Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 9 話  孤独[こどく][ぬく]もり
「すごい……」
 黒光りする重厚な帆船を前に、サイファは口をポカンと開けた。
 風狼船を使うというだけでも驚きなのに、目の前のそれは馬車ごと乗船できるほど巨大で、ひたすら豪華だった。
 船首像は、旅の安全を守る風の女神、フェスターシャで、その両眼にも、若草色に輝く風狼石の結晶が嵌め込まれている。
「ぼけっとして無いで、さっさと乗れ」
「あ、ちょっと待って!」
 乗船手続きを済ませたユウザに、ぐいと背中を押され、サイファは慌てて辺りを見回した。船宿の赤煉瓦の屋根に、白い鷲が羽を休めているのが見える。
「なぁ、ルドを呼んでもいいかな?」
 風狼船を追うのでは、さすがのルドも辛いだろう。
「それは構わないが、他の客を襲わぬよう、ちゃんと見張っておけよ」
 飼い主に似て気が荒いから、とユウザがからかいの言葉をよこす。
「余計なお世話だ」
 冷たい一瞥[いちべつ]を投げつけ、サイファは指笛を鳴らした。
 高く澄んだ音色が賑わしい港に響き、行き交う人の歩みを止める。
「何事だい?」
「うわっ! 何か、でっかいのが飛んでくるぞ!」
「きゃあ!」
 大きな白い影の出現に、人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。
 しかし、それが美しい鷲で、サイファの腕に降り立つのを見るや、一斉にどよめいた。
「白い鷲だ!」
「おお、あちらに御座[おわ]すのは、皇家の方々だぞ!」
「神の[]使いを従えていらっしゃるんだ」
「何と神々しい御姿でしょう……」
 民衆はその場に平伏[ひれふ]し、ありがたやの大合唱を始めてしまった。
「お前を神の娘≠セと思っているようだぞ?」
 呆気に取られるサイファの横で、ユウザが他人事[ひとごと]のように笑う。
「冗談じゃない」
 あたしはただの人間だ、と渋い顔で応じると、ユウザは何事か考えこむように、じっとこちらを見つめてきた。
「な、何だよ?」
 急に真顔になった彼に、どぎまぎする。
「いや、何でもない。――では、皇族の務めを果たすとしようか」
 ユウザは群集に向かって右手を[かざ]すと、流暢な神聖語で祝詞[のりと]を唱え始めた。その歌うような節回しに、サイファは思わず目を瞑って聞き惚れた。
 帝都で暮らすようになってから、何度か神聖語による祈りを聞く機会があったが、これほど尊く、壮麗な祈りは初めてだった。
 祝詞が終わると、誰からともなく万歳の声が上がった。
 イグラット帝国万歳! 皇家万歳!
「……あんた、何者なんだ?」
 大歓声に包まれながら、サイファはまじまじとユウザを見つめた。
 神に祈るために使われる神聖語は、本来、神々の言葉だという。現人神である皇帝や皇太子、そして、直系に限りなく近い血筋にあたる、一握りの神官。それ以外、決して使うことを許されない言語を、どうして彼が話せるのか?
 それほど尊い血筋の者が、なぜ自分如きの監視をしているのか?
「お前の教育係だ。――なあ?」
 ユウザは柔らかな笑みを浮かべ、同意を求めるように、ルドの頭を撫でた。すると、サイファの腕の中で大人しくしていたルドが、急に身を[よじ]り出した。
 腕から逃れたと思ったら、止める間もなくユウザに飛びかかる。
「危な……!」
 叫びかけたサイファは、途中で言葉を呑みこんだ。予想した惨劇は起こらなかった。
「案外、重たいものだな」
 そう言って笑うユウザの肩で、ルドが羽繕いなぞして寛いでいる。
(……どうなってるんだ?)
 前々から、ユウザに対しては大人しかったルドだが、まさか、これほど懐くとは思いもしなかった。
「行こうか」
 ユウザはルドを左肩に載せたまま、右腕でサイファの肩を抱いた。そうして、桟橋へと導いていく。
(何か、こいつといると疲れるなぁ……)
 サイファは心中でぼやいた。
 考えが読めないだけでなく、いきなり見つめられたり、こうして肩を抱かれたりするだけで、全身に言い[よう]のない緊張が走る。
 今だって――。
「どうした? 震えているぞ?」
 耳元に落とされた低い囁きに、サイファは背筋がぞくりとするのを感じた。恐怖や嫌悪感とも違う、不思議な感覚だった。
「ちょっと寒いかな」
 笑ってごまかすと、ユウザは彼女の肩から手を離した。その途端、触れられていた場所から熱が逃げる。
(寒い……)
 サイファは本当に川風の冷たさに身を震わせた。だが、それも一瞬のことで、一度離れたユウザの腕がすぐさま彼女の体を引き寄せ、漆黒の外衣[マント][くる]んでしまった。
「部屋に入ったら、ミリアに上着を出してもらえ」
 それまで、これで我慢しろ。そう言って、ユウザは、サイファを後ろから抱くような恰好で歩き出した。
 彼の腕の中で身を縮こませながら、サイファは鼓動がどんどん速まっていくのを感じた。
 でも、苦しくは無かった。むしろ、背中に感じる彼の温もりが、心地好いくらいで……。
(ずっと、こうしててくれないかな……)
 ふと、そんな思いが脳裏をかすめ、サイファは慌てて頭を振った。
(何考えてるんだ、馬鹿!)
 自分で自分を戒めていたら、頭上から微かな溜息が漏れた。
「そんなに嫌なら、離してやるぞ?」
「え?」
 立ち止まって振り返ると、ユウザと目が合った。心なしか、その瞳に[かげ]りが見える。
 サイファが首を振ったのを、拒絶と受け止めたらしい。
「嫌じゃない!」
 思わず、力いっぱい否定してしまって、サイファは頬が熱くなるのを感じた。
(嫌じゃないけど、でも何か、それって……)
 裏を返せば、嬉しい、と言っているようなものではないか。
「いや、その嫌じゃないけど、別に喜んでる訳でも無いっていうか! あ、でも、全然嬉しく無い訳でもなくて……」
 あたふたと、支離滅裂な事を言い出したサイファを見て、ユウザは口元をほころばせた。
「そうか」
 にっこり頷いて、再び歩き出す。回された腕に何となく力がこめられたように感じるのは、気の所為だろうか?
「嫌じゃないのは本当だけど、変な誤解すんなよ?」
 サイファが念を押すと、ユウザは小さく笑っただけだった。
 ユウザに連れられて入った船室は、フラウ城の居室にも劣らぬほど立派な造りだった。
 深紫[こきむらさき]の毛足の長い絨毯と、千歳緑[ちとせみどり]繻子[しゅす]織の窓掛[カーテン]。紫檀材で作られた、優美な調度品の数々……。
 とても船の中とは思えない。
「私は隣の部屋にいるから、何かあったら、すぐに呼べ。――ミリア、後は任せたぞ」
 そう言い残して、ユウザは部屋を出ていった。
「これを羽織っているといいわ」
 ミリアが衣装箱から引っ張り出してきたのは、紫苑色の肩掛[ストール]だった。今、サイファが着ている藤袴[ふじばかま]の長衣に合わせて選んでくれたようだ。
「ありがとう」
 受け取った薄衣[うすぎぬ]を身につけている間に、ミリアは備えつけの食器棚から茶器を運んできた。
「寒い時は、体の中から温めるのが一番よ」
 慣れた手付きで、白磁の茶碗三客分に紅茶を注ぐ。ささやかな湯気と共に、[かんば]しい香が立ち昇った。
「一人分多いぞ?」
 サイファが指摘すると、ミリアはころころと笑った。
「いやぁね、ユウザ様の分に決まってるでしょ。――先に飲んでて」
 茶碗を盆に載せて、鼻歌混じりに出ていく。
「ユウザ様……か」
 サイファは声に出して呟いた。
(不思議な奴だよなぁ……)
 紅茶を口に運びながら、ぼんやり思う。
 ナザル・ベークにしろ、ミリア・アンバスにしろ、彼に仕える者たちは、皆、喜んで従っているように見えた。
 身分を問わず、誰にでも優しい男だから、下々の者に慕われるのは解る気がする。
 でも――。
「どうして、お前まで[なび]くんだ?」
 サイファは籠に入れられたルドを、編み目の隙間から[つつ]いた。羽を触られるのが嫌なようで、狭い籠の中を逃げ回る。
 孤独な城の中で、唯一、味方だったルド。自分だけに懐いていたのが、彼女の密かな自慢であった。
 それなのに……。
 何となく、裏切られたような気がするのは、なぜだろう?
 サイファは、どうしようもなく意地悪な気持ちになって、暴れるルドをぶしぶし突き続けた。
「ちょっと、嫌がってるんじゃないの?」
 戻ってきたミリアに、[]しなさいよ、と[たしな]められるまで。
「なぁ、あいつ、一体、何者なんだ?」
 ルドの籠から離れると、サイファはふらりと立ち上がった。
「あいつ≠チて?」
 長椅子にかけたミリアが、首を傾げる。
「ユウザ・イレイズ」
「あなたの教育係でしょ?」
 ミリアは、何を今さら、と言わんばかりの顔で答えた。
「そんなのは、分かってるよ! あたしが知りたいのは、あいつの正体だ。皇帝の I 種で、元帝都防衛隊長で、神聖語が話せて……。一体全体、何者なんだよ?」
 真剣に訴えるサイファを見て、ミリアは心底呆れた顔になった。
「あなた、本気で言ってるの? ユウザ様はイグラット皇家三代[さんだい][=第三世の世継ぎの意]。陛下の御嫡孫[ちゃくそん]であらせられるのよ? 神聖語が話せるのは当前でしょう」
「はっ!? 孫ぉ!?」
 サイファは、危うく持っていた茶碗を落っことすところだった。
「知らなかったの? 私はてっきり、知っててあんな無礼を働いてるんだと思ったわ」
 ミリアはやれやれと首を振った。
「知るかよ、そんなもん! 誰も教えてくれないんだから!」
「知らない方がどうかしてるのよ」
「だって、あいつは陛下の I 種なんだぞ? 皇帝の孫が奴隷だなんて、普通、思わないだろ?」
 サイファの言葉に、ミリアの表情がたちまち曇る。
「……詳しい事は知らないけれど、皇太子夫妻と陛下は、あまり仲がよろしく無いらしいわ。でも、陛下がユウザ様を大事になさっているのは、事実なのよ」
 奴隷にしたいとお思いになるくらい、と自信なさげに付け足す。
「ふーん……」
 サイファは、先日、ユウザと食事を共にした時の事を思い出した。
 皇帝陛下と皇子たちが親子で食事をしていると聞いて、羨ましい、と言った自分に、そんなに良いものでもない、と漏らしたユウザ。
 愛する者たちの間に立たされ、実の祖母に隷属を強いられる悲哀は、いかばかりか。
(あいつがあんなに優しいのは、孤独だからかもしれない……)
 優しくされたい、愛されたいという気持ちの裏返し。心に淋しさを宿しているからこそ、わずかな温もりをいとおしむ。
「あいつも、けっこう苦労してるんだな」
 サイファはぼそりと呟くと、すっかり冷めてしまった紅茶を、ゆっくりと飲み干した。
 船内に出港の合図が響いたのは、その直後だった。
- 2003.04.26 -
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