「ユウザ様、見ちゃいましたよ」
ヤトン邸に戻ると、ミリアがにんまりしながら出迎えた。
「何を……だ?」
わずかに顔が引きつるのを感じながら、短く問い返す。
「あの大男ですよぉ!」
ミリアが好奇心で目をキラキラさせた。あんな風に抱き合っちゃって、サイファの恋人なのかしら? と。
「ああ……彼は幼なじみだそうだ」
ユウザは、ほぅ、と息を吐いた。どうやら、アレ≠見られた訳ではないらしい。
(不意をつかれたとはいえ……)
男に唇を奪われるとは、一生の不覚。思い返すのも厭わしい。
テラがあんなにも好戦的だったのは、きっと、自分の無意識の敵愾心が、彼に伝わってしまったからなのだろう。蟠りが解けた後の彼は、さっぱりとして、実に大らかだった。
つまり、最初に喧嘩を売ったのはこちらで、テラはそれを買っただけなのだ。余計な心づけ≠ワでつけて……。
ユウザは深い嘆息を飲み込んだ。忌々しい感触を思い出し、我知らず唇を拭う。
「何だ、そうなんですかぁ」
ミリアはつまらなさそうな声を出すと、パティ様を叩き起こしてきます、と言って、階段を上っていった。数秒後、文字通り、ぼふぼふ、と蒲団を叩く音と、パティの情けない悲鳴が上がる。
(……やれやれだ)
ユウザは苦笑を漏らした。
自分の不満を特定の人間≠ノぶちまけて解消するのが、ミリアの悪い癖である。特定の人間≠ニは、無論、天敵のパティ・パジェットに他ならないのだが。
見て見ぬふり、ならぬ、聴いて聴かぬふりをして、ユウザは居間の扉を開けた。
長椅子の上で何やら図面を広げていたグラハムが、途端に腰を浮かす。
「良い、続けろ」
ひらひら手を振って促しながら、何を見ているのだ? と、彼の手元を覗きこむ。
「この村の周辺図でございます」
律儀にも立ち上がり、グラハムが図面を差し出した。警備の参考になるかと。
「入り組んだ森とは聞いていたが――」
手書きの地図に視線を落とし、ユウザは目を瞠った。まさか、これ程とは。
ディールを中心に幾筋もの細道が走り、そこから更に大木の根のような獣道が四方八方へと伸びている。
(ここで迷ったら、一巻の終わりだな)
地図を丹念に眺めていると、ふと覚えのある地名を目にした。かつて家庭教師について学んだ戦史が、鮮やかに蘇る。
ガデル峠――。
そこは、イグラット領の最南端であり、アンカシタンとの国境にあたる。
約三百年の昔、両国が熾烈な領土争いを繰り広げていた頃、峠を越えて、イグラット侵略を謀ろうとしたアンカシタン軍が、そのあまりの険しさに、数百もの兵を失ったという。
この事件は、ガデルの奇跡≠ニして、歴史に名を残している。
「せっかくここまで来たのだし、訪ねてみるか」
ユウザはぽつりと呟いた。
その思いつきは、とても素晴らしいものに思えた。書物の中だけで得た知識を、自分の目で確かめる絶好の機会である。幸い、今日はテラが森を案内してくれる事になっているし。
「なりませぬ。越境は困難≠ニいうだけで、不可能≠ナは無いのですから」
いかな外敵が潜んでおるか知れませぬ、とグラハムの瞳が厳しくなった。口調は丁寧だが、人を圧するような声を出す。
「だからこそ、確かめに行くのではないか。侵入者の形跡があれば、国防に関わる大事であろう?」
お役ご免になったとはいえ、元は帝都防衛隊長である。久しぶりに血が騒ぐのを感じた。
「しかし、殿下の身にもしもの事があっては――」
「心配するな。アンカシタンと戦火を交えていたのは百年前までのこと。今では立派な友好国だ。それにアーレオス同盟≠フ盟主たる我が国に、戦をしかけようという愚者もおるまい」
渋るグラハムを、ユウザは王者の貫禄で押さえこんだ。
アーレオス同盟≠ヘ、大陸全土で結ばれた一大軍事同盟だ。
シューケリオン山脈以西を占める、イグラット。その南に位置するアンカシタン王国。イグラットの東方、アンカシタンの北東にあたるマルジュナ共和国。そして、マルジュナの東隣りにある小国、ミルゼア王国。
これら四ヶ国は互いの政体・領土を尊重し合い、挑発行為を含むあらゆる侵略行為および内政干渉を固く禁ずるものである。万一盟約を破れば、同盟国軍が武力制裁を加えることになっている。
同盟が成立して以来、領海問題や貿易摩擦などで多少のいざこざは尽きないものの、戦乱の気配は鳴りをひそめている。
「では、私も――」
グラハムが言いかけた時、ミリアとパティが、ぎゃあぎゃあ遣り合いながら下りてきた。家隷の分際で主を足蹴にするとは何事か! とか、私はあなたの僕ではありません! とか。
「――まぁ、詳しい話は食事の後にしよう」
ユウザは微苦笑を浮かべた。
居間に上陸した小さな台風が、早く過ぎ去ることを願って。
*
朝食を済ませた頃、約束通り、テラが迎えにやってきた。
サイファを誘ったんだが、ふられちまった、と戯けて笑う。何でも、父親のために山鳩を狩るとかで、勇んで出ていったらしい。
「――ちょっと、森まで出かけてくる」
傍にいたパティに告げると、彼は、僕も行きます、とヨレヨレしながら立ち上がった。酷い二日酔いで、食事中も水ばかり飲んでいた。
「無理をするな」
ユウザは苦笑いで制した。目の下に隈を作った彼の顔は見るからに怠そうで、とても鬱蒼とした森を歩ける状態ではない。
「でも、ユウザ様をお一人にする訳には参りません!」
パティがふるふると首を振り、振ったそばから口を押さえた。頭を振った事で、吐き気がこみ上げてきた模様。
「案ずるな。テラが案内してくれるし、グラハムも一緒なのだから」
ユウザは戸口に立っているグラハムを軽くふり返り、お前は部屋で休んでいろ、とパティを宥めた。
「そうしろ、そうしろ」
二人の遣り取りを見ていたテラが、愉しげに毒を吐く。あんたが来たら足手まといだ。
「何だとっ!?」
パティがきっと睨みつけると、テラはふいに真顔になった。
「あんたも一端の使用人なら、少しは主人の立場も考えろ」
主に気苦労をかけてまで付き従うことが、お前さんの忠義なのか? と。
投げかけられる言葉は辛辣だが、的を射た意見である。物事の本質を突くような、歯に衣着せぬ物言いは、サイファの率直さと似通っている。
「……ユウザ様、僕はご迷惑なのでしょうか?」
テラの言葉に衝撃を受けたパティは、耳を垂れた犬のように、しょんぼりした。
「お前を迷惑に思った事など、一度もない。だが――」
そこで一旦言葉を切ると、パティは不安そうに顔を上げた。
「お前の元気の無い姿を一日中見せられるのは、ご免こうむるぞ」
パティの頭をくしゃくしゃと撫でながら、ユウザはにっこり笑ってみせた。心配で私まで具合が悪くなりそうだ。
「わかりました。申し訳ございませんが、休ませて頂ます」
半分泣きそうな顔をして、パティは頭を下げた。俯いたまま、目の辺りを腕で擦る。
「うむ」
ミリアにお前の面倒を頼んでいこう、とユウザが言うと、彼は青ざめた顔を勢い良く上げた。
「いえ! 横になっていれば平気ですので、失礼いたします!」
そう言い残し、脱兎の如く部屋を辞する。
「案外、元気そうだ」
ほっとして笑うと、テラがぼそりと呟いた。
「……男も惚れる、良い男、か」
道理で食指が動くわけだ、とにやにやする。
「随分、節操なしな指だな」
ユウザは冷やかな笑みを浮かべた。お困りなら切り落としてやるぞ?
すると、テラは、あはは、と大口を開け、さも嬉しそうに左目を細めた。
「いいねぇ。貴殿と話してると、楽しくて仕様が無い」
サイファが相手では返事が見え透いていて、つまらんよ、とぼやく。
「貴公のように捻じくれた男の傍にいて、あの娘は、よくも、ああ真っ正直に育ったものだな」
私にはそれが不思議で仕様がない、と切り返すと、テラはふてぶてしく笑った。
「反面教師ってやつだろ」
「なるほど」
何の疑問も差し挟まずに頷くと、テラは眉尻を下げた。そうあっさり納得されては立つ瀬が無い、といじけたように口を尖らす。
「おかしな男だ」
大の男が見せる、その子供じみた仕草に、思わず笑みがこぼれた。
「それはお互い様だろう」
ユウザの言葉に、テラがにやりとする。
「スゥオルの称を戴く剣豪で、行く行くは国を治める皇太孫。なのに皇帝の I 種ときてる」
あんたほど面白い肩書の男も、そうはいねぇ、と。
「私を皇孫と知った上での悪態、痛み入るぞ」
内心の欣快を押し隠し、ユウザは皮肉で応じた。
対等である、という事は、何と身軽なことだろう? 相手に指図する必要もなければ、余計な気遣いを受けることもない――。
堪え切れず、ユウザはほんの微かな笑みを浮かべた。
テラは、サイファと同じでユウザ自身≠見てくれている。その上で、自分と肩を並べているのだ。
「そろそろ行こうか」
テラは人好きのする笑顔で、ユウザの背をバシバシ叩いた。
青く晴れ渡った空の下――絶好の散策日和だ。
- 2003.06.03 -