Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 4 話  [おも]いの[かたち]
 サイファの帰郷の許可を得るためハシリスの居室を訪ねると、先客があった。彼女と晩餐を共にした皇太子、アグディル・ノースと神官長のバスティルだ。
「ユウザではないか!」
 長椅子に寄りかかっていたアグディルは、ユウザを見るなり、満面に喜色を浮かべた。
 黒い羅紗[らしゃ]外衣[マント]を羽織り、精悍[せいかん]な額に皇位継承者の証である紅玉を覗かせている。
 ユウザはその場に片膝を着くと、まず皇帝に一礼し、それから皇太子と視線を合わせた。
「お久しゅうございます、父上」
「うむ。実に半年ぶりになるか? 職務が忙しいのも分かるが、たまには離宮にも顔を見せよ」
 アグディルはしかつめらしく言ったが、その顔には笑みが絶えない。
 ハシリスの I 種として、皇帝の居城であるフラウ城で暮らしているユウザは、皇太子が住まう離宮、カレナ城には滅多に足を運ばなかった。親子といえども、もう随分長いことすれ違う生活が続いている。
「防衛隊長のお役目も終わりましたので、近い内に母上のご機嫌伺いに参りましょう」
 ユウザが答えた途端、室内に不穏な空気が流れた。
「……母上、ユウザの任を解いたとは、どういう事です?」
 アグディルは烏羽[からすば]色の瞳を鋭く細め、肱掛椅子で[くつろ]ぐハシリスを見やった。
(父上は、まだ、ご存じ無かったのか)
 てっきり、今夜の晩餐の席で話が付いているものと思い込んでいたユウザは、舌打ちしたくなった。
「ユウザに、サイファ・テイラントの教育係になってもらったの。彼女が逃げてもすぐに見つけ出してくれるし、適任でしょう?」
 気色ばむアグディルを全く意に介せず、ハシリスは白檀[びゃくだん]の扇子でゆるゆると扇いだ。
「帝都の防衛を[おろそ]かにしてまで、あの奴隷娘の世話をせよと?」
 アグディルの唇が皮肉に歪む。
「あら、サイファの教育は、防衛上、重要なことですよ。逃げ出したあの子を探して番兵が歩き回れば、持ち場の警備が手薄になるもの」
「そんなもの、娘の部屋に見張りを置けば済む事でしょう」
「駄目よ。それでは根本的な解決にならないわ。彼女には優秀な I 種になって欲しいのですから」
「ならば、初めから教育係をつければ良かったのです! 帝都防衛隊だって、新体制がようやく軌道に乗ったところだというのに、なぜ、その功労者であるユウザを排除せねばならないのです!?」
 アグディルは憤懣[ふんまん]をぶちまけるように、腕を振り上げた。その拍子に、外衣[マント]がぶわりと舞い上がる。
「兄上、帝都の防衛はナザル・ベークが引き継いだのです。ご心配には及びません」
 それまで、ハシリスの横で大人しくしていたバスティルが、執り成すように口を挟んだ。
「黙れ! 私は後任の心配をしているのでは無い!」
 逆上したアグディルには、バスティルの微笑みも通じない。
「では、何が気に入らないのです?」
 ハシリスが小首を傾げた。
 皮肉でも何でもない、純粋な問いかけ。それが、アグディルの怒りを助長する。
「全てだ! 母上はユウザを可愛いと[おっしゃ]りながら、奴隷にまで[おとし]め、いいように振り回していらっしゃる!」
 アグディルの言葉尻がわずかに震えた。
 それは、あの台詞が吐き出される合図だ。ユウザの嫌いな、父の常套句。
「ユウザがセシリアの子だから、こんなに辛く当たられるのか!?」
 激高した父の声が、室内に反響した。
 セシリアの子だから――。
 その言葉は、どんなに鋭い突きよりも、素早く、深く、ユウザの胸を貫く。
(父上、貴方は何もご存じない……)
 ユウザは、湧き上がる激しい感情を、拳を握って抑えこんだ。
 母のセシリアは、古くから皇族に仕える宮人の名家、イレイズ家の次女だった。黒髪緑眼の繊細な美女で、今は亡きアグディルの父、ノース公が、存命中、 I 種として飼っていた。
 当時、若干十二歳だったセシリアに、中年の夫が夢中になる様を、ハシリスは歯痒い思いで見ていた。
 夫の心変わりを嘆き、その身に[すが]るような真似は、妻であり、皇帝である彼女の誇りが許さなかった。
 しかし、行き場を失っても、決して消えることの無かったハシリスの嫉妬心は、夫を素通りし、相手のセシリアに向けられた。
 妻としての立場を危ぶみ、[はずかし]めた少女――。
 ハシリスは、セシリアを不敬罪に問い、その後、夫が世を去るまでの六年間、地下牢に幽閉した。
 そうする事で、一度は救われたかに見えたハシリスの嫉妬≠ェ、完全なる憎しみ≠ノ姿を変えたのは、夫だけでなく、愛する皇太子の心まで奪われた時だった。
 薄倖なセシリアに、同情以上の感情を抱いたアグディルは、ハシリスの猛烈な反対を押し切って、彼女を[めと]ったのだ。
 それが、今から二十三年前。アグディルが二十二歳で、セシリアが十八歳の時である。
 以来、ハシリスとアグディルの間に、小さな亀裂が生じた。
 それから半年後に、忘れ形見のバスティルが生まれ、ハシリスの愛情がアグディルから離れたことで、親子の断絶は決定的となった。
 こうして二人が顔を合わせるのも、政務の都合上、やむを得ないからである。
「お言葉ですが、父上。私にとって、陛下にお仕えする事は喜びなのです。 I 種としてお傍にいられる事を誇りに思いこそすれ、卑下した事など一度もありません」
 ユウザは務めて冷静に進言した。こうした経緯を、彼は外でもない、ハシリス自身の口から聞かされている。
 だからこそ、祖母の苦しみも、自分に向けられる切ない愛情も、身に沁みていた。隠し切れない、憎悪の欠片でさえ――。
 それら全てをひっくるめて、彼は祖母を愛し、愛されているのだ。アグディルは、それを知らない。
「アグディルよ。[わらわ]はユウザを愛しているわ。誰よりも深く愛しているからこそ、その身を隷属させずにはいられないのです」
 そう告げたハシリスの声は、氷の張った湖のように静かで、荘厳に響いた。
 アグディルは無言で立ち上がった。扉へと向かうすれ違い[ざま]、ユウザの頬をなぞっていく。
 その指が小刻みに震えていたように思うのは、きっと気の所為では無いだろう。
「……分かりました。許可しましょう」
 ハシリスは疲れの色を見せながらも、穏やかに微笑した。
「ありがとうございます」
 丁寧に辞儀を返し、ユウザは胸を撫で下ろした。
 アグディルとの間に一騒動あったため、彼が当初の目的を果たしたのは真夜中になってからだった。
「ただし、条件があります」
 ほっとしたのも束の間、ハシリスが悪戯[いたずら]な笑みを浮かべる。
「何でしょうか?」
 ユウザは微かに眉を寄せた。嫌な予感がする。
「そなたがサイファの帰郷に同行し、必ずや、彼女を連れ帰ってくる事です」
「しかし、私が都を離れたのでは……」
 帝都防衛の引継ぎも済んでいないことですし、と口ごもると、ハシリスは鷹揚に笑った。
「これは命令です」
「……御意」
 ユウザは口をへの字にしてうなずいた。すると、ハシリスがゆらりと立ち上がり、彼の右手を両手で包みこんだ。
「ユウザや。絶対に、サイファと一緒に無事に戻ってきておくれ。これは祖母からのお願いです」
 真っ直ぐに向けられたハシリスの瞳は、真摯[しんし]だった。
「はい」
 ユウザは小さく一息すると、幼子の頃に戻ったように屈託のない笑顔を見せた。はい、お婆様――。
 こうして笑うことがハシリスの慰みになると知ったのは、いつの事だったか。
(もう、眠ってしまっただろうか?)
 サイファの部屋の前まで来たものの、ユウザは戸を叩こうか、叩くまいか、迷っていた。
 あれほど帰郷を願っていた彼女に、一刻も早く吉報を伝えてやりたかったのだが、若い娘の部屋を深夜に訪ねるというのは、かなり気が引ける。
(出立は明後日だし、明日の朝にでも知らせれば良いか)
 自分を納得させかけた時、いきなり、目の前の扉が開いた。
「あっ! やっと来たな、この嘘[]き!」
 浅葱[あさぎ]色の寝間着姿のサイファが柳眉をつり上げる。ついさっき、あんな風に身も世もなく[むせ]び泣いていたのが嘘のようだ。
「お前に嘘[]き呼ばわりされる覚えは無いが……」
 何か約束したか? と、ユウザが問うと、サイファは唇を突き出した。
「一晩中ここに居るって、言っただろう?」
 だから部屋で大人しくしてたのに、とぼやく。
 それを聞いて、ユウザは思わず吹き出した。
「私に廊下で寝ていられると、気分が悪いのでは無かったのか?」
 微苦笑しながら指摘すると、サイファは、それもそうか、と手を打った。
 どうやら、言われて初めて気づいたようだ。全く、とぼけた娘である。
「じゃあ、今頃何しに?」
 改めて問われ、ユウザは用件を思い出した。
「陛下から、帰郷の許可をいただいた」
「本当か!?」
 サイファのパッチリした瞳が、さらに大きく見開かれる。
「出立は明後日の早朝。期間は移動を含めた一週間だ」
「やった!」
 サイファは跳び上がらんばかり……否、本当に飛び跳ねて喜んだ。銀色の長い髪が、動きに合わせて軽やかに揺れる。
「ただし、私が同行するのが条件だ」
 拒絶されるのを予想しつつ、ユウザは素っ気なくつけ足した。
「分かった」
「……私が一緒で、嫌ではないのか?」
 思いの[ほか]、素直に頷かれ、ユウザは自分から聞いてしまった。
「何で? あんたのお陰で村に帰れる事になったんだぞ?」
 感謝こそすれ、嫌がる理由がどこにある? とサイファはきょとんとした。
「いや。お前が良いなら、別に構わぬ」
 サイファの利己的なまでの率直さに、ユウザはある種の潔さを感じた。
 正直≠ェ最善とは思わない。
 正直ゆえに相手を傷つけ、傷つけられる事は、間々あるから。
 しかし、傷つく事を恐れず、自分の想いを形に出来たなら、それだけで、簡単に埋まる溝もあるのだ――。
「用は、それだけだ」
 ユウザが[きびす]を返すと、突然、外衣[マント]を掴まれた。危うく、首が絞まりそうになる。
「――何だ?」
 軽く咳きこみながらふり返ると、頬に軽い接吻[キス]が落とされた。あまりの短さに、一瞬、何が起きたか判らないくらいの。
「……ありがとう」
 消え入りそうな声で囁いて、サイファは寝間着の裾を翻した。勢いよく寝台にもぐりこみ、頭から夜具を被る。まるで、子供みたいだ。
「お休み」
 ユウザは口元に微笑を浮かべながら、静かに扉を閉めた。
(確かに、役得かもしれぬな)
 ユウザは左の頬を、そっと掌で覆った。微かな温もりを[のが]さぬように……。
- 2003.04.05 -
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