Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 7 話  天翔[あまか]ける
 まだ薄暗い時分だというのに、フラウ城の門前は喧騒に包まれていた。
 サイファではなく、彼女の里帰りに同行するユウザ・イレイズを見送るため、たくさんの人が集まっていた。
 その数の多さもさることながら、集まった顔ぶれに、サイファは驚きを禁じえなかった。
(あいつの血筋って、相当すごいんだな……)
 さすがに皇帝の姿はなかったが、離宮に住んでいる皇太子と神官長、その他、重役に名を連ねる宮人たちがユウザを取り囲んでいた。
 夜毎開かれる豪奢な晩餐の席でさえ、これだけの重臣が一同に会することは珍しい。
(あいつの母さんも、あの中にいるのかな?)
 サイファは、右手に輝く水華石と群集を見比べた。
 本来、彼女は指輪や首飾りといった、体を締めつけるような装飾品を好まない。しかし、せっかく旅の無事を祈って贈られた品を捨て置くのは、さすがのサイファも気が引けた。
 そして何より、会ったこともない自分を気にかけてくれた心遣いが、単純に嬉しかった。身代わり石にはしなくとも、大切にしようと思う。
(それにしても……)
 出発はまだだろうか? 逸る気持ちをなだめつつ、サイファはこれから乗るはずの馬車を見に行った。
「すごい! 天馬だ!」
 皇家の紋が彫られた立派な箱馬車に、サイファは驚嘆の目を向けた。
 窓掛も内部の座席も全て深紅の天鵞絨[てんがじゅう]張りで、それを六頭の黒毛の天馬が引いている。
 天馬はアーレオス大陸には殆ど棲息しておらず、[まれ]に捕獲されたものは目玉が飛び出るような高額で取引された。
 それを奴隷の里帰り如きに使わせてしまうあたり、皇家の羽振りのよさが窺い知れる。
「こんなので帰ったら、皆、腰を抜かすだろうな」
 村人の驚く顔を思い浮かべ、サイファは忍び笑いを漏らした。村に着いたら、弟と一緒に天馬の背に[またが]らせてもらおう。
「何を一人で笑っているの?」
 ふいに、背後から、こましゃくれた女の子の声がした。ふり返ると、旅支度をした少女が、サイファを真っ直ぐに見上げていた。
 桜色の愛らしい肩掛[ケープ]を羽織り、栗色の長い髪を二つのお団子に結った顔は、つい最近見たものだ。
「あれ? あんた、この前、給仕してくれた子だよな?」
 サイファが問うと、少女はにこりと笑った。
「そうよ。ユウザ様のご命令で、あなたのお世話をする事になったの」
「え? 女の従者は一人しかこないって聞いたんだけど……」
 サイファが小首を傾げると、少女はぷぅっと頬を膨らませた。
「失礼ね! [わたくし]の何処が女じゃないって言うの?」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。ミリア・アンバスっていう人が来るって聞いてたから……」
 サイファは慌てて首を振った。
 出発前夜、ユウザから、ミリア・アンバスという II 種の女性が供をする、と聞かされた時、サイファは素知らぬ顔で頷いた。しかし、内心では、彼女に再会できることを楽しみにしていたのだ。
 都合が悪くなったのかな? とサイファが独り[]つと、少女は不思議そうな顔をした。
「何を言ってるの? 私がミリア・アンバスよ」
「えぇ!? 嘘だろ?」
 サイファは目を丸くした。
 一昨日の明け方、サイファの部屋に逃げ込んできた女性は、どう見ても大人だった。いくら面紗[ベール]を被っていたとはいえ、こんな少女と間違えるはずがない。
「嘘じゃないわ。代々皇家にお仕えすること、三百年! 由緒正しき商家、アンバス家の長女よ」
 少女は誇らしげに胸を張った。
「それじゃあさ、同姓同名の人がいないか? 三十代から四十代くらいで」
「いないわ。城中探したって、ミリア・アンバスは私だけよ」
 少女、ミリアは怪訝[けげん]そうに顔をしかめた。
「……じゃあ、あれは誰だったんだ?」
 サイファは、胸の内にどんよりとした[もや]が広がるのを感じた。
 彼女は一体、何者だったのか? もしかしたら、他国の間者[かんじゃ]か何かで、自分はまんまと騙されたのではないか?
 いや、騙されるだけならまだいい。最悪なのは、知らぬ間に、自分がイグラットに[あだ]なす手伝いをしてしまったのではないかという事だ。
(うわぁ……。どうしよう?)
 青ざめるサイファの横で、無情にも、ユウザ様がいらしたわ! という、ミリアの嬉々とした声が響いた。
「仕度は済んだか?」
 漆黒の外衣[マント]を翻しながら、ユウザは颯爽[さっそう]と歩いてきた。その腰には、いつもの長剣の他に、色とりどりの[ぎょく]を幾筋も連ねた飾り帯が巻かれ、歩みに合わせて玲々と鳴った。
「大丈夫だよ」
 動揺を悟られないように、サイファは[うつむ]きかげんに頷いた。元々、思った事が顔に出やすい[たち]ではあったが、彼の鋭い洞察力は、決して侮れないからだ。
(どうか、見過ごしてくれますように……)
 だが、束の間の願いも虚しく、サイファはいきなり顎を掴まれ、仰向けられた。その途端、目に澄んだ緑玉が飛びこんでくる。
(……孔雀の羽みたいだ)
 こんな時だというのに、サイファはユウザの瞳の、その魅惑的な輝きに見入ってしまった。これほど間近に彼と顔を突き合わせるのは、初めてのことだった。
「嬉しくないのか?」
 顎の下に入れた指を、わずかに口元へと滑らせながら、ユウザがぶっきらぼうに尋ねた。何もかも呑み込んでしまいそうな闇色の外衣[マント]は、いつも見慣れた緑のそれより、彼を鋭く、威圧的に見せている。
「――嬉しいよ」
 顎を不自然に上げさせられている所為で、サイファの声は低くかすれた。それは、普段とは似ても似つかぬ[あで]やかな響きをもって、自身の耳に届いた。
「ならば、どうして、そうも浮かない顔をしている? 心配事でもあるのか?」
「何も」
 サイファはきっぱりと否定した。
 一瞬、何もかもぶちまけてしまおうかと思った。けれど、あの女が見せた優しさまでもが、偽りとは思いたくなかった。
 自分の身と幸せを、一番に守りなさい――。
 昨日、ユウザの口から彼女と同じような台詞が飛び出した時には、本当に驚いた。
 さすが、長年仕えているだけの事はある。心まで通い合った主人と従者とはこういうものなのか、と。
 しかし、それが主従関係によるものでないのなら、あの言葉は、彼女自身のものだったという事になる。それなら、尚のこと彼女が悪者とは思えない。
「昨日、はしゃぎ過ぎて眠れなかったんだ。心配ない」
 サイファが笑ってみせると、ユウザはじっと彼女の目を見つめてきた。
「本当に?」
「本当だ」
 サイファは彼の強い視線を真っ向から受け止めた。ともすれば、真実を吐露してしまいそうになる自分を、必死に奮い立たせながら。
「それなら、良い」
 目元を幾分和ませて、ユウザはサイファを解放した。思わず、安堵の吐息がもれる。
「ところで、あの鷲は、ちゃんと籠に入れてあるのだろうな?」
 途中で逃げられては事だぞ、とユウザは次々に馬車に積まれていく荷物を見遣った。
「そんなの、なくても平気だよ」
 サイファは自信たっぷりに笑い、指笛を鳴らした。その甲高い音に、何事かと視線が集まる。
 そこへ、力強い羽音を立てたルドが、サイファの腕目がけて滑空してきた。隣にいたミリアが、小さな悲鳴を上げる。
 しかし、大きく広げた翼で器用に平衡を保ったルドは、サイファの腕を傷つけぬよう、ふわりと[すが]った。
 巨大な鷲を悠然と操る少女――。
 その、にわかには信じ難い光景に、観衆たちは静まり返った。わずかな[]の後、拍手と賞賛の嵐がわき起こる。
「よく、そこまで飼い馴らしたな」
 滅多に顔色を変えないユウザも、目を[みは]っていた。それだけでも、何だか気分がいい。
「別に、教えた訳じゃないよ。あたしが呼んだから、来てくれただけだ」
 サイファがルドの頭を撫でてやると、彼は同意するように彼女の肩に身を摺り寄せた。
「なるほど。確かに籠はいらないようだ」
 ユウザは腰を[かが]め、ルドと視線を合わせた。サイファの護りはお前に任せよう、と緑眼を細める。
 するとルドは、任せろ、とでも言いたげに、鋭く一鳴きした。
「では、そろそろ参ろうか」
 ユウザの号令に、辺りが一斉にさざめいた。
 年少の御者が[うやうや]しく馬車の扉を開き、壮年の護衛が、脇に控えた栗毛の天馬に跨る。有事に備えて伴走するのだ。
「先に乗れ」
 そう言って、ユウザがサイファに手を差し伸べた。
「……ありがとう」
 大人しく彼の手を取ると、サイファはするりと馬車に乗りこんだ。
 本当は、手など貸してもらわずとも一人で十分乗れたのだが、皆に注目される中、その手を拒むのは礼儀に反すると思った。
 それに――。
(たまには、こういう扱いも悪くないかな)
 ふかふかの座席に腰かけながら、サイファは満更でもなかった。
 村にいた頃のサイファは、男に混じって獲物を追い、彼らもまた、そんな彼女を女扱いしなかった。
 それは、仕事中においては有難い事だったが、それ以外の時でも、彼らの態度が変わることは無く、十七歳のお年頃の娘にしてみれば、少々不満でもあったのだ。
 続けて、ミリアがユウザの手を借り、最後に、彼自身が乗りこむと、扉が静かに閉められた。
「出立!」
 門番が敬礼し、石畳を蹴る[ひづめ]の音がカツカツと響いた。軽く助走をつけて、馬車がふわりと浮き上がる。
 初めて味わう浮遊感に、サイファは思わず窓枠にしがみついた。天馬が[ちゅう]を蹴り、両翼を動かす度に、車体がわずかに波打つ。
「大丈夫だ。慣れない内は、多少、気分が悪くなる事もあるが、船酔いほど酷くはない」
 そう言いながらも、ユウザは窓を開け、新鮮な空気を車内に取りこんでくれた。その拍子に、見送りの歓声にも消えない、一際大きく、野太い声が届く。
「ユウザ様、ご無事にお戻りを!」
 その声は、サイファもよく知っているものだった。
 ユウザと共に、逃げる自分を追いかけてきた兵士、ナザル・ベーク。
 無口なユウザに代わって、何度、その口から小言を聞かされたか分からない。
 ユウザは素早く腰を浮かせ、その声に応えるように、窓から拳を突き出した。歓声が一層高まる。
(皆に愛されてるんだな……)
 下界を見下ろすユウザの横顔を、サイファは[まぶ]しいものでも見るように、そっと見つめた。
 秀でた額を覆う、[つや]やかな黒髪。繊細でありながらも、男らしさを損なわない目鼻立ち。意志の強さを覗かせる、引き結ばれた唇……。
 彼は、サイファが今までに出会った誰よりも、美しかった。
 しかし、彼が皇帝に召されたのは、その美貌を買われてのことでは無いのだと思う。
 彼の兵士としての力量も、その血筋も良く解らないが、これだけは言える。
 無愛想な仮面に隠された思慮深さ、誰に対しても変わる事のない優しさ、温かさこそが、彼の真価なのだ。
(それに比べて……)
 自分はただの消耗品だ。容色が衰えれば、それで終わり。
 勿論、サイファとて、一生、奴隷でいたい訳ではない。だけど、自分の価値が、銀色の髪と青い瞳にしかないというのでは、悲し過ぎる。
 その時、サイファの額に温かい掌が押し当てられた。驚いて顔を上げると、ミリアがニコッとした。
「酔わないように、[しゅ]をかけてあげたわ」
 そんな[まじな]いがあるとは知らなかったが、心なしか、体が軽くなったような気がする。
「ありがとう」
 サイファは唇を笑みの形に持ち上げた。
 その様子を、ユウザが黙って見ている。いつもの聡明な眼差しで。
(卑屈になっちゃダメだ――)
 サイファは自分自身に言い聞かせた。
 現在、奴隷として飼われている自分はあまりに無力で、これまでやってきた事の全てが、否定されたような気になってしまうのだ。
 でも、それは飽くまで気の所為。
(村に帰ったら、まず狩りをしよう)
 それから、父の好きな山鳩の煮込みを作って、弟の弓に[つる]を張り直してやって……。
『辛い時には、楽しい事を考えなさい。でも、誤解しては駄目よ。現実から逃げるんじゃなくて、まず、立ち向かうための元気を作るの』
 亡き母の口癖は、今や、サイファの処世訓だった。
 馬車はどんどん高度を上げていき、車内が生まれたての朝日に包まれる。橙色の力強い光――。
 旅は始まったばかりだ。
- 2003.04.20 -
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