それは、一瞬の出来事だった。
食事を終え、帰り支度を始めた一行に、店主が、預かっていた上着を持って近づいた。
その時、店の奥から走り出てきた影が、すれ違いざまにユウザの外衣を奪って行った。
「――ど、泥棒っ!」
あまりの早業に、ちょっとの間ほうけた店主は、我に返って大声を出した。
逃げて行くのは、小汚い恰好をした中年の男だ。どうやら、店主の隙をついて勝手口から侵入したものとみえる。
通路に立っていたミリアが、男の猛烈な体当たりを食らって宙に弾き飛ばされた。その勢いで椅子の背に頭を打ちつけ、ぐったりとくずおれる。
「ミリア!」
傍にいたユウザは素早く彼女を抱き起こした。その間に、泥棒がまんまと店の外へ飛び出す。
「待てっ!」
パティが叫んだのと、グラハムが駆け出したのが、同時だった。背中の剣を引き抜き、泥棒の後を追う。
(事も有ろうに、あれを盗まれるとは……)
気絶したミリアを長椅子にゆっくり横たえながら、ユウザは内心、ひどく焦っていた。
あれがいつもの外衣なら寄付したと思って済ませるところだが、バスティルからの賜り物ではそうはいかない。外衣の価値云々ではなく、せっかくの叔父の心遣いを無下にしてしまう。
「あぁ、何てことだ……」
老人は青ざめた顔で、ユウザの足元に跪いた。その目が、どんなお咎めも甘んずる、と告げている。
「ご亭主! 何でもいいから、弓を貸してくれ! それと、矢を一本!」
パティたちと一緒に表に出ていたサイファが、戸口で声を張り上げた。悄然としている店主を、早く早く! と急かす。
「弦打用の飾り弓しかないのですが……」
神棚から、弓幹の華奢な魔除けの弓を下ろしてきた店主は、これでも良いのでしょうか? と困惑顔になる。
受け取ったサイファは、上等! と頷き、弦をきつく張り直した。
「何をする気だ? よもや、ここで矢を放とうとは言うまいな?」
ユウザは、数多の通行人で混み合う大通りを打ち眺めた。
人を掻き分けて逃げる泥棒と、それを追うグラハムの背が辛うじて見える。小さいパティは、頭すら見えない。
今、ここで矢を射れば、泥棒に届く前に、関係のない人間に当たってしまう。そんな危険な真似は、させられない。
しかし――。
「心配するな。他の者は絶対に傷つけないから」
サイファは矢を番え、不敵に笑った。
その目は正に獲物を追う狩人のものだった。背筋をすっと伸ばし、標的に狙いを定める。
(この娘は、誰だ?)
目の前のサイファが、全くの別人に見えた。
真っ直ぐに弓を構え、射る≠ニいう作業に没頭する姿は、暁と狩猟の女神、ツェラケディアの神狩りを思わせた。
神狩り≠ニは、俗にいう天罰≠フ事である。世に仇なす者を、至上神、ソルティマが裁き、秩序の矢≠ナもって、ツェラケディアが討ち取るとされている。その矢を作るのは、皇家の祖先であり、正義と勝利を司る男神、イグラットの役目だ。
サイファは、一瞬、息を詰めると、細い指先から弦を離した。
白い矢羽が風を切り、思い思いに歩む人々の合間をすり抜ける。そして――。
「よしっ!」
サイファが勝ち誇った叫びを上げた。
泥棒の右肩に矢が突き立ち、体勢を崩してつんのめる。それを、追っていた二人が取り押さえたようだ。
(信じられない……)
一連の出来事を目の当たりにしながらも、ユウザは夢でも見ているような気がした。
引っ切りなしに往来する人を巧い具合に避け、見事、命中させるなんて、奇跡としか言い様がない。
しかも、彼女は初めから自信があったようだった。その落ち着いた気迫に、ユウザもすっかり呑まれてしまったのだから。
「な? 大丈夫だったろ?」
そう言って笑うサイファは、もう、いつも通りの彼女だった。涙ぐむ店主の肩を優しく叩きながら、良かったな、と弓を返す。
「ありがとう」
お前のお陰だ、とユウザが丁寧に頭を下げると、サイファはくすぐったそうにしながらも、満足げに微笑んだ。
その後、捕らえられた男は、ユウザが制止するより僅かに早く、グラハムによって斬り捨てられた――。
*
取り戻した外衣を身にまとい、ユウザは甲板で風に吹かれていた。川面に映る星々をぼんやり眺めながら、やり切れない溜息をこぼす。
男の死に顔が、頭から離れなかった。
皇家に叛する者は、古来より極刑と決まっている。だから、グラハムの行為は当然のことだった。
しかし、男のみすぼらしい風体からして、あれが金目当ての犯行だという事は明らかだった。そこが、引っかかっている。
(何も、殺す必要は無かったのだ)
無論、盗みを許すことは出来ない。
だが、貧困に喘ぎ、のっぴきならないところまできていたとしたら? あれが、自分の命を繋ぐための、最後の手段だったとしたら?
盗んだ外衣が、皇族の持ち物ではなかったら――?
ユウザは両手をきつく握り締めた。
自分が殺したも同然だと思った。
男の目から光が消える寸前、その目に強い憎しみが宿るのが分かった。
自分を斬ったグラハムを睨みつけ、微かに唇を動かすも、言葉にならない。けれど、それは間違いなく呪いの言葉だった。
男は恨み、苦しみながら息絶えた。彼の骸は、今ごろ、逆賊の末路として、刑場に晒されていることだろう。
(こんな理不尽こそ、許されざる罪だ)
冷たい夜風が頬を刺す。
ユウザは低い声で、弔いの呪を唱えた。あの場で拝んでやるのは、立場上、不可能だったが、今なら構わないだろう。
【風の女神、フェスターシャよ――】
この祈り、彼の御魂に届け給え。
神聖語の流れるような響きが、風音に紛れる。あたかも、ユウザの願いを叶えたとばかりに。
*
真夜中。
眠りに着いていたユウザは、突然、背中に人の気配を感じ、枕元の剣を引き寄せた。
心臓がいつもの何倍もの速さで拍動し、柄を握る手に嫌な汗をかく。
こんな事は初めてだった。
剣を扱う者として、ユウザは常人より勘が鋭く、ちょっとした物音でもすぐに目を覚ます。それなのに、背後で蠢く侵入者には、こんなに近くに寄られるまで少しも気づかなかった。
やがて、もぞもぞと動いていた気配が、ぴたりと止む。
ユウザはいつでも抜刀できるよう、鞘口に指を添えた。眠っているふりをしながら、そっと肩越しに顧みると――。
「なっ!」
思わず、握っていた剣を取り落とした。
ふり返った彼の眼前に、唇を薄っすらと開いた、サイファの安らかな寝顔がある。
(何なんだ、一体……)
ほっとすると同時に、ユウザは軽い目眩を覚えた。男の寝所に寝ぼけて入ってくる女なんて、聞いたことが無い。
「おい、起きろ」
ユウザはサイファの肩を手荒に揺さぶった。しかし、彼女は軽く眉を寄せ、うるさそうに手を払い除けるばかりだ。
「……襲われたいのか?」
サイファの無防備な耳元に、半ば本気で囁く。幾ら強い自制心を誇るユウザでも、この状況はかなり拙い。
褐色[=濃い紺色]の寝巻きから伸びる象牙色の脚と、鎖骨の滑らかな曲線。深い寝息までもが、沈黙の誘惑となる。
サイファの髪に右手を伸ばしかけたユウザは、ぴくりと指を震わせた。手首に巻かれた真新しい包帯が目に留まる。
「危ない、危ない。今度、良からぬ真似をしたら、あの鷲に殺されるのだった」
苦笑混じりに呟くと、ユウザはいつかと同じように、彼女の躰を上掛けで覆った。
それから、静かに寝台を下りる。
そうでなくとも、昼間、妙な気を起こしかけたのだ。笑っていられる内に、離れておいた方がいい。
(それにしても――)
長椅子に寝そべりながら、ユウザは首を捻った。
いくら殺気が無かったとはいえ、なぜ、こうも易々とサイファの侵入を許してしまったのか? もし、彼女が刺客だったら、今ごろ自分はこの世にいなかったかもしれない。
皇家の一員である以上、いつ何時、命を狙われるか分からない。それは権力者の宿命とも言えた。
恐るるは国民の一大決起などではなく、皇位継承権を狙う、親類縁者による暗殺だ。
幸い、ユウザはスゥオルの称を戴く剣豪なので、正面から襲われる事は無かったが、父のアグディルなどは、何度か危ない目に遭っている。
「全く、とんだ夜だ――」
星明りに目を細めながら、ユウザは長大息を漏らした。
- 2003.05.11 -
TREASURE
香月碧様より、このシーンをイメージした素敵な
イラストを頂戴しました!