Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 10 話  [とうと][もの][かみ]御使[みつか]
 豪華客船、ジル・フェスターシャ号は、タンブル川を快速に[さかのぼ]っていた。白い帆布いっぱいに妙風をはらみ、周囲の船を次々と追い抜いて行く。
(思ったより、ずっと遠いな)
 円卓の上に帝国地図を広げながら、ユウザは長い溜息を漏らした。
 コメンタヴィアから終着地のヒリングワーズ湖畔までは、どんなに飛ばしても丸一日はかかる。途中、物資補給のためオーランブールに寄港するが、その分を差し引いても大差はない。
 ディールへは、ヒリングワーズで下船した後、天馬に乗り換え、更に半日かかるはずだった。天馬は、船と違い、しばしば休憩を取る必要があるからだ。
(あの娘は一体、何日かけて上京してきたのか……)
 ユウザは、サイファが辿ったであろう道のりに、思いを馳せた。
 帝国南部に広がる鬱蒼とした樹海を陸路で抜け、タンブル川を流れに任せて下る……。天馬も風狼船も使えない民間人にとって、それは相当過酷なものに違いなかった。
(確かに、これでは帰郷を願い出るのも[はばか]られるな)
 自由奔放で、他人の迷惑を殆ど顧みないサイファは、その分、人に甘えたり、頼ったりする事をしなかった。
 連日続いた逃亡未遂だって、自力で何とかしようとした結果であり、本人に悪気は無いのだろう。
(いっそ、頼ってもらった方が、こちらとしては楽なのだが……)
 自立心が旺盛すぎるのも考え物か、と苦笑したところで、軽やかに戸を叩く音が響いた。
 地図を畳みながら返事をすると、扉の隙間から、パティ・パジェットがひょっこりと顔を覗かせた。
「どうかしたか?」
 ユウザが首を傾げると、パティは、はにかんだ笑顔になった。
「今、お忙しいですか?」
 お暇だったら将棋のお相手でもしようかと思って、と鼻の頭を掻く。ユウザにかこつけているが、どうやら、する事が無くて退屈らしい。
「そうだな、私も時間を持て余していたところだ。相手になってもらおうか」
 笑いを噛み殺しながら頷くと、パティは顔を輝かせ、棋盤を取ってきます、と[きびす]を返した。
「パティ! その前に、隣の部屋に行って、銀の娘とミリアを呼んで来てくれ。どうせなら、大勢の方が楽しいだろう? それから、グラハムに、皆、私の部屋に集まるからと伝えてくれ」
 ユウザの指示に、パティは一も二もなく頷き、パタパタと駆けて行った。その後ろ姿を見て、[こらえ]切れずに笑みがもれる。
(全く、仕様のない奴だ)
 一人っ子のユウザにとって、パティは、やんちゃな弟みたいなものだった。
 彼が御者として仕えるようになって、既に二年になるが、幼い頃からの習慣が抜け切らないようで、暇さえあれば、ユウザの周りをウロチョロしている。
 祖父のモーヴは、使用人としての心構えがなっていない、と頭を抱えているようだが、当人は一向にお構いなしだ。
「ユウザ様、お招き、ありがとうございます」
 程なくして、茶器と山ほどの菓子を抱えたミリアが、にこにこしながら入ってきた。その後ろから、棋盤を高々と掲げたパティが続く。だが、その二人だけだった。
「サイファ・テイラントはどうした?」
「それが……」
 ユウザの問いに、ミリアは申し訳なさそうに眉をひそめた。将棋は頭を使うから嫌いだと申して……。
 その、あまりに率直な理由に、ユウザは笑ってしまった。もっと取り繕う事だって、出来るだろうに。
「なるほど。それでは仕方あるまい」
 くすくす笑いながら、おもむろに席を立つ。
「ユウザ様?」
 どちらへ? と尋ねるミリアに、ユウザは肩をすくめておどけてみせた。
「将棋の嫌いな姫君でも、茶の誘いなら応じてくれよう?」
 サイファの部屋の戸を叩いても、返事が無かった。
「開けるぞ」
 眠っているのかと、静かに扉を開けてみるが、彼女の姿は何処にも無い。籠に入れられたままの鷲が、ユウザに気づいて、バサバサと羽を鳴らした。
「お前の主は何処に居る?」
 籠の前に屈むと、ルドは編み目の間から嘴を出し、穴を広げようと暴れた。
「出たいのか?」
 ユウザが[ふた]を取ってやると、素早く籠の底から這い上がり、開け放したままの扉から廊下へと飛び出す。
 後を追って出ると、ルドは階段の手すりに乗って彼を待っていた。こちらが追いついたのを見届けてから一足先に進み、しばらく行くと、またふり返る。
(賢い鳥だ)
 ユウザは感嘆の溜息をこぼしながら、出港前の出来事を思い返した。
 コメンタヴィアの港で、サイファに平伏[へいふく]した民衆を見て、ユウザは、本当に神が降臨したかと思った。
 純白の鷲と、人外の者を思わせる、妖しいまでの美貌――。
 しかし、それだけでは無かった。
 野性の獣を平然と従わせ、自分はただの人間だと言い切る彼女は、神の末裔[まつえい]とされる自分なぞより、よほど神憑[かみが]かりではないか。
 ハシリスがサイファに執心するのも、その辺りに理由があるのかもしれない。
 磨き上げることで輝き続ける皇家と、天賦[てんぷ]の光を放つ娘。
 この二つが揃えば、皇家の威光は計り知れないものとなる――。
 ユウザは小さく[かぶり]を振った。彼女を権力争いの道具として見る事は、したくなかった。
 そして何より、祖母に抱いたこの憶測が、邪推であることを願った。
 ルドに導かれるまま行き着いたのは、甲板だった。
 こちらに背を向け、舳先[へさき][たたず]むサイファの姿は、幻のように美しい。腰まである銀の髪が風に舞い、紫苑色の肩掛[ストール]が羽衣のように棚引いている。
 ルドに気づいた彼女は驚いたようにその身を抱き上げ、どうやってここに? と、呟いた。
「こんな所で、何をしている?」
 ユウザの声に振り返ったサイファは、一瞬、[ひる]んだように見えた。
「……ちょっと、外の空気を吸いにきました」
「は? お前、何処か具合でも悪いのではないか?」
 朝から元気がなかった事を思い出し、慌ててサイファの額に手を当てる。急に丁寧な言葉遣いになった彼女を、熱でもあるのではないかと、本気で心配したユウザであった。
「そんなんじゃない! ……です」
 彼の手を邪険にふり払い、サイファは口を真一文字に結んだ。
「では、どういう風の吹き回しだ?」
 何か下心でもあるのか? と、からかい半分に尋ねると、サイファは珍しく視線を逸らした。
「――どうした?」
 いつもと明らかに違う彼女の様子に、ユウザは真面目に問いかけた。
 突然、目の前に見えない衝立[ついたて]を立てられたような気がした。
「何でも無いです……」
「それなら、どうして態度を変えた?」
 なぜ、私を見ない? ユウザは、俯くサイファの顎を掴み、強引に上向かせた。こうやって、むりやり顔を上げさせるのは、本日、二度目だ。
「……あなたが皇孫殿下だったなんて、知らなかったから……」
 目を伏せながら、サイファが掠れた声を出す。
 その台詞に、ユウザは心臓をもぎ取られたような心地がした。
(お前もか――)
 心の中で深い溜息を[]き、力なく彼女から手を離す。
 昔から、そうだった。
 どんなに対等に言葉を交わした者でも、彼が皇帝の孫だと知った途端、皆、[へりくだ]った物言いになる。
 お嫁さんになってあげる、と言ったミリアでさえ、大人になるにつれて変わってしまった。
 それは尊い疎外感だった。
 自分を見つめる人々の目は、畏敬と情愛で溢れているのに、誰も近づこうとしない。一歩下がってつき従い、隣に並ぶことは無い。
 しかし、彼女の視線は、それとも微妙に異なっていた。必死に顔を背けているような、何かと葛藤しているような……。
 すると、いきなり、サイファが奇声を発した。今度こそ、本当に頭がおかしくなったかと懸念するくらいのを。
「やっぱり駄目だ!」
 サイファはぶんぶんと頭を振った。呆気に取られるユウザを見上げ、きっぱりと宣言する。
「どう考えても、おかしいんだよ! あんたの身分を知ったからって、こんな風に手の平を返すのは、あたしの本意じゃない。あんたは、あんただ。元帝都防衛隊長だろうと、あたしの教育係だろうと、皇帝陛下の孫であろうと!」
 不敬罪に問うなら、問えばいい!
 その、ほとんど喧嘩腰ともいえる彼女の言葉は、ユウザにとって、どんな賛辞よりも得難い、神聖なものに思えた。
 皇帝の孫≠ニしてでは無く、彼女と向き合ったままの自分を――素の自分をユウザ・イレイズ≠ニ認めてくれた。
 こんな事は、初めてだった。こんな人間に出会うのは――。
 ユウザは口元が[ゆる]むのを感じながら、サイファの決意に満ちた眼差しを受け止めた。
「愛玩動物は飼い主に似るというが――」
 お前たちは双子のようだな、と笑うと、彼女は間の抜けた顔になった。
「何の話だ?」
「ルド≠ニいう言葉が、神聖語で正直≠意味するのは、知っておろう? お前もその鷲も、馬鹿がつくほど、己の心に正直だ」
「馬鹿で悪かったな! どうせ、あたしが飼うより、利口なあんたに飼われた方が、ルドだって幸せだろうよ!」
 サイファはむくれたように唇をすぼめ、抱えていたルドをユウザの腕に押しつけた。
「何の真似だ?」
「言葉通りだよ! 今まで、あたしの言う事しか聞かなかったルドが、あんたには、あっさり懐いた。あんたを、新しい主人に選んだって事だ……」
 始めは威勢の良かった語調が、仕舞には、涙を含んだ鼻声になる。
「何だ。そんな事でいじけていたのか」
 ユウザは小さく吹き出した。
「いじけてなんかいない!」
 潤んだ瞳で強がるサイファに、不思議な衝動を覚える。
 この腕に抱きしめて、優しく[なだ]めてやりたいような。そんな庇護欲に駆られる。
「この鳥は、誠に正直≠フ名に相応しいと思わぬか? お前は主≠ナ、私の事は仲間≠セと思っている。だから、私には敬意を払わない」
 衝動を抑えながら、ユウザはルドの[なめ]らかな翼を撫でた。
「仲間?」
「そうだ。お前を守るという、共通の使命を持つ同志≠セ」
「……そうなのか?」
 サイファは腰を屈め、ルドと目を合わせた。
 その顔は真剣そのもので、ユウザは、ふとした悪戯心を出した。
「何なら、証拠を見せてやろう」
 ルドをサイファに差し出し、受け取ろうとして伸ばされた彼女の腕を、ぐいと引き寄せた。勢い余って倒れこんできた体を、そのまま抱き竦める。
「うわっ! 何するんだよっ!」
 叫んだサイファは、腕を振り回してもがいた。
 彼女の腕を離れたルドが、けたたましい鳴き声を上げ、俊敏に舞い上がる。
(来る!)
 ユウザの眼前に白い影が射した瞬間、腕に激痛が走った。
「――ほら」
 これで分かったろう? 右腕で顔を庇いながら、ユウザはにっと笑ってみせた。手首から、たらたらと血が流れ、鷲の爪痕が肌にくっきりと刻まれている。
 空中を大きく旋回したルドは、ユウザとサイファの間に、ふわりと降り立った。その黄金[こがね]色の瞳は、闘争本能剥き出しで、日の光のように輝いている。
「馬鹿!」
 何も、ここまでしなくったって! と、ぼやきながら、サイファは身に纏っていた肩掛[ストール]で、急いでユウザの手首を縛った。そんな彼女を見て、ルドが不機嫌そうに体を揺らしている。
「気は晴れたか?」
 ユウザがにっこりすると、サイファは呆れたように笑った。
「あんたこそ、大馬鹿野郎だ。――でも」
 ちょっと嬉しかった。
 照れ臭そうに囁かれた声は、ユウザの耳を優しく掠めた。
「では、戻ろうか」
 未だに警戒しているルドに目配せすると、 彼はユウザの肩に飛び乗った。その爪の立て具合に、先程までの遠慮は無い。
(さすがに、同志の目はごまかせぬようだ)
 ユウザは内心、苦笑いを浮かべた。
 証拠なんて、ただのこじつけ≠セった。
 彼女を抱きしめたい――。
 身内を[ひた]す欲望に、[あらが]え無かっただけのこと。
 手首に残された傷跡は、裏切りに対するルドからの警告だ。恐らく、最初で最後の。
(神の[]使いか、はたまた、地獄への案内人か……)
 神々しくも、禍々しいルドの雄姿を右肩に仰ぎながら、ユウザは口の[]を軽く引き上げた。
 どうやら、この鳥とは長いつき合いになりそうだ。
「なんか、腹へったなぁ」
 何も知らないサイファは、一人、晴れやかな笑みを浮かべている。
- 2003.05.03 -
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