Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 6 話  身代[みが]わり[いし]死人[しびと][しゅ]
 ディールへ旅立つ前日、ユウザはカレナ城を訪れた。
 父と[やく]したという事もあるが、しばらく都を離れる旨を両親に伝えておきたかったのだ。
「よく来てくれましたね、ユウザ」
 謁見[えっけん]の間に通されると、皇太子妃、セシリア・イレイズが玉座から立ってユウザを迎えた。
 若草色の礼服[ガウン]に、純白の肩掛[ストール]を羽織った彼女は、母親というより年の離れた姉のように見える。ユウザの漆黒の髪も、緑色の瞳も、その優美な顔立ちも、全て母譲りだ。
「ご機嫌麗しゅう、母上」
 セシリアの抱擁を受けながら、ユウザは、父上は? と尋ねた。いつもは隣にいるはずの、アグディルの姿が見えない。
「ご公務で、フェスタリク神殿に行ってらっしゃるわ。でもね、殿下ったら、今朝、あなたが来るという報せを聞くなり、仮病を使おうとなさったのよ」
 困った方、と言いながら、セシリアは緑色の瞳を細め、くすくすと笑った。
「相変わらずですね、父上は」
 ユウザは微苦笑を漏らした。
 これまでアグディルは、一粒種のユウザを愛するあまり、それはもう見事な親馬鹿ぶりを発揮してきた。
 ユウザがまだ赤ん坊の頃、這い這いするようになったと言っては祝砲を鳴らし、立って歩いた日には、祝日にすると言い出して、ハシリスの大目玉を食った。この話は、今でも皇宮の語り草となっている。
 しかし、そんなアグディルに対し、セシリアは大変厳しくユウザを[しつけ]た。その為か、甘やかされたお坊ちゃんにありがちな、理不尽な我が侭や尊大さを、彼は殆ど持ち合わせていない。
「でも、父上がいらっしゃらなくて、ちょうど良かったのかもしれません」
「あら、どういう意味かしら?」
 ユウザの独り言のような呟きに、セシリアが首を傾げた。
「実は、明日からしばらく、帝都を離れることになりました」
「まぁ、どんなご公務で?」
「仕事の一環ではありますが……公務とは違います」
 ユウザは曖昧に答えた。
「聞きましたよ。何でも、 I 種の教育係を命じられたとか?」
 殿下のご立腹が酷くて、お[いさ]めするのが大変でしたのよ、とセシリアが苦笑いを浮かべる。
「母上は、サイファ・テイラントをご存じですか? 銀髪碧眼の美しい娘なのですが」
「もちろん、知っていますよ。毎晩、城を脱け出す困り者でしょう? 昨日も何やら騒がしかったようだけど」
「いえ、昨夜の騒動は彼女ではないのです」
 衛兵の一人が庭に怪しい人影を見たということだったが、結局、何事も無かった。目撃者の兵士は、確かに人だった、としきりにぼやいていたが。
「でも、不思議だわ。どうして毎晩逃げていたのに、昨夜[ゆうべ]は逃げなかったのかしら?」
「その事なのです。彼女は、どうやら酷い懐郷[かいきょう]病らしくて、明日から一週間、里に帰すことになりました」
「それは可哀想に……。では、彼女に同行するのですね?」
 かつて、誰よりも過酷な隷属を強いられたセシリアは、皇太子妃となった今でも、奴隷という立場の者たちに心を砕いてやまない。
「そうです」
 ユウザはこくりと頷いた。
「彼女の故郷は、何処だったかしら?」
「ここからずっと南西に下った、ディールという村です。帝都よりも、アンカシタンの方が近いと言えましょう」
 ユウザは帝国領の地図を頭に描いた。
 アーレオス大陸を東西に二分する、シューケリオン山脈の麓に、ディールはあった。村を囲む樹海を抜け、険しい峠を越えると、そこはもう隣国、アンカシタン王国領だ。
「ならば、随分な長旅になりますね」
「ええ。陛下の駿馬[しゅんめ]をお借りする事にはなっていますが、どんなに早くとも、二日はかかるでしょう」
「か弱い娘には辛い旅路だわ。彼女の体を十分に気遣っておあげなさいね」
「はぁ……。しかし、ご心配には及ばないかと……」
 ユウザは、これまでにサイファが逃げこんできた場所に思いを巡らせた。
 ある時は三階に届こうかという大木の上。またある時は、人一人、這って歩くのがやっとという屋根裏。露台[バルコニー]の柵から柵へと飛び移った事もある。
 ふり返れば、彼女が選ぶ逃走経路は、いつだって、高くて、狭くて、不安定という、とんでも無いものばかりだった。
 一体、どんな育ち方をすれば、あんな危険な真似が出来るようになるのか? 無鉄砲にも程がある。
「そんな事を言うものではありません! どんなに丈夫に見えても、女子[おなご]殿方[とのがた]とは比べ物にならないほど弱いものです!」
 セシリアが眉をつり上げた。
「……確かに、彼女が普通の娘でないことは認めましょう。しかし、それをきちんと教育しなおすのが、そなたの役目ではありませんか!」
 忠誠、勇気、敬神、礼節、名誉、寛容、女性への奉仕。
 これらの美質を備えた者こそがセシリアの掲げる理想の男性像であり、教育方針である。先のユウザの発言は女性への奉仕≠ノ反するものだ。
「そうですね。思慮が足りませんでした」
 ユウザは素直に非を認めた。
 サイファの体力的な問題はともかく、あの向こう見ずな気性だけは何とかしなくてはなるまい。あのままでは、いつ命を落とすことか……。
(それか)
 ユウザはやっと、自分に課せられた使命を悟った。
 サイファ・テイラントを守ること――。
 長年 I 種として仕えてきたユウザにとって、それは真の意味での初仕事だった。自分を磨く為ではなく、ハシリスの願いを叶える為の仕事。
「とにかく、今は無事に帰還する事だけを考えなさい。帝都に戻ってきたら、彼女を連れて遊びに来るといいわ」
 セシリアはにっこりすると、右の薬指に[]めていた指輪を外した。
「この石を彼女に。まだ身代わり石を持っていないようなら、これを使うよう伝えてちょうだい」
 渡されたのは、大粒の水華石だった。
 身代わり石≠ヘ、持ち主の代わりに災厄を引き受けてくれるという、お守りの一種である。石の精霊と契約を結び、その石を肌身離さず持ち歩くことで加護を得る。
 古来より、アーレオス大陸ではどんな石にも必ず――それこそ道端に転がっている小石にさえ精霊が宿ると信じられてきた。
 だから、石をほったらかしにしたり、他の石と多重に契約を結んだりすると、精霊の怒りを買い、これまでに逃れてきた不幸が一度に跳ね返ってくるのだという。
 ある意味危険な存在だが、石を大事にすればするほど幸せになれるとして、大概の人は帯や首飾りなどに使われている石を身代わり石として身につけていた。
 ユウザも長剣の柄を飾る緑玉を身代わり石にしているが、それはただのお守りではなく、一生、剣を携えて生きていくという、彼の剣士としての誓いでもある。
「良いのですか? こんなに貴重な魔石[ませき]を……」
 ユウザは手元の宝玉をまじまじと見た。これほど透明度が高い水華石の結晶は、初めてだった。
 数ある鉱石の中で際立って神秘的な力を有する石を、魔石≠ニ呼ぶ。
 水では消せない特殊な炎――妙炎[みょうえん]を生み出す炎舞[えんぶ]石や、妙炎を消せる唯一の水――妙水[みょうすい]を生む水華石などが、その代表格にあたる。
 特に、宝飾用としても使われる魔石の結晶は、希少価値だけなら紅玉や緑玉をも[しの]ぐほどだ。
「もちろんよ。私には立派な身代わり石があるもの」
 そう言ってセシリアが[かざ]した左手の薬指には、木々の新芽を思わせる見事な葉樹[ようじゅ]石が光っていた。婚約の証にアグディルから贈られた、こちらも魔石である。
「わかりました。お預かり致します」
 ユウザは受け取った指輪を自分の右指に嵌めた。失くさぬためには、これが一番、手っ取り早い。
「それでは、そろそろお[いとま]いたします。――どうか、御身大切になさって下さい」
 ユウザが丁寧に別れを告げると、セシリアは、旅の無事を祈ります、と美しく微笑んだ。
(何かが違うような……)
 フラウ城に戻り、サイファの部屋を覗いたユウザは妙な違和感を覚えた。
「お前、部屋の物を動かしたか?」
 咎めるでもなく尋ねると、サイファは明らかにギクリとした顔になった。
「動かしてないよ」
 否定はするものの、視線を泳がせる。
「嘘を[]くなら、もっと巧く[]け」
 顔に出ている、と苦笑しながら、ユウザはもう一度室内を見渡した。そして、窓辺に目をやったところで、異変に気づいた。
「……なぜ、窓掛け[カーテン]の丈が短くなっている?」
 群青色の天鵞絨[てんがじゅう]の布地が、一直線に切り取られている。
「やっぱりバレたか」
 サイファはひょいっと肩をすくめ、悪戯が見つかってしまった子供のように笑った。
(そんなの、バレるに決まってるだろう……)
 呆れを通り越して、虚しさを感じる。ハシリスもセシリアも、これを教育せよというのだ。
「そんな物、何に使うつもりだったんだ?」
 げんなりしながら尋ねると、サイファは珍しくもじもじした。
「これで、父さんの上着でも作ってあげようかと思って……」
窓掛け[カーテン]の生地でか?」
「うん。すごくいい布だったから。窓掛け[カーテン]にしとくなんて、勿体ない」
 でも見つかっちゃったから返すよ、と言って、サイファは寝台の下から、切り取った布を引っ張り出した。未練たっぷりな顔をして、こちらに差し出してよこす。
「……もう良い。好きにしろ」
 ユウザはひらひら手を振って許可した。既に壊してしまったものを、今更取り上げても仕方がない。
「ありがとう!」
 サイファは目を輝かせた。礼を述べるなり、そそくさと仕舞いこむ。
「それにしても、欲しい物があるなら、どうして陛下にお願いしないのだ?」
「そんな我が侭、言える訳ないだろ!」
 畏れ多い、とサイファは首を振った。
「そんな事はない。陛下は身体[しんたい]の自由を奪う代償として、お前が――奴隷が望むものなら、大概の希望は叶えて下さる」
 それが、この国の奴隷制度において、唯一、奴隷に許されている権利であり、奴隷を飼う者の義務なのだ。
「本当に?」
「ああ。隷属しているとはいえ、お前の人生はお前のものだ。自分の幸せを一番に考えろ」
 ユウザの言葉に、サイファは[ほう]けた顔をした。彼の顔を見つめたまま、動かない。
「何か、変なことを言ったか?」
 凝視に耐えかねて、ユウザは眉をひそめた。
「いや、ちょっと驚いただけ。それより、何か用があったんじゃないの?」
 それとも、今日も見張りか? とサイファは首を傾げた。
「お前に渡す物があって来たのだ」
 ユウザは水華石の指輪を外して、サイファへ差し出した。
「何これ?」
「水華石」
「そんなの見ればわかるよ!」
 田舎者だと思って馬鹿にすんな! と、サイファは唇を尖らせた。
「そう怒るな。お前への贈り物だ」
「え? あんたが、あたしに?」
 サイファが目を見開く。
「いいや。私の母からだ」
 いつまでも受け取ろうとしないサイファの手を取り、ユウザは指輪を嵌めてやった。
「何で、あんたのお母さんが?」
 サイファは左手の中指に嵌められた水華石を、胡散臭[うさんくさ]げに見遣った。
 これまで一面識もないセシリアからの贈り物である。彼女が不審に思うのも当然だった。
「旅の無事を祈って下さったのだ。――お前、身代わり石は?」
「持ってない」
「それなら、これを使え」
 セシリアの意向を伝えると、サイファは静かに[かぶり]を振った。
「せっかくだけど、石は持たない事にしてるんだ。お守りなら、もう持ってるから」
「どんな? 身代わり石より強力なものがあるとは聞いたことがないが……」
 ユウザが首を[ひね]っていると、サイファは自分の左耳を指差した。凝った透かし彫が施された、金の耳飾り。
「これだよ」
 感情を殺したような、無機質な声で答える。母さんの形見だ。
(……死人[しびと][しゅ]か)
 彼女がその耳環を片時も外さない理由が、ようやく解った。
 亡くなった人が生前大事にしていた物を身につけると、その霊が自分の体に宿り、共に生き続ける事が出来るという。それは古くからの民間信仰で、死人の守≠ニ呼ばれる。
 しかし、近年では、亡くなった者の影をいつまでも追い求める愚行として、忌み嫌われる傾向にあった。それを[]えて告白してきたのは、彼女なりの決意の表れとも取れる。
「では、それはただの装飾品として身につけろ。 I 種の務めは装うことだ」
 ユウザが死人の守に触れずにいると、サイファは自虐的ともいえる、冷やかな笑みを浮かべた。
「死人の守に[すが]るなんて、馬鹿だと思うか?」
「……さあな。それで心の平穏が保たれるのなら、問題ないだろう。だが――」
 ユウザはサイファの目を正面から見据えた。
「もし、それが、お前を死に駆り立てているのなら、私が壊してやる」
 彼女の瞳が、一瞬、揺らいだ。
「……そんな事は無いよ。死を恐れてはいないけど、死に急ぎたいとも思ってない」
 サイファは薄っすらと笑った。哀しみと諦めが入り交じった表情だった。
「それなら、もっと死を恐れるべきだな。このままでは、いつ死んでも不思議はない」
 ユウザが苦笑を漏らすと、サイファは何のことを言われているのか分からない顔をした。どうやら、危険な事をしているという自覚がないらしい。
「あんたは、死を恐れてるのか?」
「ああ。大事なものが沢山あるからな」
 いつ死んでも、死にきれない。ユウザは冗談めかして笑った。
 早く、この話題を終わりにしてしまいたかった。
 彼女の瞳が追い詰められたように曇っていくのが、忍びなかった。
 ユウザが居室に戻ると、立て続けに来客があった。
 まずは、執事のモーヴ・パジェットだ。
 灰色の髪を綺麗に撫でつけ、左腕に執事の腕章をつけている。
 彼は、セシリアがT種だった頃から側近く仕えてきた宮人で、ユウザが生まれたのを機に、今度は彼付きの執事となった。今年で六十五歳になるが、まだまだ現役である。
「ユウザ様、明日[あす]からお供いたします宮人と II 種の名簿にございます。何とも急なお話で、満足なお仕度が出来なかったのが心残りではございますが……」
 分厚い帳面を捧げながら、モーヴはわずかにぼやいた。
「ちょっと待て、モーヴ。何なんだ? この人数の多さは?」
 差し出された帳面を[めく]り、ユウザは目を[]いた。
 御者、護衛、調理人、薬師[くすし]、その他諸々で、総勢一二〇名もの名が列記されている。
「一週間も都を離れられるのです。このくらいが妥当かと……」
「陛下の行幸でもあるまいし、こんなに必要ない。彼女の帰郷は内密なものなのだ。せいぜい三人もいれば十分だ」
 ユウザは宮人の中から馴染みの護衛と御者を一名ずつ選んだ。それから、サイファの世話係に女性のU種を――と思ったところで行き詰まった。
 普段、身の回りのほとんどを自分一人でこなすユウザは、女官と接する機会が極端に少ない。誰がこの役に相応しいのか、すぐには思い浮かばなかった。
「モーヴ、サイファ・テイラントの世話係は、誰が良いと思う?」
「それでしたら、ミリア・アンバスが適任かと存じます」
 不服そうな表情を浮かべていたモーヴは、ユウザに頼られると、途端に機嫌を直した。
 彼は、既に成人となったユウザを、未だに子供扱いしている。なかなか保護者気分が抜けないのだ。
「ミリアか……。うむ、彼女なら長旅にも耐えられるだろう。――では、この三名に旅の仕度を」
 ユウザは三人の名前に印をつけると、モーヴに手渡した。
「かしこまりました。急ぎ手配して参ります」
 モーヴは深々と頭を下げ、部屋を後にした。それからすぐに、扉が叩かれる。
 次に顔を出したのはバスティルだった。左手に大きな紙包みを抱えている。
「叔父上! 如何なさいました?」
 長椅子の上に両脚を投げ出していたユウザは、居住まいを正した。
「寛いでいるところを、すまないね。明日から都を離れると聞いたから」
 柔らかな笑みを浮かべながら、バスティルは空いている方の手で長い三つ編みを払い除けた。ユウザが勧めた椅子に、体の重みを感じさせない優雅な仕草で腰かける。
「実はね、今日、そなたの旅の無事を祈りに、フェスタリク神殿へ行ってきたのだよ」
「フェスタリク? それでしたら、父上にお会いになりませんでしたか?」
 ユウザは、日中カレナ城を訪ねたことを手短に話した。
「私が参拝した時には、どなたもいらっしゃらなかったなぁ……」
 何処かですれ違いになってしまったのかもしれないね、と軽く眉を寄せ、バスティルは話を戻した。
「それでね、神殿からの帰り道に、良い物を見つけたんだ。――ほら」
 そう言って、持ってきた包みを開いてみせる。現れたのは黒い羅紗[らしゃ]外衣[マント]だった。襟や裾の辺りに、小さな紅玉が幾つも散りばめられている。
「見事な品ですね」
 ユウザが感嘆の声を上げると、バスティルはにっこり笑った。
「そなたに似合うと思って」
「しかし、こんな高価な物をいただく訳には……」
「良いのだよ」
 渋るユウザを、バスティルにしては珍しく、強引に遮った。
「可愛い甥の初めての行啓だからね。私からの餞別[せんべつ]だ」
 そうして、いつもの微笑を浮かべる。叔父馬鹿だと笑っておくれ、と。
「……ありがとうございます」
 ユウザは謹んで頂戴することにした。かなり気は引けるが、叔父の心遣いを嬉しく思う。
「どれ、着てみてごらん」
 恐縮しているユウザを、バスティルは浮き浮きした調子で促した。何なら私が着替えさせてあげようか? などと、彼らしくもない[]れ言を吐く。
 今日のバスティルは、相当ご機嫌だ。
「結構です」
 思いきり苦笑いしながら、ユウザは自分の外衣[マント]を脱ぎ、真新しいそれを羽織った。
「思った通りだ」
 襟元を整え、真っ直ぐに立ったユウザを見て、バスティルは満足げに微笑んだ。そなたの翠玉の瞳には王者の[くれない]が良く似合う。
「軽くて、温かくて、良い品です。早速、今度の旅で使わせて頂ましょう」
 ユウザは外衣[マント]の裾を持ち、バスティルに敬意の礼を示した。
「是非そうしておくれ。――では、私はまだ仕事があるから」
 バスティルは慌しくユウザの手を握ると、よい旅を、と言って、早々に引き上げていった。
 それから程なく、貰った外衣[マント]を大事に仕舞っていたところへ、三度目の来客が告げられた。返事をするや否や、眉をつり上げたナザルが靴音も荒く乗りこんでくる。
「帝都を一週間も離れられるなんて、陛下がお許しになっても、この[わたくし]が許しません!」
 ユウザの前で仁王立ちになり、開口一番、根拠のない強気に出る。
(言うと思った……)
 ユウザは心中でこぼした。
 ナザルは、父のアグディル同様、ユウザを甘やかし過ぎる嫌いがある。物心がついた頃からユウザの守役を務めている為、何をするにも、まず主の安全を最優先に考えるのだ。
「お前の許可など要らぬ」
 わざと素っ気なく返すと、ナザルは眉をハの字にした。
「では、私もお供いたします!」
「駄目だ。お前には帝都防衛のお役目があるだろう?」
 溜息混じりに返すも、ナザルはブンブンと首を振った。
「帝都の防衛より、ユウザ様の護衛の方が大事です!」
 とても隊長の言葉とは思えぬ暴言を吐く。
「馬鹿を申すな」
「私は本気です! ユウザ様は、いずれはこの国をお治めになる、国家の宝。もしもの事があっては大変です!」
 ナザルは一歩も引かない構えだ。
「もしも、とは? 私が暴漢相手に不覚を取るとでも?」
 ユウザが唇を歪めると、彼は一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐさま、意を決したように頷く。そういう場合も、あるかもしれません。
「では、私を打ち負かす程の相手に、お前は勝てると言うのだな? スゥオルの称号を受けた、この私より強い相手に」
 ユウザは努めて厳しい口調で切り返した。
 スゥオル≠ニいうのは、毎年帝都で開かれる剣術大会で三連覇を遂げた[つわもの]に贈られる称号である。
 国中から集まった数十万という剣士の頂点に立つことは、それだけで至難であり、その偉業を三年も続けられるということは、剣士として最高の誉れであった。
 この称は、建国の際、イグラットと行動を共にしたという伝説の剣豪、ピエラ・スゥオルの名に[ちな]んだもので、その号を得た者で今も健在なのは、ユウザを含めた三人だけである。  
 つまり、ユウザの方が、ナザルより遥かに強いのだ。だから、彼は闘ってユウザを守るのではなく、最初から自分の体を盾にする気でいる。それが、ユウザには酷く耐え[がた]かった。
「……私の命はユウザ様のものなのです」
 一呼吸置いた後、ナザルは栗色の双眸[そうぼう]をユウザに据えた。使命を果たそうとする、ひた向きな目だった。
「……分かった。ならば、私の半身として、帝都を守ってくれ」
「そんな――!」
 口を挟もうとするナザルを、二の句で制する。
「お前を[]したことで、都にもしもの事があれば、私は一生自分を許さないだろう。それどころか、兄と慕うお前まで憎んでしまうかもしれない」
 だから頼む、と頭を下げて。
「ユウザ様! どうか、お顔を上げて下さい!」
 ナザルはあたふたしながら、私が愚かでした、とぺこぺこした。
「解ってくれるか?」
 ユウザが首を傾げると、ナザルは脳みそを攪拌[かくはん]しそうな勢いで頷いた。
「こんな私を兄だなどと! かように勿体無いお言葉、畏れ多くも、嬉しゅう存じます!」
 その場に膝を折り、ユウザの外衣[マント]の裾に[うやうや]しく口づける。今日ほど、貴方様にお仕えしてきた己を誇らしく思った日はありません。
「私こそ、お前のように忠義な家臣を持って、幸せだ」
 [ひざまず]くナザルの肩に手を置き、ユウザは穏やかな笑みを浮かべた。
 モーヴにしても、ナザルにしても、自分に仕えてくれる者たちは、どこまでも優しい。
 死人の守を拠り所としているサイファに比べて、ユウザは、自分が如何に恵まれているか、改めて実感したのだった。
- 2003.04.18 -
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