まだ薄暗い時分だというのに、フラウ城の門前は喧騒に包まれていた。
サイファではなく、彼女の里帰りに同行するユウザ・イレイズを見送るため、たくさんの人が集まっていた。
その数の多さもさることながら、集まった顔ぶれに、サイファは驚きを禁じえなかった。
(あいつの血筋って、相当すごいんだな……)
さすがに皇帝の姿はなかったが、離宮に住んでいる皇太子と神官長、その他、重役に名を連ねる宮人たちがユウザを取り囲んでいた。
夜毎開かれる豪奢な晩餐の席でさえ、これだけの重臣が一同に会することは珍しい。
(あいつの母さんも、あの中にいるのかな?)
サイファは、右手に輝く水華石と群集を見比べた。
本来、彼女は指輪や首飾りといった、体を締めつけるような装飾品を好まない。しかし、せっかく旅の無事を祈って贈られた品を捨て置くのは、さすがのサイファも気が引けた。
そして何より、会ったこともない自分を気にかけてくれた心遣いが、単純に嬉しかった。身代わり石にはしなくとも、大切にしようと思う。
(それにしても……)
出発はまだだろうか? 逸る気持ちをなだめつつ、サイファはこれから乗るはずの馬車を見に行った。
「すごい! 天馬だ!」
皇家の紋が彫られた立派な箱馬車に、サイファは驚嘆の目を向けた。
窓掛も内部の座席も全て深紅の天鵞絨張りで、それを六頭の黒毛の天馬が引いている。
天馬はアーレオス大陸には殆ど棲息しておらず、稀に捕獲されたものは目玉が飛び出るような高額で取引された。
それを奴隷の里帰り如きに使わせてしまうあたり、皇家の羽振りのよさが窺い知れる。
「こんなので帰ったら、皆、腰を抜かすだろうな」
村人の驚く顔を思い浮かべ、サイファは忍び笑いを漏らした。村に着いたら、弟と一緒に天馬の背に跨らせてもらおう。
「何を一人で笑っているの?」
ふいに、背後から、こましゃくれた女の子の声がした。ふり返ると、旅支度をした少女が、サイファを真っ直ぐに見上げていた。
桜色の愛らしい肩掛を羽織り、栗色の長い髪を二つのお団子に結った顔は、つい最近見たものだ。
「あれ? あんた、この前、給仕してくれた子だよな?」
サイファが問うと、少女はにこりと笑った。
「そうよ。ユウザ様のご命令で、あなたのお世話をする事になったの」
「え? 女の従者は一人しかこないって聞いたんだけど……」
サイファが小首を傾げると、少女はぷぅっと頬を膨らませた。
「失礼ね! 私の何処が女じゃないって言うの?」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。ミリア・アンバスっていう人が来るって聞いてたから……」
サイファは慌てて首を振った。
出発前夜、ユウザから、ミリア・アンバスという II 種の女性が供をする、と聞かされた時、サイファは素知らぬ顔で頷いた。しかし、内心では、彼女に再会できることを楽しみにしていたのだ。
都合が悪くなったのかな? とサイファが独り言つと、少女は不思議そうな顔をした。
「何を言ってるの? 私がミリア・アンバスよ」
「えぇ!? 嘘だろ?」
サイファは目を丸くした。
一昨日の明け方、サイファの部屋に逃げ込んできた女性は、どう見ても大人だった。いくら面紗を被っていたとはいえ、こんな少女と間違えるはずがない。
「嘘じゃないわ。代々皇家にお仕えすること、三百年! 由緒正しき商家、アンバス家の長女よ」
少女は誇らしげに胸を張った。
「それじゃあさ、同姓同名の人がいないか? 三十代から四十代くらいで」
「いないわ。城中探したって、ミリア・アンバスは私だけよ」
少女、ミリアは怪訝そうに顔をしかめた。
「……じゃあ、あれは誰だったんだ?」
サイファは、胸の内にどんよりとした靄が広がるのを感じた。
彼女は一体、何者だったのか? もしかしたら、他国の間者か何かで、自分はまんまと騙されたのではないか?
いや、騙されるだけならまだいい。最悪なのは、知らぬ間に、自分がイグラットに仇なす手伝いをしてしまったのではないかという事だ。
(うわぁ……。どうしよう?)
青ざめるサイファの横で、無情にも、ユウザ様がいらしたわ! という、ミリアの嬉々とした声が響いた。
*
「仕度は済んだか?」
漆黒の外衣を翻しながら、ユウザは颯爽と歩いてきた。その腰には、いつもの長剣の他に、色とりどりの玉を幾筋も連ねた飾り帯が巻かれ、歩みに合わせて玲々と鳴った。
「大丈夫だよ」
動揺を悟られないように、サイファは俯きかげんに頷いた。元々、思った事が顔に出やすい質ではあったが、彼の鋭い洞察力は、決して侮れないからだ。
(どうか、見過ごしてくれますように……)
だが、束の間の願いも虚しく、サイファはいきなり顎を掴まれ、仰向けられた。その途端、目に澄んだ緑玉が飛びこんでくる。
(……孔雀の羽みたいだ)
こんな時だというのに、サイファはユウザの瞳の、その魅惑的な輝きに見入ってしまった。これほど間近に彼と顔を突き合わせるのは、初めてのことだった。
「嬉しくないのか?」
顎の下に入れた指を、わずかに口元へと滑らせながら、ユウザがぶっきらぼうに尋ねた。何もかも呑み込んでしまいそうな闇色の外衣は、いつも見慣れた緑のそれより、彼を鋭く、威圧的に見せている。
「――嬉しいよ」
顎を不自然に上げさせられている所為で、サイファの声は低くかすれた。それは、普段とは似ても似つかぬ艶やかな響きをもって、自身の耳に届いた。
「ならば、どうして、そうも浮かない顔をしている? 心配事でもあるのか?」
「何も」
サイファはきっぱりと否定した。
一瞬、何もかもぶちまけてしまおうかと思った。けれど、あの女が見せた優しさまでもが、偽りとは思いたくなかった。
自分の身と幸せを、一番に守りなさい――。
昨日、ユウザの口から彼女と同じような台詞が飛び出した時には、本当に驚いた。
さすが、長年仕えているだけの事はある。心まで通い合った主人と従者とはこういうものなのか、と。
しかし、それが主従関係によるものでないのなら、あの言葉は、彼女自身のものだったという事になる。それなら、尚のこと彼女が悪者とは思えない。
「昨日、はしゃぎ過ぎて眠れなかったんだ。心配ない」
サイファが笑ってみせると、ユウザはじっと彼女の目を見つめてきた。
「本当に?」
「本当だ」
サイファは彼の強い視線を真っ向から受け止めた。ともすれば、真実を吐露してしまいそうになる自分を、必死に奮い立たせながら。
「それなら、良い」
目元を幾分和ませて、ユウザはサイファを解放した。思わず、安堵の吐息がもれる。
「ところで、あの鷲は、ちゃんと籠に入れてあるのだろうな?」
途中で逃げられては事だぞ、とユウザは次々に馬車に積まれていく荷物を見遣った。
「そんなの、なくても平気だよ」
サイファは自信たっぷりに笑い、指笛を鳴らした。その甲高い音に、何事かと視線が集まる。
そこへ、力強い羽音を立てたルドが、サイファの腕目がけて滑空してきた。隣にいたミリアが、小さな悲鳴を上げる。
しかし、大きく広げた翼で器用に平衡を保ったルドは、サイファの腕を傷つけぬよう、ふわりと縋った。
巨大な鷲を悠然と操る少女――。
その、にわかには信じ難い光景に、観衆たちは静まり返った。わずかな間の後、拍手と賞賛の嵐がわき起こる。
「よく、そこまで飼い馴らしたな」
滅多に顔色を変えないユウザも、目を瞠っていた。それだけでも、何だか気分がいい。
「別に、教えた訳じゃないよ。あたしが呼んだから、来てくれただけだ」
サイファがルドの頭を撫でてやると、彼は同意するように彼女の肩に身を摺り寄せた。
「なるほど。確かに籠はいらないようだ」
ユウザは腰を屈め、ルドと視線を合わせた。サイファの護りはお前に任せよう、と緑眼を細める。
するとルドは、任せろ、とでも言いたげに、鋭く一鳴きした。
*
「では、そろそろ参ろうか」
ユウザの号令に、辺りが一斉にさざめいた。
年少の御者が恭しく馬車の扉を開き、壮年の護衛が、脇に控えた栗毛の天馬に跨る。有事に備えて伴走するのだ。
「先に乗れ」
そう言って、ユウザがサイファに手を差し伸べた。
「……ありがとう」
大人しく彼の手を取ると、サイファはするりと馬車に乗りこんだ。
本当は、手など貸してもらわずとも一人で十分乗れたのだが、皆に注目される中、その手を拒むのは礼儀に反すると思った。
それに――。
(たまには、こういう扱いも悪くないかな)
ふかふかの座席に腰かけながら、サイファは満更でもなかった。
村にいた頃のサイファは、男に混じって獲物を追い、彼らもまた、そんな彼女を女扱いしなかった。
それは、仕事中においては有難い事だったが、それ以外の時でも、彼らの態度が変わることは無く、十七歳のお年頃の娘にしてみれば、少々不満でもあったのだ。
続けて、ミリアがユウザの手を借り、最後に、彼自身が乗りこむと、扉が静かに閉められた。
「出立!」
門番が敬礼し、石畳を蹴る蹄の音がカツカツと響いた。軽く助走をつけて、馬車がふわりと浮き上がる。
初めて味わう浮遊感に、サイファは思わず窓枠にしがみついた。天馬が宙を蹴り、両翼を動かす度に、車体がわずかに波打つ。
「大丈夫だ。慣れない内は、多少、気分が悪くなる事もあるが、船酔いほど酷くはない」
そう言いながらも、ユウザは窓を開け、新鮮な空気を車内に取りこんでくれた。その拍子に、見送りの歓声にも消えない、一際大きく、野太い声が届く。
「ユウザ様、ご無事にお戻りを!」
その声は、サイファもよく知っているものだった。
ユウザと共に、逃げる自分を追いかけてきた兵士、ナザル・ベーク。
無口なユウザに代わって、何度、その口から小言を聞かされたか分からない。
ユウザは素早く腰を浮かせ、その声に応えるように、窓から拳を突き出した。歓声が一層高まる。
(皆に愛されてるんだな……)
下界を見下ろすユウザの横顔を、サイファは眩しいものでも見るように、そっと見つめた。
秀でた額を覆う、艶やかな黒髪。繊細でありながらも、男らしさを損なわない目鼻立ち。意志の強さを覗かせる、引き結ばれた唇……。
彼は、サイファが今までに出会った誰よりも、美しかった。
しかし、彼が皇帝に召されたのは、その美貌を買われてのことでは無いのだと思う。
彼の兵士としての力量も、その血筋も良く解らないが、これだけは言える。
無愛想な仮面に隠された思慮深さ、誰に対しても変わる事のない優しさ、温かさこそが、彼の真価なのだ。
(それに比べて……)
自分はただの消耗品だ。容色が衰えれば、それで終わり。
勿論、サイファとて、一生、奴隷でいたい訳ではない。だけど、自分の価値が、銀色の髪と青い瞳にしかないというのでは、悲し過ぎる。
その時、サイファの額に温かい掌が押し当てられた。驚いて顔を上げると、ミリアがニコッとした。
「酔わないように、呪をかけてあげたわ」
そんな呪いがあるとは知らなかったが、心なしか、体が軽くなったような気がする。
「ありがとう」
サイファは唇を笑みの形に持ち上げた。
その様子を、ユウザが黙って見ている。いつもの聡明な眼差しで。
(卑屈になっちゃダメだ――)
サイファは自分自身に言い聞かせた。
現在、奴隷として飼われている自分はあまりに無力で、これまでやってきた事の全てが、否定されたような気になってしまうのだ。
でも、それは飽くまで気の所為。
(村に帰ったら、まず狩りをしよう)
それから、父の好きな山鳩の煮込みを作って、弟の弓に弦を張り直してやって……。
『辛い時には、楽しい事を考えなさい。でも、誤解しては駄目よ。現実から逃げるんじゃなくて、まず、立ち向かうための元気を作るの』
亡き母の口癖は、今や、サイファの処世訓だった。
馬車はどんどん高度を上げていき、車内が生まれたての朝日に包まれる。橙色の力強い光――。
旅は始まったばかりだ。
- 2003.04.20 -