Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 11 話  微笑[ほほえ]みの魔法[まほう]
 船室の長椅子で微睡[まどろ]んでいると、船体に軽い衝撃が走った。
「何事だっ!?」
 跳ね起きて、円窓[まるまど]に駆け寄ったサイファは、外を見るなり、ほっと胸を撫で下ろした。ちょうど、船が着岸したところだった。
 帝都に次ぐ大都市、オーランブールの活気ある港には、居並ぶ漁船に混じって、大きな商船が幾つも停泊している。この船も、ここに数時間留まって、燃料の風狼石や食料を補充することになっていた。
(もう、オーランブールか。やっぱり、風狼船は速いなぁ……)
 いつの間にか茜色に染まった空を見ながら、サイファはしみじみ思った。
 自分が上京してきた時は、オーランブールからコメンタヴィアに行くだけで、人力の船で丸一日かかった。それが、この船ではたったの十時間弱である。お金が無かったので、一番安くて遅い船に乗った所為もあるだろうが、風狼船の速さは半端じゃない。
「サイファ、私たちも下りるわよ」
 扉を叩くと同時に入ってきたミリアは、半分寝ぼけ[まなこ]のサイファに裏葉[うらは]色の上着を着せかけ、乱れた髪をテキパキと結い上げた。
「よし、完璧!」
 櫛を片手にサイファの全身を隈なく点検し、自分の仕事の出来具合に満足気にうなずく。
 綺麗に編み上げられた銀の髪は、さながら白金でできた鎖のようだ。
「なぁ、首筋が寒いんだけど……」
 サイファは手の平で首の後ろを押さえた。先ほどまでしていた肩掛[ストール]は、ユウザの血が染みついて、使い物にならなくなっていた。
 ちなみに、ユウザに怪我を負わせたルドは、籠の中に厳重に閉じ込められている。丸焼きにして食べてやる! と息巻くミリアを[なだ]めるのには、かなり骨が折れた。
「美しく装うには、時に、我慢も必要よ」
 ミリアはあっさり受け流すと、さぁ、行きましょう、とサイファの背を叩いた。
 二人が連れ立って甲板に上がると、既に、ユウザたちが待っていた。
「遅いぞ、ミリア!」
 御者の少年が、偉そうに腕を組む。ミリアより年下のようだが、小柄な体型も相俟[あいま]って、実年齢以上に幼く見えた。
「お待たせ致しました、ユウザ様」
 ミリアは、ユウザに向かって丁寧に腰を折ると、ついでのように、少年に頭を下げた。
「ミリア! お前、ぜんっぜん悪いと思ってないだろ!」
 少年が鼻息も荒く非難する。幼くとも、宮人は宮人。商人であるミリアより、身分は上という事になる。
「あら、そんなことありませんよぉ。パティ様」
 パティ様≠ニいう所にだけ妙な音調をつけて、ミリアは慇懃に応じた。
「その言い方が腹立つんだよ! 将棋で僕に全敗したくらいで、大人気ない!」
「何ですって!? 全勝負、ユウザ様のお知恵を拝借したくせにっ!」
「うっ……ちょっと助言をいただいただけじゃないか!」
「一手打つごとに、ご意見を伺うのは、助言とは言いませんわ!」
 人目も気にせず言い争いを始めた二人は、まるで、じゃれあう小型犬のようだった。うるさいだけで、緊迫感がない。
「二人とも、好い加減にしろ」
 微苦笑を浮かべながら、ユウザが間に入った。
「ミリア、悪いが一足先に降りて、どこかゆっくり食事できそうな店を探してきてくれないか?」
「かしこまりました。せっかくオーランブールにきたんですから、名物の鯛料理がいただけるお店を見つけて参りますわ」
 楽しみにお待ち下さいね! とミリアは笑顔でうなずいた。相手がユウザだと、態度がころりと変わる。その変わり身の早さには舌を巻くばかりだ。
「パティは、ミリアについて行ってやれ」
 女の独り歩きは心配だから、とユウザが命ずると、ミリアとパティは同時に不満の声を上げた。さっと顔を見合わせ、睨み合う。
「ミリアよ――」
 ふいに、ユウザの顔つきが厳しくなった。
「もし、お前の身に何かあったら、どうする? 私を信頼して一人娘を託されたアンバス家のご当主に、申し訳が立たぬであろう?」
 その言葉に、ミリアははっとしたように唇を噛んだ。普段は勝気な瞳が、しゅんと翳る。
「それに――」
 ユウザは、ふっと固かった表情を[ほど]いた。
「お前以外に誰が、私に美味い茶を淹れてくれるのだ?」
 その悪戯な笑みに、ミリアの頬がぱぁっとほころんだ。今泣いた烏がもう笑う。
 それからユウザは、今度はパティへ向き直った。
「パティ、お前は私の一番弟子だろう? お前なら大丈夫だと思ったから、ミリアに同行してもらいたかったのだがな」
 自信が無いのならグラハムに頼もう、と突き放すように言う。
 水を向けられた護衛は、我関せずとばかりに、無言で成り行きを見守っている。
「そんなことありません! 絶対に、ご期待に応えてみせますっ!」
 パティはぶんぶんと[かぶり]を振った。ついさっきまで不平を漏らしていたとは思えない、真剣な面持ちになる。
「それなら、任せよう」
 ユウザはにっこりすると、気をつけてな、とパティの頭を軽く撫でた。
「では、行って参ります」
 仲違いしていたミリアとパティは、小競り合いを続けながらも、並んで船を下りていった。
「見事な飴と鞭だな」
 一連の様子を黙って見ていたサイファは、ユウザの巧みな駆け引きに、すっかり感心してしまった。さすが、人の上に立つ人間は違う。
「何がだ? 私は真実を述べただけだぞ」
 顔色も変えず、そう切り返すユウザは、やはり、どこか只者じゃない。これだけの事を何の思惑もなしにやってのけたのか、それとも、空とぼけているだけなのか。
「私たちも下りよう」
 ユウザに促され、サイファたちは夕日に染まる港に下り立った。
 積み荷を担いだジル・フェスターシャ号の乗組員たちが、桟橋を忙しそうに行き来している。
 ミリアたちが選んだ店は、港から少し離れた、小体[こてい]な大衆食堂だった。路地裏ということもあって客の入りが少なく、ゆっくり出来るという点においては、ユウザの希望通りである。
 初めは、もっと大きな高級食堂を探したらしいが、ちょうど夕食時で、何処も満員だったという。皇家の七光りがあれば、いくらでも割りこめるところだが、当の皇子がそれを許さなかった。
「これはこれは。高貴な方々が、このようにむさ苦しい店へ、ようこそ……」
 ひょろりと痩せた老年の主人は、両手を無意味に動かしながら、一行を窓際の席に案内した。
 向かいの宿屋の壁が夕焼色に映えるばかりで、見晴らしを考慮した席では無いが、壁土が所々はげかかっている店の中では一等良い場所だった。
「あの、もし宜しければ、外套[がいとう]をお預かり致しますが?」
 店主の声が、緊張のあまり小刻みに震えた。額には薄っすらと汗まで滲んでいる。
「そうだな。頼もうか」
 ユウザはいつもの無愛想を[]き、店主に微笑みかけた。途端に、強ばっていた老人の顔が弛む。
(うわぁ……)
 ユウザの表情の変化をまともに見たサイファは、幻術にでもかけられた気になった。雨上がりの空に浮かぶ鮮やかな虹のように、見る者を惹きつけ、和ませる。
 これは、計算して出来る[たぐい]のものではない。彼に生来具わった美質――神の賜物[たまもの]だ。
「そちらのお姫様は?」
 落ち着きを取り戻した店主の視線が、サイファに注がれた。
「え? あたし?」
 姫などと呼ばれ、サイファは目を丸くした。その横で、グラハム以外の人間が一斉に吹き出す。
「悪かったな。どうせ、姫って柄じゃないよ」
 サイファが唇を尖らせると、ユウザはくすくす笑いながら、彼女の上着に手をかけた。
「お手伝い致しましょう、姫」
 恭しく言って、サイファが上着を脱ぐのを助けてくれる。
 それを見たミリアとパティは、何もユウザ様がなさらなくとも! と揃って抗議した。昨日の敵は今日の友、といったところか。
「私はこの者の教育係だからな」
 脱がせた上着を主人に渡しながら、ユウザは軽く[]なした。淑女の[たしな]みをくどくどと説くより、初めから淑女として扱う方が実践的で良いだろう、と。
「……ありがとう」
 サイファが礼を言うと、彼は朗笑を浮かべた。ほら、もう効果が出た。
 その笑顔に先ほどの魔力は感じられないものの、サイファは、何だかいい、と思った。
 愛想のない顔もそれなりに似合ってはいるけれど、今みたいに、うっかり笑った顔の方が、ずっといい。
 サイファの頭の中には、いつか見た、彼の冷たい瞳がこびりついている。あれを見た瞬間は、自分はそうなりたくない、と思っただけだったが、今は少し違っていた。
 出来ることなら、彼にもあんな顔をしてほしくない。皇帝陛下が彼の実の祖母だと知って、益々そう思うようになった。
 愛する者を、あんな目で見てはいけない。そんな目を、させてもいけない。
 ハシリスのユウザを見る眼差しは、優しい。ユウザのハシリスに寄せる思い遣りだって、深い。
 それなのに、どうして心の底から打ち解けられないのか?
 サイファは窓の外を見遣った。赤く染まっていた壁が、今はしっとりした夕闇色に変わっている。
(明日の夕日は、何処で見るんだろう?)
 サイファは、ディールの日暮れを思い浮かべた。
 村を囲うアスラン樹海。その黒々とした樹木を焼き尽くすように照らす、紅蓮の太陽。
(あの景色を見たら、とても無表情じゃいられないだろうな)
 サイファはひっそりと笑みを漏らした。
 明日は無理でも、村にいる間、一度くらいは見せてやれるだろう。
 母の眠る、あの丘に立って。
- 2003.05.08 -
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