サイファは眠れぬ夜を過ごしていた。
だが、それはいつもの郷愁ではなく、帰郷できる事の喜びと興奮からだった。
(早く、明日にならないかな……)
朝になったら、まず、陛下にお礼を申し上げねばなるまい。
それから、荷造りをして、父親と弟への土産を用意して……。やるべき事が山ほどある。
それらを思うと、サイファは居ても立ってもいられなくなった。眠りに着くことを諦め、露台に出る。
(寒っ……)
暁の冷気に身を縮めながら辺りを見回すと、城の至る所に焚かれた篝火が、鬼火のようにぼやけて見えた。
サイファが逃げずとも、衛兵が城内の夜警を怠る事はない。
(夜って、こんなに静かだったんだな)
自分の脱走が如何に城の安眠を妨げていたか、今更ながらに反省する。
その時だ。既に聞き飽きた警笛が闇夜を引き裂いた。
(何事だ?)
今日はあたしじゃないぞ、とサイファが手摺りから身を乗り出していると、程なく部屋の扉が叩かれた。
「はい?」
大声で応えると、戸口からユウザが顔を出した。サイファの姿を認めるなり、居るなら良い、と言い置き、さっさと部屋を遠ざかる。
(あの野郎。真っ先に人を疑いやがって……)
サイファは一瞬むかっとしたが、自分のこれまでの行いを思えば、それも仕方がないかと苦笑した。
すると、再びコツコツと物を叩く音が響いた。ただし、今度は扉ではなく、足元から……。
(曲者か!?)
サイファが身構えながら振り向くと、露台の柵に、見知らぬ女がぶら下がっていた。
夜目と頭から被った面紗の所為で、顔の造作までは判らないが、着ている衣服の様子からして、宮人と思われた。
「あんた、何者だ?」
しゃがみこんで、誰何すると、女は、落ちそう……と苦しげに呻いた。柵を掴む指は白く、血の気を失っている。
見殺しにする訳にもいかないので、仕方なく引っ張り上げてやると、女は転がるように倒れこんできた。
「ありがとう。助かったわ」
立ち上がった女は、声に笑みを滲ませた。
その調子から、彼女がそう若くは無い事を知る。三十代後半、もしくは四十代頭というところか。紫色の面紗の下には、木賊色の長衣を着ている。
「あんなとこで何やってたんだ? 衛兵が騒いでるのは、あんたの所為か?」
サイファが尋ねると、女はこくりと頷いた。
「私はミリア・アンバス。門限を破ってしまって、正門から入れなかったの。だから、裏門からこっそり入ったのだけど、庭を横切るところを衛兵に見られてしまって……」
「だからって、どうして、こんな危ない事を……?」
ここは二階だぞ、と渋面を作ると、ミリアは小さく肩を竦めた。
「一階は明る過ぎて、すぐに見つかりそうだったから」
どうしても、お咎めを受ける訳にはいかないの、と。
「あんたの主人は誰だ? 命がけで壁をよじ登るより、酷い罰を受けるのか?」
「まさか! 私の主は、ユウザ・イレイズ。誇り高き武人です」
ミリアは凛とした声で答えた。
「防衛隊長の?」
「ええ。彼がお生まれになった時から、ずっとお仕えしているの」
だから、信頼を失いたく無いのよ、と困ったように微笑む。
「ふーん。でも、あいつ、案外いい奴だから、一回門限破ったくらいなら、すぐに許してくれると思うぞ?」
仕事だ何だと言いながらも、ちゃんと里帰りの許可まで取りつけてきてくれたユウザに、サイファは感謝と同時に親しみを覚えつつあった。
ついでに、彼の頬の柔らかさまで思い出し、照れ臭くなる。
「あら、やっぱり? 私もそう思うのよ」
サイファの言葉に、ミリアは満足気な声を出した。
「……だったら、普通に戻れよ」
思わずツッコムと、ミリアはくすりと笑った。
「信頼を失う≠フと裏切る≠フとでは、全く違うわ」
「そりゃあ、そうだけど……」
こうやって衛兵を騒がせている時点で、既に信頼を裏切っているのでは? という疑問は、敢えて口にしないことにする。
せっかく危険な思いをしてまで忍びこんだ彼女を、蹴落とすような真似は出来なかった。
「ところで、今度、ユウザ様があなたの教育係に就任なされたそうね?」
ミリアは、失礼、と言って、寝椅子に腰かけた。どうやら、騒ぎが落ち着くまで、サイファの部屋に留まるつもりらしい。
「監視役の間違いだろ?」
サイファの指摘に、ミリアは、そうとも言うわね、と苦笑を漏らした。
「でも、ただの見張りでは無いはずよ? 戸口に立つだけなら、誰にでも務まるもの」
何か特別な理由があるに違いないわ、と呟き、心当たりは無いのかと尋ねてくる。
「無い」
サイファが即答すると、ミリアは呆れたように溜息を吐いた。
「もう少し考えてから答えても、罰は当たらないと思うわ」
「そう言われても……」
解らないものは、解らない。
実際、ユウザはサイファの部屋に来ても、ただ座っていただけで、世間話をするでもなく、サイファの行儀の悪さを注意するでもなかった。あれでも教育係と呼べるのか?
「確か、あなたは鷲を献上しに来た時に、陛下のお目に留まったのよね?」
ミリアの目が、集合灯を止まり木代わりにしているルドに注がれた。翼に顔を埋め、大人しく眠っている。
「そうだよ。白い鷲なんて、珍しいだろ?」
サイファの問いかけに、ミリアがこくこくと頷く。
「こんなに綺麗な鳥、初めて見るわ。ねぇ、どこから仕入れてきたの? 舶来品なんでしょう?」
「いや、ディールの森の奥で捕まえたんだ。まぁ、アンカシタンとの国境付近だったから、そっちの血が混じってるのかもしれないけど」
生け捕りに出来たのは、あたしの腕がいいからさ、とサイファは冗談まじりに言った。
「腕がいいって、あなた、猟師だったの!?」
そんな細腕で!? とミリアが仰け反る。
「うん。猟師仲間の間では、けっこう有名だったんだよ。ディールのツェラケディア≠チてね」
大きく出ただろ? とサイファは他人事のように笑った。
ツェラケディア≠ヘ、イグラットの古代神話に出てくる、暁と狩猟を司る女神の事である。
サイファが、獲物の油断する明け方を好んで狩りをしていたことから、そう呼ばれるようになった。
「ツェラケディア……」
ミリアはぼそりと呟くと、いきなり、解ったわ! と手を打った。
「何が?」
「ユウザ様があなたの教育係に選ばれた理由よ!」
興奮したように、ミリアがサイファに詰め寄る。
「……話がぜんぜん見えないんだけど?」
一人で、なるほど、を連発しているミリアを、サイファは顔をしかめて見遣った。
「あなた、建国神話は知っているわよね?」
ミリアの声の調子が、ふいに改まった。
「もちろん」
至上神、ソルティマは、争い事の絶えない人の世を嘆き、息子である、勝利と正義の男神、イグラットを地上に遣わした。
長きに渡った聖戦を勝利へと導き、見事、天下太平を成し遂げたイグラットは、初代皇帝としてこの地に留まる事を決意する。それは即ち、神格を捨て、人として生きる事を意味した。
その志に深く感動したツェラケディアは、肉体は人となっても、その魂は神であるとし、イグラットに暁の光でできた玉を贈った。
現在、皇帝の冠と、皇位継承者の額を彩っている紅玉が、彼の女神からの贈り物だという。
「でもね、紅玉にまつわる、もう一つの逸話があるのよ」
ミリアは微かに声の調子を落とした。
「どんな?」
つられて、サイファも声を潜める。
「ある日、森でいつものように狩りをしていたツェラケディアは、一羽の鷲を捕らえたの。その猛々しい美しさに心を奪われた彼女は、その鷲の妻になろうと決めた……」
「狩りの女神が、鳥の妻にだって!?」
そんな馬鹿な話、聞いたこと無いぞ、と訝るサイファを無視して、ミリアは更に続けた。
「ツェラケディアが鷲に永遠の愛を誓った時、その鷲が美しい男神になったの。その鷲は、実は、鳥に姿を変えて地上を見回っていたイグラットだったのよ。だから、ツェラケディアが彼に贈った紅玉は、本当は神格の証などでは無く、彼女の愛の証なの」
「嘘だぁ! イグラット皇家の紋章が鷲だからって、神官が適当に作ったんだろ?」
「あら、それは逆よ。二神の出会いに因んで、鷲が家紋になったのよ」
「それじゃあ、どうして、この話は広まらなかったんだ?」
皇帝の奥さんが女神様だったら、恐いもの無しじゃないか、とサイファは首を傾げた。
「それは……その時、既に、イグラットに正妃が居たからよ」
ミリアの声に、わずかな憐憫がこもる。
「彼はツェラケディアに強く惹かれながらも、正妃を捨てる事も出来なかったの。悩み抜いた末、彼はその紅玉を友情の証として受け取ったわ。鷲を家紋に定めたのは、口に出せなかったツェラケディアへの思慕よ」
「ふーん……。でもさ、それとあいつが教育係をする事に、何の関わりが?」
「そうそう! 肝心なのは、誰が教育するかじゃなくて、教育される貴方自身なのよ!」
ミリアがサイファの両肩をガッシと掴む。
「は? 今さら、あたしに知識を詰め込もうったって、そんなの無理だぞ?」
サイファは、自慢じゃないが勉強は嫌いだ、と開き直った。
「そういう意味での教育では無いわ。鷲に恋をした狩猟の女神と、鷲を献上しにきた美しい狩人。あなたとツェラケディアは、何処か似ている。陛下はきっと、あなたをツェラケディアの化身として、皇族の一員になさるおつもりなのよ。だから、あなたに立派な女性になって欲しくて、ユウザ様に託されたんだわ」
「そんな馬鹿な……」
ミリアの突飛な思いつきに、サイファは呆然とした。しかし、ミリアは真剣そのものだ。
「あなたの容姿は大変美しいわ。その白い鷲を肩に載せて歩めば、誰もがあなたを神と崇めることでしょう」
「だけど、あたしを拝んだって、何のご利益も無いぞ?」
仮に、ミリアの言うように、サイファが皇族の仲間入りを果たしたとしても、所詮は奴隷上がりの紛い物。正統な皇族たちから煙たがられる事はあっても、崇拝される事は無いだろう。
「あら、美しいものを愛でるだけで、人は幸せになれるものよ」
ミリアは断固として言い切った。
「そうかぁ……?」
納得いかない、と首を捻るサイファに、彼女は静かに告げた。
「でも、どうか気をつけて。美しい者は皆に愛される反面、不幸に見舞われる事も多いから。例え陛下に隷属していても、あなたの全ては、あなたのもの。自分の身と幸せを、一番に守りなさい」
サイファの手を取り、祝福を願う。神の御加護のあらん事を――。
「……皇族になりたいとは思わないけど、あんたの言葉は、ありがたく頂くよ」
サイファが神妙に頷くと、ミリアは面紗の下で微笑んだようだった。握った手に力がこもる。
「あら、嫌だ! もう夜が明けてしまう」
ふと窓の外に目を遣ったミリアは、そろそろ行くわね、と言って、いそいそと露台に出た。
「ちょっと、あんた! せっかく苦労して入って来たのに、何で、また、そこから出て行くんだよ?」
「廊下を行くより、目立たないから」
ミリアはひょいっと肩を竦めると、手すりを乗り越えた。
「なぁ、また会える?」
そう尋ねたサイファに、ミリアはちょっと躊躇ってから頷いた。
「ええ。いつか、きっと」
そう言い残し、ひらりと庭に着地する。
「気をつけてな!」
サイファが小声で呼びかけると、ミリアは面紗の端を軽く持ち上げた。
薄闇の中、彼女の細い顎と、笑みを浮かべた口元だけが、サイファの瞳に焼きついた。
ミリアはくるりと背を向け、足音を忍ばせて去っていった。
生まれたばかりの朝日が、サイファの体を紅に染め上げていく。
- 2003.04.11 -