのは初めてだった。
 サイファは寝台から飛び下りると、ユウザの向かいにおずおずと腰を下ろした。
 大食堂の長い食卓[テーブル]とは違い、手を伸ばせば届くところに相手がいる。その距離が、何とも言えず懐かしい。
 サイファは心持ち浮き浮きしている自分を感じた。湯気の向こうにある無愛想な顔でさえ、いつもと違って温かく見える。
 給仕をしてくれたのは、ユウザ付きの召使い達だった。年老いた宮人と、サイファよりやや年下の II 種の少女が、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
 そんな中、二人は黙々と食べた。けれども、その沈黙は少しも苦にならなかった。
 ユウザの目が口元に注がれる事は一度も無く、むしろ、食べる事に専念している彼を、サイファの方が盗み見た。
 ユウザの食いっぷりの良さは、サイファの目に実に清々しく映った。自分が作った料理をこんな風に平らげてもらえたら、きっと幸せだろう、と思う。
「何を見ている?」
 サイファの視線に気づいたユウザが、眉根を寄せた。
「あ、いや、陛下はどうしていらっしゃるのかと思って……」
 サイファはとっさに違う質問でごまかした。先ほどから、気になっていた事ではあったのだが。
「皇太子と神官長、二人の皇子殿下とご一緒だ」
「そうか……。親子水入らずで、[うらや]ましいな」
 サイファが溜息まじりに言うと、ユウザはわずかに顔を上げ、そんなに良いものでも無い、と呟いた。
「どういう意味だ?」
 サイファが首を傾げると、ユウザは杯に口をつけ、沈黙を守った。うっかり口を滑らせてしまった自分を、恥じているようでもあった。
(深入りしたら[まず]いのかな?)
 サイファは湧き上がる好奇心に[ふた]をして、葡萄酒を飲んだ。甘苦い雫が喉を滑り落ち、じんわりとした熱を伝える。
 美味しい、と思った。
 いつもは腹に押し込むだけの宮廷料理を、今日、初めて味わった気がした。
「この酒、美味いな」
 サイファがにこりと笑うと、ユウザは食事の手を止め、緑眼を細めた。
「そうだな」
 彼がこんな風に笑うのを、サイファは初めて見た。それなのに、その顔の優しさに既視感を覚える。
(誰かに似てるような……)
 しかし、何処で見たのか思い出せない。
(ま、いいか)
 その内、思い出すことにして、サイファは考える事を放棄した。難しい事をくよくよと考え過ぎないのが、彼女の信条である。
「ところで、本当に、ここで一晩過ごすのか?」
 サイファが話題を変えると、ユウザは、ああ、と頷いた。
「別に、この部屋に泊まりこむ訳では無い」
 露骨に嫌な顔をしたサイファに、心配するな、とつけ加える。
「じゃあ、何処で寝るんだ?」
「廊下で」
「あんた、馬鹿か!?」
 しれっと答えたユウザに、サイファは椅子を鳴らして立ち上がった。
「あたしの為に、どうして、そこまでするんだよ?」
「お前の為ではない」
 お前が居なくなれば陛下が哀しむ、と素気[すげ]なく言われ、サイファは微かに自尊心が傷つくのを感じた。
「分かったよ! 今日は逃げない。あんたに廊下で寝てられると思ったら、こっちも気分が悪いからな!」
 ユウザに向かって思いきり憎まれ口を叩くと、給仕をしてくれた宮人たちへ礼を言い、さっさと寝台に寝転んだ。
「……お前、先ほどから寝てばかりいるな」
 食器を下げさせながら、ユウザが呆れたように言う。
「だって、仕方ないだろう? 夜は眠れないんだから――!」
 言ってしまってから、サイファはハッと口を結んだ。泣き言なんて、言いたくないのに。
「眠れない?」
 ユウザの探るような瞳が、狼狽[うろた]えるサイファを捕らえた。
 短い沈黙が落ちる。
 気を利かせてくれたのか、老齢の宮人はユウザに一礼し、II 種の少女を連れて出ていった。
 老翁の眼差しは優しく、少女の顔には子供らしい不躾[ぶしつけ]な興味が透けて見えた。
「――なぜ?」
 足音が十分遠ざかってから、ユウザが口を開いた。
「そんなの、あんたに関係ない」
「ある。眠れないからといって、城を抜け出されては迷惑だ」
「別に、眠れないから逃げる訳じゃない!」
 サイファは声を荒げた。
「では、なぜ逃げる?」
 彼女の激しい口調に流されることなく、ユウザは淡々と問いかけてくる。
 その瞳は良く磨かれた鏡のようだった。目の前のサイファだけを忠実に映し、自身の感情は一欠片も見せない。
 それでも、サイファにとって救いだったのは、彼の目の色が昨夜感じた冷たさとは違い、真実を見極めんと、真剣だった事だ。
「ここに居るのが、辛いから……」
 サイファは言葉を濁した。自分が欲望の対象として見られている事実を、[みず]から口にする事は出来なかった。
「一体、何が不満だというのだ? よもや、陛下にお仕えしたくないとは言うまいな?」
 見当違いな容疑をかけられ、サイファは枕に顔を押しつけた。
 涙が出そうになった。
 なぜ眠れないのか。逃げたくなるのか。そして、逃げ切れないのか――。
 全てを打ち明ける気など、毛頭ない。ただ、気づいてほしかっただけだ。
 決して外すことの出来ない足枷[あしかせ]が、自由のみならず、この身をも[むしば]んでいる事を。
「……サイファ。お前は、どうしたいのだ? どうすれば、楽になれる?」
 ユウザの戸惑いを含んだ声が、サイファの頭のすぐ上から降ってきた。外衣[マント][さば][きぬ]ずれの音が、耳元を掠める。
 楽になれる? という一言で、サイファは自分の苦しみが彼に伝わった事を知った。[こら]えていた涙が、一気に溢れ出す。
 嗚咽[おえつ]を漏らすサイファを、ユウザは黙って見守っていた。頭を撫でるでもなく、慰めの言葉をかける訳でも無い。
 しかし、彼の視線が自分の全てを包み込んでいるのを、サイファは肌で感じていた。正に、見る事で守られている感じ。
「お前は、どうしたいのだ?」
 もう一度、同じ問いを繰り返される。
「……家に帰りたい」
 サイファは掠れた声で呟いた。普通に言ったつもりなのに、それは酷く惨めに響いた。
「分かった。陛下にお願いしてみよう」
 あっさり承諾されて、思わず涙で濡れた顔を上げる。
「……いいのか?」
 半信半疑で尋ねると、ユウザは口元に笑みを浮かべた。
 その瞬間、サイファは、彼の中にハシリスの面影を見た。毅然とした態度に潜む、愛情深い微笑み――。
 さすが、直系に近いという血は伊達じゃない。
「勝手に逃げ出されるよりはましだ。それに、体を壊してしまっては、満足にお仕えする事も出来まい?」
 すぐに、平素の無表情に戻ってしまったが、その声は普段よりずっと優しげだった。
「うん……」
 サイファは小さく頷いた。
 あくまで奴隷としての扱いだったが、それが彼なりの思い遣りだったのだろう。深く追求せずに、サイファの気持ちを[おもんぱか]ってくれている。
 その心遣いだけでも、サイファはだいぶ救われた気がした。
- 2003.04.02 -
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