Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 13 話  [こころ][かぎ]
「ユウザ様〜! 起きて下さーい!」
 能天気な声と同時に、うつ伏せになった背中に、どしんと重力がかかる。
「ぐえっ」
 気持ち良く眠っていたサイファは、蛙のような呻きをもらした。何かが、体の上に[]しかかっている。
 朝っぱらから、何とも最悪な寝覚め方だ。しかも、更なる受難がサイファを襲った。
 [たま]らず身をよじった彼女と、体の上の何か――パティ・パジェットの目が合う。
 次の瞬間。
「うああああっ!!」
 少年の耳をつんざくような驚愕の叫びを、サイファはまともに浴びてしまった。寸秒、世界から音が消える。
「……うるさいなぁ」
 じんじんする耳を押さえながら、サイファはのっそりと身を起こした。あまり寝相がよろしくない為、寝巻きがずれて、左肩が露わになっている。
「何で、お前がユウザ様の寝床にいるんだっ!?」
 赤い顔をしたパティが、サイファに向かい合う形でへたり込む。
「はぁ?」
 サイファは眉をひそめた。何を言ってるんだ? と口を開きかけ、ふと、部屋の内装が微妙に異なっていることに気づく。
 紫檀材の調度品も、深紫[こきむらさき]の絨毯も変わらないが――。
(あたしの部屋の窓掛[カーテン]、緑色じゃなかったっけ……?)
 朝陽を受ける杜若[かきつばた]色の窓掛[カーテン]に、冷や汗が流れる。という事は……?
「起きたのか?」
 そこへ、すっかり身支度を整えたユウザが現れた。寝台の二人を一瞥[いちべつ]するなり、邪魔をしたか? と、にこりともせずに言う。
「違う! 誰がこんなガキと!」
「僕はユウザ様を起こしにきただけですっ!」
 サイファとパティの声がはもった。互いの台詞に、思わず顔を見合わせる。
「誰がガキだっ!」
「人を起こすのに、一々上に乗るのか?」
 むっとするパティと、サイファの素朴な疑問がすれ違う。
 論点が完全にずれている。というより、もっと大事な事を忘れている。
 なぜ、自分がユウザの部屋にいるのか……。
「そんな恰好では、誤解されても文句は言えぬぞ?」
 こちらへ歩み寄ってきたユウザが、ほとんど邪悪とも思える微笑を浮かべ、彼女の剥き出しの肩に唇を落とす。
 サイファは声にならない悲鳴を上げ、襟元を正した。背筋がぞわぞわする。
「何するんだよっ!」
「つれないな。一夜を共にした仲だというのに」
 むくれるサイファに対して、ユウザがさらりと[]かす。
(一夜を……共に?)
 そこに思い至った途端、サイファは頬に血が上るのを感じた。昨日の夜中、手洗いに立った後、寝ぼけて隣の部屋に入ってしまったらしい。
「ごめん! 間違えたんだ!」
 どの部屋も扉が同じだから、とか何とか言い訳しながら、サイファは平身低頭で謝った。
「何だ、わざとではなかったのか」
 無表情で吐き出される戯言[ざれごと]が、洒落にならない。
(何か、めちゃくちゃ機嫌悪いんだけど……)
 心なしか、その顔が疲れているように見える。いや、実際、疲れているのだろう。真夜中に、寝台を追い出されたのだから。
「ごめんなさい」
 サイファが、もう一度、きちんと頭を下げると、ユウザは仕方がないなというように、軽く笑った。
「早く着替えてこい。朝食の時間だ」
 だけど、その笑顔にいつもの覇気が感じられない。
(何かあったのかな?)
 漠然と思った時。
「大変ですわー!」
 血相を変えたミリアが、部屋に駆けこんで来た。
 サイファ・テイラントがいないんです!
(あんまり、食べた気がしなかったな……)
 一人掛けの寝椅子に座り、せっせと縫い針を動かしながら、サイファは嘆息を漏らした。先ほどの、重たい朝食風景を思い出す。
 一行が囲む食卓には、混沌とした空気が漂っていた。
 お疲れ気味で、ぼんやりしているユウザが正面に。サイファの様子をちらちら窺いながらも、目が合うと慌てて俯くパティが斜め左。いつ見ても怒ったような顔のグラハムが右斜め。そして――。
 誰より凄い気を発していたのが、隣のミリアだった。
 サイファが居なくなったのでは? と、本気で心配したのと、その姿を愛しのユウザ様≠フ寝台で発見した憤りとが相俟[あいま]って、言い[よう]のない殺伐とした雰囲気を醸し出していた。
(そういえば、あいつ、食欲も無かったな)
 左半身に感じる殺気が怖くて、正面ばかり向いていたサイファは、結果として、ユウザの様子をつぶさに見守る形となった。一応、食べ物を口に運んではいたが、どうも義務的に食べているといった風情だった。
(何処か、具合でも悪いのかな……?)
 食事の仕方は、その人の元気の指標だ、とサイファは思う。
 自分の知る限り、ユウザはその身に似合わぬ大食漢なのだ。思わず、惚れ惚れしてしまうほどに。
「――出来た!」
 サイファは縫い上げたばかりの群青色の上着を、両手で[かざ]した。
 滑らかな天鵞絨[てんがじゅう]のそれは、元はフラウ城の居室の窓掛[カーテン]である。父親への土産として、帰郷が決まった翌日から、寸暇を惜しんで縫っていた。
(着てみるか)
 サイファは上着に袖を通すと、姿見の前に立った。しかし、彼女の体格では、肩の部分が落ちてしまい、出来映えが良く判らない。
(あいつに着てもらおうかな……)
 ユウザの姿を思い浮かべてみるものの、参考にならないな、と思い直す。背が高く細身の彼と、縦よりも横に広い父の骨格は、似ても似つかない。
(誰かいないかな?)
 パティは論外だし……と思ったところで、[ひらめ]いた。もう一人、適材がいるではないか。
 サイファは上着を抱えると、いそいそと隣の部屋に向かった。戸口で警備をしているはずの、グラハム・バリの元へ。
 [いか]めしい顔はそのままに、グラハムはサイファの頼みをすんなり聞き入れてくれた。小豆色の上着を脱ぎ、代わりに、サイファの作った上着を着込む。
 それだけでも、顔の印象が随分変わった。いつもは険のある表情が、幾分、和らいで見える。
「ちょっと、腕を上げ下げしてみてくれないかな?」
 サイファの指示に従い、グラハムが腕を上下に動かした。
「どう? きつい所はない?」
「ああ」
「着心地は?」
「悪くない」
 サイファの問いに、言葉少なに答える。
「――うん、いい感じ!」
 最後に、グラハムの周りをぐるりと一周したサイファは、大きく頷いた。
 肩幅も、袖の長さも問題ない。これなら、父が着ても大丈夫だろう。
「ありがとう」
 助かったよ、と笑顔を向けると、グラハムは、そうか、とだけ応えた。脱いだ上着を、黙ってサイファに差し出す。
「なぁ、ずっと立ったままで、疲れない?」
 お茶でも淹れてきてやろうか? と、お礼のつもりで言ってみたが、彼は静かに首を振った。
「そう……」
 がっかりしつつも、仕事中だから仕方がないか、と納得した時、グラハムが口を切った。
「殿下の寝所にもぐり込んで、よく生きて戻れたな」
「え?」
 唐突に投げかけられた言葉に、サイファは息を呑んだ。どういう意味か? と問う前に、答えが返ってくる。
「あの御方は、[けん]の鬼だ」
 自分の[つるぎ]を眺めながら、グラハムは[]びた声音で呟いた。
「かつて、殿下を亡き者にしようと、寝間に忍び[]った[やから]がいてな――」
「外敵か?」
「いや。ラパンサ・ホーランジュといって、殿下の家庭教師を務めていた男だ」
 たいへん博識な人物で、周囲からの信望も厚く、ユウザも懐いていたのだという。
 ハシリスの実妹が降嫁したことで、準皇族となっていたホーランジュ家は、その一件から、お家断絶となった。
「酷いな……」
 サイファは、抱えていた上着をぎゅっと握った。
 殺されかけた≠ニいう事実だけでも衝撃的なのに、信じていた者に裏切られた気持ちは、一体、どんなものだったろう? ユウザの気持ちを想うと、胸が締めつけられた。
「その男は、どうなったんだ?」
「衛兵が駆けつけた時には、既に絶命していた」
「……あいつが、殺したのか?」
「ああ。寝込みを襲ったのが、彼奴[きゃつ]の運の尽きだった」
 グラハムはわずかに唇を歪めた。それは、慈悲とも酷薄とも取れる、不思議な笑みだった。
「殿下は、ラパンサの死体を呆然と見下ろしていなすった。長年培われた剣士としての勘が、無意識の内に働いたようでな。自分が斬ったという事を、全く覚えていらっしゃらなかった」
「そんな……」
 サイファは絶句した。
 生きて戻れた≠ニいう言葉の意味が、身に沁みる。
「この話は、絶対に殿下のお耳に入れてはならぬぞ。心因性健忘症というやつで、そんな事件があったことすら、ご記憶に無いのだから」
「じゃあ、奴が死んだことも知らないのか?」
「いや、それはご存じだ。不慮の事故で亡くなったことになっている」
 グラハムは、今度こそはっきりと、憐れみの微笑を浮かべた。
「いつか、ラパンサの事を殿下ご自身に尋ねてみるがいい」
 昔を懐かしみながら、その死を悼まれるから――。
「……そうか」
 サイファはごくりと唾を飲み込んだ。
 ラパンサ・ホーランジュ――。
 顔も知らない男の名が、サイファの胸を重苦しく満たした。
『忘れたいのに、忘れてはいけない記憶には、鍵をかけてしまうの』
 ふいに、母の声が頭を[]ぎった。
『いいこと、サイファ? 忘れたいのに、忘れてはいけない記憶には、鍵をかけてしまうの。心の扉を、しっかりと閉じてね。後は、鍵の在り[]を忘れるだけ。そうすれば、開けたくても開けられなくなるでしょう?』
 あれは、母が世を去る、数週間前の事だった。泣きじゃくるサイファに、母は微笑みながらそう言った。
 今となっては、何が悲しくて泣いていたかも定かでないが、この時の母の言葉は、良く覚えている。鍵を捨ててはいけないの? というサイファの問いに、ゆっくりと[かぶり]を振ったのも。
『一度起こってしまった事は、絶対に消せないわ。どんなに時が経とうとね』
 サイファは左耳の飾りに、そっと触れた。
 過去≠変えられないのなら、いずれは過去となる現在≠、悔いの無いように生きるしかない。さもなくば、閉ざされた扉に囲まれて、身動きが取れなくなる。扉の向こう以外、逃げ場もないほどに。
 だから、鍵を無くしてはいけないのだ。自分を追い詰めていたものが、いつの日か救いの道となるように。
(だけど……)
 それでも、サイファは願ってしまう。ユウザの無くしてしまった鍵が、絶対に見つからない事を。
 閉ざされた扉の奥に、永劫の闇しかないのなら――。
- 2003.05.15 -
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