Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 14 話  戸惑[とまど]
 船旅の終着地、ヒリングワーズ湖に到着したのは、昼過ぎになってからだった。
 上質な水華石の産地としても名高いこの湖は、世界有数の観光地である。湖畔には、湖で獲れた魚の干物や、水華石の欠片を売る小さな土産物屋が軒を連ね、船を降りた客たちが冷やかし半分に吸い込まれていく。
 船着場に下りたユウザたち一行は、広がる景色の雄大さに、しばし、歩みを止めた。
 湖を満たす淡水は至極[しごく]清らかで、水底[みなぞこ]に転がる水華石が、射しこむ陽光を、青く、不規則に弾き返している。
 この現象は、地下水脈から涌き出す水が石を押し上げる事によって起こるもので、リュフォイの寝返り≠ニ呼ばれている。
 水を司る男神リュフォイ≠ヘ、傷ついた者に手を差し伸べる癒しの神≠ニされていた。全ての人民を救うべく、世界中を忙しく立ち回る男神は、明け方近くに湖に戻り、日が沈むまで眠り続けるのだという。湖底を揺るがす、大きな寝返りを打ちながら。
「――おい、さっきから何なんだ?」
 馬車の仕度を待つ間、波止場で佇んでいたユウザは、顔をしかめてサイファを見遣った。
 ユウザの右肩に手を載せた彼女は、物言いたげな目をして、何でもない、と首を振る。しかし、その顔は、何処をどう見たって何かある≠ニ主張していた。
 彼女の様子がおかしいことに気づいたのは、一行が下船の用意を始めた頃だった。時折、酷く切なげな目で見つめてきては、ユウザの肩をあやすように叩く。
 はっきり言って、何を訴えたいのか、さっぱり判らない。
「何か悩みでもあるのか?」
 思い切って尋ねてみると、サイファはきょとんとした。悩んでいるのは、あんただろう? と。
「私が? 何の事だ?」
「……だって、いつもは人の三倍食べるのに、今朝は半人前しか食べてなかっただろ?」
 心配事があるなら言えよ、とサイファが気遣うように見上げてくる。
 どうも、食欲の無かった自分を心配してくれているだけのようだった。それにしては、少々、向けられる視線が大仰[おおぎょう]すぎる気もするが。
「ああ……」
 ユウザは軽く眉をひそめた。
(単なる寝不足だったんだが――)
 とっさに、うまい言い訳が出てこない。真実を口にする訳にはいかなかった。
 彼女と同じ部屋に居ただけで一睡も出来なかった、なんて――。
 ユウザは小さく息を吐いた。本当に、近頃の自分はどうかしていると思う。
 今朝だって、すやすや眠るサイファをつくづく眺めたユウザは、密かにその額に口づけた。この時の満ち足りた気持ちは、とても言葉では言い尽くせない。
 しかし、そうかと思うと、彼女とパティが寝台で向き合っているのを目にするや、今度はどうしようもなく不愉快になったのだ。全く、情緒不安定も[はなは]だしい。
「やっぱり、何か隠してるだろう?」
 黙りこんだユウザに、サイファが懐疑の目を向ける。空より青く、海よりも澄んだ二つの宝玉が、強い輝きを放つ。
(まただ……)
 自分の腕が、彼女を引き寄せたがっている。
「お前が案ずるような事は、何もない」
 大丈夫だ。
 ユウザは動揺を押し隠しながら、薄っすらと笑んだ。サイファがまだ疑うような目をしていたが、気づかぬふりをして続ける。
「さぁ、行こう」
 準備を終えたパティが、大きく手を振っている。
 ユウザはくるりと背を向けると、足早に歩いた。その後を、サイファの靴音が追ってくる。
 天馬は三十分に一度の割合で休憩を取りながら、少しずつ、だが確実にディールへと近づいていた。
「アスラン樹海って、本当に海みたいに見えるのねぇ」
 眼下に広がる密生した木々を見下ろしながら、ミリアがしみじみと呟く。葉の茂り具合が、ちょうど緩やかにうねる波のようだ。
「この辺りで『海に行く』って言うと、『樹海に行く』ことを指すんだよ」
 人の手がほとんど入っていないから動物たちの楽園になっている、とサイファが地元の民らしく説明する。
「獲物には事欠かない訳だ」
 ユウザが口をはさむと、サイファは、そうだね、と頷いた。
「でも、獲物を追うのに夢中になり過ぎると、土地の者でも戻って来られなくなるんだ」
 相当入り組んだ地形に加えて、大した目印もないので、狩りの最中、白骨化した行方不明者に出会うことも、そう珍しく無いという。
「……都会とは違う意味で、物騒ね」
 ミリアは二の腕の辺りを[さす]った。
「迷子になるなよ」
 ユウザが注意を促すと、彼女は頬を膨らませた。
「大丈夫ですよぉ! もう大人なんですから!」
 心配なのが他に居るじゃありませんか、と御者台に聞こえるように言う。案の定、他って誰だよ! と、パティが喚いた。
「まぁ、地元の人間ですら迷うそうだから、用心に越したことはないだろう」
 馬車の内と外で遣り合われては堪らないので、ユウザはやんわりと機先を制した。
「そうそう。特に小柄な人だと、猛獣に襲われやすいからな」
 サイファがあっけらかんと、聞き捨てならない事を言う。
「猛獣ぅ!?」
 ミリアとパティが声を揃えた。
「熊とか狼とか、その辺にうじゃうじゃ居るんだよ。あと、猪なんかも危ないかな」
 食べると美味いけど、なんて、のん気に言いながら、サイファは笑った。
(笑い事ではないだろう……)
 ユウザは心中でぼやいた。
 彼女の危険≠フ水準は、やはり、普通人とは大きく異なっているようだ。豪胆というか、命知らずというか。
「とにかく、村の外に出なければ問題ないよ」
 サイファの言葉に、ミリアは真剣に頷いた。
「眠たそうだな」
 大欠伸をしたユウザを見て、サイファは申し訳なさそうに肩を竦めた。
 一応、自分の闖入[ちんにゅう]が彼の眠りを妨げたという自覚はあるようだ。真の意味とは、遠く懸け離れた次元で。
「大事ない。帝都防衛に従事していた頃は、徹夜なぞ茶飯事だった」
 隣に腰かけたサイファに、ユウザはひらひらと手を振った。おまけに、小さな欠伸をもう一つ。
 一行は、ディールへ続く狭い一本道に馬車を停め、何度目かの休憩を取っていた。人通りが全くないので、迷惑駐車を気にかける必要もない。
「すまなかったね。長椅子じゃ、寝心地が悪かったんだろう?」
「気にするな」
 ユウザは鷹揚に頷いてみせた。これ幸いと、椅子になすりつける。
「……あのさ、昨日の夜、あたしが寝所に入って来たの、すぐに判ったか?」
 しばしの沈黙の後、サイファは、足元の土に小枝で渦を[えが]きながら、ぼそりと尋ねた。
 道の両側に並ぶ常緑樹が、空を覆うように枝葉を広げ、暗い影を落としている。
「いや――」
 ユウザが皆まで言い終わらぬ内に、サイファはバッと顔を上げた。何となく、表情が強ばったように見える。
「そんな顔をするな。お前が寝台にもぐりこんできて間もなく、長椅子に移ったのだから」
 今朝のは冗談だ、とユウザは苦笑した。
「じゃあ、ちゃんと目は覚めたんだ?」
 サイファの頬が安心したように弛む。
「無論」
 ついでに、お前を起こす努力もしたぞ、とユウザがつけ足すと、彼女は顔を赤くした。
「それにしても、昨夜[ゆうべ][きも]を冷やしたな」
 昨日から、ずっと気にかかっていた。
「お前が寝台に上がるまで、全く、気配を感じなかった」
「ああ、それは、あたしの職業病だ」
 [いぶか]るユウザに、サイファが笑顔で答えた。
「あたしら狩人は、子供の頃からずっと、気配を消す訓練を積むんだよ。矢を放つ一瞬まで、獲物に気取[けど]られないようにね」
 そう言って、弓を引く真似をする。
「なるほど」
 それなら得心がいく。
 野生動物でさえ気づかぬものを、人間である自分が察知するのは、かなり難しいだろう。殺気でもすれば、話は別だが。
「勘が鈍った訳ではなさそうで、安心したぞ」
 もう一度、修行し直さなければならないかと思った。
 ユウザが冗談まじりに言うと、サイファは微かに唇を引き締めた。剣術の稽古も大概にしておけ、と言い残し、馬車に戻っていく。
(やはり、おかしいな)
 その後ろ姿を見つめながら、ユウザは渋面を作った。
 自分を見つめる彼女の目に、昨日までは無かった何か≠感じる。憂えるような、案ずるような、何かに駆り立てられているような……。
 森の奥から、[ふくろう]の鳴く声がする。
 アスラン樹海に、夕闇が迫っていた。
- 2003.05.18 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL