Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 17 話  二人[ふたり]教育係[きょういくがかり]
「元気そうで、安心した」
 サイファの頬からゆっくりと唇を離したテラ・ムスカルは、昔ながらのぞんざいな仕草で、彼女の額を軽く小突いた。
 真っ黒に焼けた肌が屋外での苦役を匂わせているものの、白い歯を覗かせたその顔に、悲愴な色は見られない。傷ついた右目を覆う長い前髪が、風に吹かれてサラサラと揺れる。
「テラもな」
 頷き返しながら、サイファは照れ笑いを浮かべた。
 彼とは物心がつく前からの付合いだが、接吻[キス]なんかされたのは初めてのことで、何とも面映[おもは]ゆい心地がした。
「テラ兄ちゃん、僕には?」
 サイファの後を追ってきたラヴィが、お姉ちゃんばっかりズルイ、と唇を尖らせる。するとテラは、ちっちっと舌を鳴らした。
「悪いな、ラヴィ。俺は男には接吻しない主義なんだ」
 そう言って、ラヴィの灰色がかった黒髪をクシャリとかき混ぜる。
 どうして? と首を傾げるラヴィに、だって男に惚れられたら困るだろう? と、真顔で返す。
「えっ!? テラ兄ちゃんに接吻[キス]されると、惚れちゃうの!?」
「おう。男も女も一コロだ」
「ええっ!!」
 彼の冗談を真に受けたラヴィに、お姉ちゃんも好きになっちゃったの? と、つめ寄られ、サイファは眉間を軽く押さえた。
「……テラ。幼気[いたいけ]な子供に、そんな仕様もない事、吹きこまないでくれ」
 幼い頃の自分と、今のラヴィが重なる。
 彼女自身、[まこと]しやかに吐き出されるテラの空言に、散々、翻弄されてきたのだ。
 狩りの前に獣の肉を食べると、匂いを嗅ぎつけた獲物に逆襲される、とか、木菟[みみずく]の耳は取り外しが可能で、[ふくろう]は耳を無くした木菟の成れの果てだ、とか……。
(あの頃は、青かったな――)
 思わず、遠い昔を振り返りそうになる。
「ところで、さっきから気になっていたんだが――」
 話題を変えたテラが、急に[とび]色の瞳を鋭くした。あの無愛想は誰だ?
 ふり返ると、ユウザが、こちらにやって来るところだった。二人の視線に気づき、口の[]に僅かな笑みを浮かべる。
 けれども――。
(何か、様子がおかしい……?)
 サイファは眉をひそめた。
「突然、走り出したから、何事かと思ったぞ」
 低くて張りのある、ユウザの声。その口調はいつもと変わりないのに、[まと]っている空気が、まるで違う。
 灼熱の冷気――とでも言おうか。
 心ごと[はりつけ]にされるような冷たい緊迫感と、地底を[くすぶ]岩漿[がんしょう]のような熱気が、渾然一体となっている。
 ついさっき、サイファの作った麺麭[パン]を美味しいと頬張っていたのが、嘘みたいだ。
「幼なじみのテラだよ。あたしの帰郷に合わせて、わざわざ隣町から会いに来てくれたんだ」
 彼の急激な変化に戸惑いながらも、サイファはテラを紹介した。
 ユウザの姿を、頭のてっぺんから、よく磨かれた長靴[ちょうか]の先まで、食い入るように見つめたテラが、右手を差し出す。
「テラ・ムスカルだ。貴殿のような美人にお目にかかれるなんて、俺にも運が向いてきたかな?」
 並み居る美女より、よっぽどそそられる、と剣呑な薄笑いになる。
「おい、テラ!」
 その無礼極まりない態度に、サイファは冷や汗を流した。
 昔っから喧嘩っ[ぱや]くて、いざこざに巻きこまれやすい男ではあったが、こんな風に、初対面の相手に自分から噛みつくのは珍しい。
 ハラハラしながら見守っていると、意外にも、ユウザは麗しい≠ニしか形容しようのない微笑を湛えて、テラの手を握り返した。途端、テラの眉間に皺が寄る。
「ユウザ・イレイズだ。皇帝陛下より、彼女の教育係を仰せつかっている」
 以後、見知り置きを、と言って手を離す。
 テラの表情を怪訝[けげん]に思ったサイファは、彼の手を見て、ぎょっとした。握られた指の跡がはっきり見えるほど、赤くなっている。
(……もしや、すんごく、怒ってる?)
 日ごろ、自分の感情をほとんど[おもて]に出さないユウザが、こうもにこやかだと、逆に、言い知れない恐怖を感じる。
 爽やかな早朝だというのに、ここだけ雨雲が押し寄せたような、険悪な空気が漂う。
「それじゃあ、俺と同じだな」
 くすりと笑ったテラが、サイファの頭に右手を載せた。
「こいつは、俺の直弟子でね」
 矢の[つが]え方から、間合いの取り方まで、手取り足取り教えてやったものだよ。
 獅子が喉を鳴らすのにも似た、テラのしゃがれた声音に、背筋が凍りつく。
(ヤバイ……)
 こういう声を出す時のテラは、要注意だ。
 元々、茶目っ気たっぷりで、人を驚かすのが趣味という困り者だが、一度機嫌を損ねると、常人には思いもつかないような暴挙に出る。
「道理で。サイファの口の悪さは貴公譲りか」
 火に油を注ぐように、ユウザが笑顔で[のたま]った。が、こちらも目が据わっている。
(どっこいどっこいだ……)
 冷たい火花を散らす彼らを、サイファは暗澹[あんたん]たる思いで見遣った。
 先天的に、反りが合わないのだろうか? 今日の二人は、どちらも普通じゃない。
 その時、テラがふっと微笑んだ。その顔が人心を惑わす悪鬼に見える。
「そうかもな。でも、良い声の出し方だって、教えてやれる」
 そう言うなり、テラは左手でサイファの顎を持ち上げ、野性味溢れる、精悍な顔を近づけた。
接吻[キス]されるっ!?)
 思わず身構えた時、二人の鼻先を白刃[はくじん]が走った。唇が触れ合う直前で、テラの動きがピタリと止まる。
「言っただろう? 私はその者の教育係だと」
 テラの喉元に剣先を突きつけたまま、ユウザが抑揚のない声を出す。要らぬ悪癖を植えつけるのは[]めてもらおうか。
 こちらへ来い、とテラの腕から引き離され、サイファは小さく息をついた。動悸が治まらない。
「……あんた、何者だ? 大した使い手のようだが」
 テラの目が真剣になった。額から汗が一筋、ぽたりと落ちる。
「スゥオルの名を許された者だ」
 ユウザは素っ気なく言うと、剣を下ろし、すらりと鞘に収めた。
「スゥオル!?」
 テラとサイファの驚嘆が重なる。
 グラハムが剣の鬼≠ニ呼ぶほどだから、よっぽどスゴイのだろうとは思っていた。だけど、まさか、スゥオルの称まで得ていたとは。
(あたしって、どうして、こうも世事に[うと]いんだろう?)
 初めて知る事実に、サイファは打ちひしがれた。自分はあまりにも、ユウザ・イレイズを知らなさ過ぎる。
 彼が皇帝の実孫であること。陛下と、彼の両親の不和。家庭教師に暗殺されかけ、記憶の一部を失っていること――。
 彼についてサイファが知っている真実は、口にするのも[はばか]られるほど、重く、厳しい。それなのに、そのどれ一つを取っても、ユウザ自身の口から語られたものは無いのだ。
 悩みがあるなら言え、と言ってみても、案ずるな、と笑うばかりで、何も打ち明けてはくれない。
 ユウザにとって、自分は信頼に値しない人間なのだろうか? そう思うと、サイファは一抹の寂しさを覚えた。
「史上最年少のスゥオルとは、貴殿の事でしたか。お目にかかれるとは、光栄の至り」
 テラの態度が、手の平を返したように[ねんご]ろになった。数々の非礼、ご容赦下さい。
 スゥオル≠フ称号は強さ≠フ象徴である。例え剣の道を志さずとも、男の浪漫≠ノ変わりはない。しかも、テラの場合、小さい頃に剣術を[かじ]っていた。
(勝負あったな……)
 ユウザの足元に膝を折ったテラを見て、サイファは深い嘆息を漏らした。この無益な争いは、どうやら、ユウザに軍配が上がったようだ。
「構わぬ」
 ユウザが剣の柄から手を離すと、テラは先ほどと同じように、彼に向けて手を差し伸べた。和睦の証に、とにっこり笑う。
 ユウザが素直に応じると、いきなり、テラがその腕をグイッと引っ張った。不意をつかれ前のめりになった彼に、素早く唇を重ねる。
 ……束の間の沈黙。
 サイファは呼吸するのも忘れて立ち尽くした。目の前に、見える筈のない落雷を見た気がする。
 数秒後、唇を離したテラが、してやったりと笑った。相手が憧れのスゥオルであっても、遣られた分は遣り返す――。彼の目が、そう告げていた。
 そこへラヴィが、ユウザ兄ちゃんは男なのに! と場違いな不平を漏らした。
(可哀想……)
 端麗な顔を思いっきりしかめ、手の甲で荒々しく唇を拭うユウザに、サイファは心から同情した。
 テラ・ムスカル。
 サイファの幼なじみにして、弓の師匠。普段は気のいい[あん]ちゃんだが、一度燃え上がった怒りの炎は、意趣返しを果たすまで、絶対に消えない。
 しかし――。
「俺、明日の昼まで居られるから、後で、森の中でも案内してやるよ」
 自爆とも呼べる痛烈な一矢を報いたことで、気が晴れたのだろう。ユウザの肩をぽんぽんと叩き、テラはにっかりと笑った。
 消えた炎が決して再燃しないのも、特筆すべき点である。その淡白さが、彼の美徳であり、魅力であった。
 一瞬、複雑な顔をしたユウザは、やがて、呆れたように笑った。礼は接吻でいいか? と、戯言[ざれごと]で返す。
「もちろんだ」
 悪戯っ子のような笑みを浮かべ、テラはユウザの肩に腕を回した。彼が肩を組むのは、その相手を気に入った証拠でもある。
(今までの[いさか]いは、一体、何だったんだ?)
 まるで、何事もなかったかのように親睦を深める二人を見比べ、サイファはがっくりと肩を落とした。いつの間にか、疲労困憊していた自分に気づく。
 テラの奇行は昔っからの事なので、今更、とやかく言う気も起きない。
 しかし、問題はユウザである。一筋縄では行かないテラと、こうして平気で渡り合える彼も、実は相当な玉だということになる。
(やっぱり、何を考えてるのか、全然わかんない)
 ぐったりするサイファに向かって、二人の教育係は、お前も一緒に行くか? などと、屈託なく笑うのだった。
- 2003.05.28 -
 

TREASURE

sayura 様より、このシーンをイメージした素敵なイラストを頂戴しました!
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