Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 16 話  暗雲[あんうん]
 農民たちの朝は早い。
 規則的に振るわれる[くわ]の音や、朗らかに交わされる村人同士の挨拶で、ユウザは目を覚ました。深酒した割には頭もすっきりしていて、気分が良い。
 明け方まで続いた宴の後、ユウザたちは迎賓館を兼ねた村長宅に宿泊した。村を訪れる者が殆どいない為、宿屋を建てようという計画も出ないらしい。
 今日から三日間、村に滞在している間中、ずっと世話になる。
 ユウザは寝乱れた髪を指で[]くと、窓を押し開けた。朝露に湿った森の空気が、しっとりと流れこむ。
(良い村だ……)
 昨日は暗くてよく見えなかった景色を、ユウザはゆっくり眺めやった。
 森を切り開いて作った、青々とした麦畑。段々になった、丈の低い葡萄棚。村ごと覆い隠すように広がる、濃い緑。
 都会暮らしでは決して感ずることの出来ない、緩やかな時を味わう。
 表に目を遣ると、右腕に大きな籠を下げ、左手を弟と繋いでやって来る、サイファ・テイラントが見えた。
 膝丈の若菜色の短衣に、白い前掛け姿の彼女は、すっかり村人に戻っている。
 ユウザは窓辺を離れると、手早く身支度を整えた。
 一階の居間に下りて行くと、既に、ミリアとグラハムが起きていた。こちらを認めるなり、おはようございます、と頭を下げる。
「パティは、どうした? まだ寝ているのか?」
「はい。昨日の宴で、酒を口にしたようです」
 ユウザの問いに、ミリアが苦い顔で答えた。
 帝国憲法では、未成年の飲酒を禁じている。しかし、祝酒[いわいざけ]に限っては、めでたい空気に水を差すことも無かろうと、目溢[めこぼ]しされるのが倣いだった。
 主人より遅くまで寝ているなんて、とぶつくさ言うミリアを、ユウザは微笑で[なだ]めた。
「たまには良かろう。馬の世話ばかりで、きっと、疲れたのだろうよ」
 ゆっくり寝かせておいてやれ、と言うと、彼女は何処かうっとりした口調で、ユウザ様は本当にお優しいですね、と呟いた。
「では、優しい[あるじ]に褒美の茶をくれ」
 ユウザが茶化した時、扉が叩かれた。テイラント姉弟が、ひょっこり現れる。
「おはよう」
 持参した籠を[テーブル]に置き、サイファはユウザの顔を仰いだ。昨夜[ゆうべ]は良く眠れたか?
「ああ」
 頷いた彼に、そうか、と満足そうに笑む。
麺麭[パン]を作ってきたんだよ」
 姉にくっついてきたラヴィが、籠に被せていた布を勢い良く剥ぎ取った。籠いっぱいの丸麺麭[パン]が、ほのかに甘い湯気を漂わせている。
「美味しそう! これ、全部、あなたが作ったの?」
 ミリアが驚きと尊敬の入り交じった顔でサイファを見上げた。
 拳大[こぶしだい]麺麭[パン]が、全部で三〇個はあろうか。これを一人で作るのは相当な手間である。
「そうだよ。ヤトンさんちで用意した分だけじゃ、足りなくなると思ってね」
 頷いたサイファが、ちらりとこちらを見る。その瞳は至って真面目で、ユウザは思わず苦笑を漏らした。
「人を食い意地の権化みたいに……」
「だって、あんたは腹いっぱい食ってるくらいの方が、元気だろう?」
 サイファが真顔のまま応える。
(ああ、そういう事か)
 ユウザは小さく笑みをこぼした。
 自分の体調を気遣ってくれているだけなのだ。彼女なりの哲学で。
 ユウザはツヤツヤした玉子色の麺麭[パン]を手に取ると、まだ温かいそれに[かじ]りついた。ふっくらとして、香ばしい。
「美味い」
 世辞抜きで言うと、サイファはふわりと顔をほころばせた。
「たくさん食えよ」
 いくらでも焼いてやるから、とにこにこする。こんなにも幸せそうな彼女を見るのは、初めてだった。
「ありがとう」
 ユウザは素直に謝辞を述べた。
 胸の真ん中に生まれた柔らかな気持ちが、波紋のように全身を伝う。
 どんな時でも、自分を大切に思ってくれる人がいるのは、心地が[]いものだ。それが、何のしがらみもない、純粋な好意なら猶の事。
「僕も丸めるの手伝ったんだよ」
 ユウザの外衣[マント]の裾を、ラヴィがちょいちょいと引っ張る。
「ありがとう、ラヴィ」
 屈みこんで目線を同じくすると、少年は青味がかった灰色の瞳を細め、口角を上げた。そうやって笑う顔は、サイファにそっくりだ。
 二人とも、あまり父親とは似ていないから、亡くなったという母親が、こんな面差しの人だったのだろう。生きていれば幾つになったのか、きっと優々しい美貌だったに違いない。
 幼い子供を二人も遺して逝かねばならなかった無念が、偲ばれた。叶うなら、彼女の墓に詣で、鎮魂の[じゅ]≠唱えてやりたい。
 年若い母子のように睦まじい姉弟を見ながら、ユウザはぼんやり思った。
 家に戻るという二人を、ユウザとミリアは玄関まで見送りに出た。
 そこへ、弓を携えた少年が、何か叫びながら駆けてくる。よくよく聞いてみれば、誰かが帰って来たというような事を言っているのだが……。
 その時、いきなり、サイファが走り出した。ラヴィが慌てて後を追う。
 何事かと目を凝らすと、赤銅[しゃくどう]色の髪を風に靡かせ、のっしのっしと歩いて来る偉丈夫[いじょうふ]が見えた。彼女に気づき、大きく手を振る。
 サイファは男の元へ一直線に向かい、何の躊躇[ためら]いもなく、その首っ玉にしがみついた。相手も、彼女の躰をしっかりと抱き返す。
 その瞬間、ユウザは昨朝[いだ]いたのと同様の不快感を覚えた。否、もっと強烈で、腹の底から煮え立つような怒りだ。
 何に対して?  誰に対して? 
 道理に合わない激情に困惑し、自問してみるも、出てくる答えは一つしかない。信じたくは無いが、それは嫉妬≠ニしか言い[よう]のないものだった。
(馬鹿な事を。最近、おかしいとは思っていたが……)
 自分はあの娘の目付け役にすぎない、と自分自身を[いさ]めてみるが、てんで効果がない。
 彼女をこの腕に閉じこめた時の体温や、頬に感じた唇の甘さを、躰が覚えこんでいる。まして……。
 ユウザはサイファの後姿を見つめ、わずかに歯噛みした。
 彼女は今、どんな顔をしているのだろう? 自分に向けたあの幸福な微笑を、その男にも見せているのだろうか?
 そう思うと、堪らなくなった。
 もしかすると、殺気に近い気を発していたのかもしれない。男が顔を上げ、ユウザを意識したようだった。
 そして――。
彼奴[あやつ]……)
 ユウザは我知らず眉をひそめた。
 男は遠目にも判るほど挑戦的な笑みを浮かべ、サイファの頬に口づけた。彼女の照れたような笑い声が聞こえる。
(……なるほど)
 ユウザは片頬を歪めると、彼らの元へ、やおら歩き出した。
 心の暗雲とは裏腹に、燦燦[さんさん]たる陽光が彼の背を照らしている。
- 2003.05.24 -
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