Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 12 話  奇禍[きか][よる]
 それは、一瞬の出来事だった。
 食事を終え、帰り支度を始めた一行に、店主が、預かっていた上着を持って近づいた。
 その時、店の奥から走り出てきた影が、すれ違いざまにユウザの外衣[マント]を奪って行った。
「――ど、泥棒っ!」
 あまりの早業に、ちょっとの[]ほうけた店主は、我に返って大声を出した。
 逃げて行くのは、小汚い恰好をした中年の男だ。どうやら、店主の隙をついて勝手口から侵入したものとみえる。
 通路に立っていたミリアが、男の猛烈な体当たりを食らって宙に弾き飛ばされた。その勢いで椅子の背に頭を打ちつけ、ぐったりとくずおれる。
「ミリア!」
 傍にいたユウザは素早く彼女を抱き起こした。その[かん]に、泥棒がまんまと店の外へ飛び出す。
「待てっ!」
 パティが叫んだのと、グラハムが駆け出したのが、同時だった。背中の剣を引き抜き、泥棒の後を追う。
(事も有ろうに、あれを盗まれるとは……)
 気絶したミリアを長椅子にゆっくり横たえながら、ユウザは内心、ひどく焦っていた。
 あれがいつもの外衣[マント]なら寄付したと思って済ませるところだが、バスティルからの[たまわ]り物ではそうはいかない。外衣[マント]の価値云々[うんぬん]ではなく、せっかくの叔父の心遣いを無下にしてしまう。
「あぁ、何てことだ……」
 老人は青ざめた顔で、ユウザの足元に跪いた。その目が、どんなお咎めも甘んずる、と告げている。
「ご亭主! 何でもいいから、弓を貸してくれ! それと、矢を一本!」
 パティたちと一緒に表に出ていたサイファが、戸口で声を張り上げた。悄然としている店主を、早く早く! と急かす。
弦打[つるうち]用の飾り弓しかないのですが……」
 神棚から、弓幹[ゆがら]の華奢な魔除けの弓を下ろしてきた店主は、これでも良いのでしょうか? と困惑顔になる。
 受け取ったサイファは、上等! と頷き、[つる]をきつく張り直した。
「何をする気だ? よもや、ここで矢を放とうとは言うまいな?」
 ユウザは、数多[あまた]の通行人で混み合う大通りを打ち眺めた。
 人を掻き分けて逃げる泥棒と、それを追うグラハムの背が辛うじて見える。小さいパティは、頭すら見えない。
 今、ここで矢を射れば、泥棒に届く前に、関係のない人間に当たってしまう。そんな危険な真似は、させられない。
 しかし――。
「心配するな。他の者は絶対に傷つけないから」
 サイファは矢を[つが]え、不敵に笑った。
 その目は正に獲物を追う狩人のものだった。背筋をすっと伸ばし、標的に狙いを定める。
(この娘は、誰だ?)
 目の前のサイファが、全くの別人に見えた。
 真っ直ぐに弓を構え、射る≠ニいう作業に没頭する姿は、暁と狩猟の女神、ツェラケディアの神狩[かむが]りを思わせた。
 神狩り≠ニは、俗にいう天罰≠フ事である。世に[あだ]なす者を、至上神、ソルティマが裁き、秩序の矢≠ナもって、ツェラケディアが討ち取るとされている。その矢を作るのは、皇家の祖先であり、正義と勝利を司る男神、イグラットの役目だ。
 サイファは、一瞬、息を詰めると、細い指先から弦を離した。
 白い矢羽が風を切り、思い思いに歩む人々の合間をすり抜ける。そして――。
「よしっ!」
 サイファが勝ち誇った叫びを上げた。
 泥棒の右肩に矢が突き立ち、体勢を崩してつんのめる。それを、追っていた二人が取り押さえたようだ。
(信じられない……)
 一連の出来事を目の当たりにしながらも、ユウザは夢でも見ているような気がした。
 引っ切りなしに往来する人を巧い具合に避け、見事、命中させるなんて、奇跡としか言い[よう]がない。
 しかも、彼女は初めから自信があったようだった。その落ち着いた気迫に、ユウザもすっかり呑まれてしまったのだから。
「な? 大丈夫だったろ?」
 そう言って笑うサイファは、もう、いつも通りの彼女だった。涙ぐむ店主の肩を優しく叩きながら、良かったな、と弓を返す。
「ありがとう」
 お前のお陰だ、とユウザが丁寧に頭を下げると、サイファはくすぐったそうにしながらも、満足げに微笑んだ。
 その後、捕らえられた男は、ユウザが制止するより僅かに早く、グラハムによって斬り捨てられた――。
 取り戻した外衣[マント]を身にまとい、ユウザは甲板で風に吹かれていた。川面に映る星々をぼんやり眺めながら、やり切れない溜息をこぼす。
 男の死に顔が、頭から離れなかった。
 皇家に[はん]する者は、古来より極刑と決まっている。だから、グラハムの行為は当然のことだった。
 しかし、男のみすぼらしい風体からして、あれが金目当ての犯行だという事は明らかだった。そこが、引っかかっている。
(何も、殺す必要は無かったのだ)
 無論、盗みを許すことは出来ない。
 だが、貧困に喘ぎ、のっぴきならないところまできていたとしたら? あれが、自分の命を繋ぐための、最後の手段だったとしたら?
 盗んだ外衣[マント]が、皇族の持ち物ではなかったら――?
 ユウザは両手をきつく握り締めた。
 自分が殺したも同然だと思った。
 男の目から光が消える寸前、その目に強い憎しみが宿るのが分かった。
 自分を斬ったグラハムを睨みつけ、微かに唇を動かすも、言葉にならない。けれど、それは間違いなく呪いの言葉だった。
 男は恨み、苦しみながら息絶えた。彼の[むくろ]は、今ごろ、逆賊の末路として、刑場に晒されていることだろう。
(こんな理不尽こそ、許されざる罪だ)
 冷たい夜風が頬を刺す。
 ユウザは低い声で、弔いの[じゅ]を唱えた。あの場で拝んでやるのは、立場上、不可能だったが、今なら構わないだろう。
【風の女神、フェスターシャよ――】
 この祈り、[]御魂[みたま]に届け給え。
 神聖語の流れるような響きが、風音に紛れる。あたかも、ユウザの願いを叶えたとばかりに。
 真夜中。
 眠りに着いていたユウザは、突然、背中に人の気配を感じ、枕元の剣を引き寄せた。
 心臓がいつもの何倍もの速さで拍動し、[つか]を握る手に嫌な汗をかく。
 こんな事は初めてだった。
 剣を扱う者として、ユウザは常人より勘が鋭く、ちょっとした物音でもすぐに目を覚ます。それなのに、背後で[うごめ]く侵入者には、こんなに近くに寄られるまで少しも気づかなかった。
 やがて、もぞもぞと動いていた気配が、ぴたりと止む。
 ユウザはいつでも抜刀できるよう、鞘口に指を添えた。眠っているふりをしながら、そっと肩越しに顧みると――。
「なっ!」
 思わず、握っていた剣を取り落とした。
 ふり返った彼の眼前に、唇を薄っすらと[ひら]いた、サイファの安らかな寝顔がある。
(何なんだ、一体……)
 ほっとすると同時に、ユウザは軽い目眩を覚えた。男の寝所[しんじょ]に寝ぼけて入ってくる女なんて、聞いたことが無い。
「おい、起きろ」
 ユウザはサイファの肩を手荒に揺さぶった。しかし、彼女は軽く眉を寄せ、うるさそうに手を払い除けるばかりだ。
「……襲われたいのか?」
 サイファの無防備な耳元に、半ば本気で囁く。幾ら強い自制心を誇るユウザでも、この状況はかなり[まず]い。
 褐色[かちいろ][=濃い紺色]の寝巻きから伸びる象牙色の脚と、鎖骨の[なめ]らかな曲線。深い寝息までもが、沈黙の誘惑となる。
 サイファの髪に右手を伸ばしかけたユウザは、ぴくりと指を震わせた。手首に巻かれた真新しい包帯が目に留まる。
「危ない、危ない。今度、良からぬ真似をしたら、あの鷲に殺されるのだった」
 苦笑混じりに呟くと、ユウザはいつかと同じように、彼女の躰を上掛けで覆った。
 それから、静かに寝台を下りる。
 そうでなくとも、昼間、妙な気を起こしかけたのだ。笑っていられる内に、離れておいた方がいい。
(それにしても――)
 長椅子に寝そべりながら、ユウザは首を[ひね]った。
 いくら殺気が無かったとはいえ、なぜ、こうも易々[やすやす]とサイファの侵入を許してしまったのか? もし、彼女が刺客だったら、今ごろ自分はこの世にいなかったかもしれない。
 皇家の一員である以上、いつ何時[なんどき]、命を狙われるか分からない。それは権力者の宿命とも言えた。
 恐るるは国民の一大決起などではなく、皇位継承権を狙う、親類縁者による暗殺だ。
 幸い、ユウザはスゥオルの称を戴く剣豪なので、正面から襲われる事は無かったが、父のアグディルなどは、何度か危ない目に遭っている。
「全く、とんだ夜だ――」
 星明りに目を細めながら、ユウザは長大息[ちょうたいそく]を漏らした。
- 2003.05.11 -
 

TREASURE

香月碧様より、このシーンをイメージした素敵なイラストを頂戴しました!
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