Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 15 話  真夜中[まよなか]饗宴[きょうえん]
「見えた!」
 闇夜にぽっかりと浮かぶ橙色の[]に、サイファは歓声を上げた。
(とうとう帰ってきたんだ……)
 見る見る大きくなっていく村の明かりに、胸がじわじわと高鳴る。
「間もなく、着陸します!」
 パティのかけ声に合わせて、車体がゆっくり傾いた。その時――。
「あっ!」
 窓から身を乗り出していたサイファは、目を[みは]った。
 村の入り口に、小さな灯りが次々と集まってくる。彼女を出迎える、村人たちの蝋燭[ろうそく]の火だった。
「おーいっ!」
 サイファが大声で呼びかけると、蝋燭が手を振るように左右に揺れた。
 堪らず、サイファは窓枠に足をかけ、まだ浮いている馬車から飛び降りた。
 長い銀髪が重力に逆らって靡き、全身に空気の抵抗を感じる。勢いがつき過ぎて、つんのめるようにして着地すると、足裏に強烈な痺れが走った。
 でも、そんな事にかかずらってはいられない。
 サイファは前傾姿勢のまま、地を蹴った。
「サイファ!」
「お姉ちゃんっ!」
 最前列にいた大きい影と小さい影が、パタパタと駆け寄ってくる。
「父さん! ラヴィ!」
 サイファの大きく広げた両腕に、小さな影が飛び込んできた。彼女の弟、ラヴィ・テイラントだ。
「元気にしてたか?」
 サイファは、くりくりした瞳を[しばたた]かせている弟を、しっかりと抱きしめた。彼女の胸にぴったりと顔をくっつけたラヴィが、寂しくて死にそうだった、なんて可愛らしいことを言ってくれる。
 村を出る時、一番の気がかりだったラヴィ。今年、七つになったばかりの甘えん坊は、ちょっと見ぬ[]に、ずいぶん大きくなったような気がする。
「お帰り、サイファ」
 日に焼けた顔に笑窪を覗かせた父、トーギ・テイラントが、サイファの頬を両手で包んだ。少し痩せたかい?
 その[にび]色の瞳には、薄っすらと光るものがある。
「ただいま……」
 その言葉を口にした途端、サイファは、にわかに泣きそうになった。
 帰りたくて、帰りたくて、仕様のなかった場所。会いたくて、会いたくて、堪らなかった人たち――。
 村を離れて、たったの三ヵ月しか経っていないというのに、どうして、こんなに胸が熱くなるのだろう?
「良く頑張ったな」
 何もかも解ってくれているような父の口ぶりに、サイファは、ただただ頷いた。言いたい事が山ほどあるのに、巧く言葉に出来ない。
 テイラント一家が再会の喜びに浸っていると、暗闇から車輪のガラガラいう音が近づいてきた。高い[いなな]きと共に、馬車が村の石門前に横づけされる。
「立派な車だねぇ……」
「生きた天馬なんて、初めて見るよ」
 目もあやな皇家の馬車に、出迎えにきてくれた村人たちが、どよどよと驚嘆の呟きを漏らした。
 御者台から、身軽に降りたパティが、後部座席の扉を開ける。その瞬間、村人全員が息を呑むのが分かった。
 深紅のイグラット国旗を肩に担ぎ、音もなく降り立ったユウザ・イレイズは、無言の圧力とも思える、厳かな気品を漂わせていた。真っ直ぐに顔を上げ、翠玉の瞳をゆっくりと巡らせる。
 その堂々たる英姿に、村人が一斉に跪いた。村一番のご長寿は、その場に平伏[ひれふ]し、冥土の土産だ、と涙ぐんだ。
「サイファ・テイラントの父君[ふくん]とお見受けするが」
 悠然と歩み寄ったユウザが、トーギと向き合う。
「トーギ・テイラントでございます。この度は、娘の帰郷をお許しいただき、誠にありがたく……」
「堅苦しい挨拶は良い」
 [かしこ]まった面持ちで辞儀を述べるトーギを、ユウザが軽く制した。
「御息女は長旅で疲れている」
 早々に休ませてやるが良かろう、と、あの魔力を湛えた微笑みを浮かべて。
「勿体のうございます」
 例に漏れず、トーギの瞳に柔らいだ光が宿る。
 父の隣で様子を見守っていたサイファは、無性に嬉しくなった。
 父に穏やかな笑みを見せるユウザも、彼の笑顔に微笑を返した父も、何だかとてもいい感じ≠セ。
「この子が噂の弟か?」
 サイファに向き直ったユウザが、彼女の腕にしがみついて離れないラヴィに目線を合わせた。名は何という? との問いに、幼い弟がもじもじしながら答える。
「ラヴィです」
「良い名だな」
 異国の花からとったのであろう? というユウザの一言で、サイファは眠っていた記憶を揺り起こされた。
『サンテリエ大陸の雪原には、ラヴィ≠ニいう名の黄色い小さな花が咲くのよ。一年中、雪と氷に覆われた世界では寂しいからって、どんなに寒くても、皆の為に頑張って咲いてくれるの』
 この子にも、そういう優しくて、強い人間に育ってほしいわ。
 生まれたばかりのラヴィをあやしながら、母はそう言って、幸せそうに微笑んだ。
 私の名前の由来は? とサイファが尋ねると、母は悪戯っぽく片目を瞑り、あなたが大人になったら教えてあげる、と笑っていた。
 それから一年後の事だった。母が逝ってしまったのは――。
[みんな]の為に咲く、偉いお花の名前なんだって」
 ラヴィの言葉で、我に返る。それは、母の記憶を全く持たない弟に、サイファが教えた事だった。
 お母さんがつけてくれたんだよ、と敬語を無視して嬉しそうに話すラヴィを、トーギが、これ! と[たしな]めた。
 それを、構わぬ、と笑顔で許し、ユウザは続けた。
「一度、帝国植物園の寒室で見たことがある。黄色い可憐な花だった。そなたは、実物を見たことがあるか?」
 ううん、と首を振るラヴィの頭をぽふぽふと撫で、いつか見せてやろう、と目を細める。
「本当!?」
 そう言って目を輝かせるラヴィは、もう、すっかりユウザの虜だ。彼を見返す瞳に、無邪気な親愛が浮かぶ。
父君[ちちぎみ]と一緒に、帝都に遊びにくるが良い」
 水を向けられたトーギは、実直な笑みを浮かべ、会釈を返した。
 そこへ、頃合いを見計らっていた村長が、静々と進み出てきた。
「このような辺境の村へ、ようこそお運び下さいました。[わたくし]は、村長のウランジール・ヤトンと申します。ささやかではございますが、歓迎の[うたげ]を催したく、村民一同、お待ち申し上げておりました」
 白髪の混じり始めた頭を、丁寧に下げる。それに合わせて、村民たちが深々とお辞儀した。
「皆の心遣いに感謝する。謹んで受けよう」
 ユウザが頷くと、村人たちがわぁっと歓声を上げた。早速、散り散りになって仕度に入る。
「ありがとう」
 サイファは色々な意味をこめて、礼を言った。
 彼のお陰で帰郷が適った事は勿論だが、家族に対する思い遣り深い態度も、本当は寝不足で疲れているのに、笑顔で宴に呼ばれてくれた事も、何もかもが嬉しかった。
 この恩は、いつか必ず返す。そう、心に誓う。
「やっと、笑ったな」
 そんな彼女の思いを知ってか知らずか、ユウザは、お前が元気になればそれで良い、とにっこりする。
 サイファは、またしても泣きたくなった。
 村の中央広場で開かれた宴は、深夜に及んだ。
 ディール産の葡萄酒と、猪を丸々一頭[あぶ]った物や、野兎の煮込み料理など、素朴で豪快な郷土料理が次から次へと運ばれ、村長自ら、甲斐甲斐しくユウザたちを持て成している。
「え? テラが帰ってくるのか?」
 猟師仲間に囲まれたサイファは、思いがけない朗報に相好を崩した。
 テラ・ムスカルは、彼女より三つ年上の幼なじみで、今は隣町の商家の III 種として、肉体労働に従事している。
 彼は、サイファにとって頼もしい兄貴のような存在だった。昔から何をするにも一緒で、彼女に狩りの仕方を教えてくれたのもテラだった。
 しかし、去年、狩猟中の事故が元で右目を失明してしまい、引退を余儀なくされた。それを聞きつけた知合いの商人が、彼の働きぶりと人柄を買って、 III 種として召し抱えたのである。
 以来、一度も会っていない。
「それにしても、年賀でもないのに、よく休みが貰えたな」
 サイファの疑問に、仲間たちが笑顔で答えた。
「あいつのご主人様は、懐の深い方だからな」
「そうそう。三食きちんと食わせてもらって、村にいた頃より、よっぽどツヤツヤしてたぜ」
「おまけに幸福な娘≠フ里帰りだろ? ついでに、幸運を分けてもらって来いって言われたらしい」
「まぁ、何にせよ、テラに本気で凄まれたら、おっかなくて、とてもじゃねぇけど断われねぇよ」
 当人が居ないのをいい事に、言いたい放題だ。
「――で、いつ到着するって?」
「明日の朝一番に戻ってくるってさ」
「そうか」
 楽しみだな。
 サイファは葡萄酒で上気させた頬を、ふわりと弛めた。村に戻ってからというもの、いいこと尽くめだ。
 家族は変わらず元気だったし、皆が自分の里帰りを喜んでくれている。それに……。
 サイファは、ふと上座を見遣った。
 疲れ顔のパティとミリアは、うつらうつらと船を漕ぎ、無表情のグラハムはゆったりと胡座をかいている。そして――。
 [さかずき]を唇に当てたユウザと目が合う。
 サイファはごく自然に頬笑みを浮かべた。それに応じるように、彼の瞳がほんの僅かに細められる。
 いい気分だった。
 幸福の波間に漂う自分が居て、そんな自分を、いつでも手の届く所から見守ってくれている人がいる。
 真夜中の饗宴は、暁の女神が東の空を彩り始める頃、ようやく幕を下ろした。
- 2003.05.21 -
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