吹き流しのように、滑らかに飛び行く鳥の群れを、一筋の光が横切った。続けて、二度、三度――。
その途端、小さな影が三つ、地に吸い寄せられるように落ちてくる。
「やった!」
藪の陰に身を潜めていたラヴィは、ザザッと音を立てて起き上がった。すごい、すごい、と連呼しながら、射落とされた山鳩を拾いに行く。
「ふぅ……」
構えていた弓を静かに下ろし、サイファは深く息を吐いた。
緊張の糸が途切れた瞬間、自分の意識がようやく体に戻った事を自覚する。放たれた矢が空を裂き、力を失うその一瞬まで、彼女の心は矢と共にある。
(やっぱり、自分の弓はいいなぁ)
サイファは長年愛用してきた梓弓を、愛しげに撫でた。
これは、テラに弟子入りした時、彼に作ってもらったもので、大事に使い続けて、早十年になる。
(……今ごろ、どの辺を歩いてるんだろう?)
弓を見ながら、この森の何処かを歩いているはずの、テラとユウザを思った。うまくやっているだろうか? という、かなりの懸念を抱きつつ。
一悶着あった後、ユウザに、森を案内してやる、と言ったテラの言葉を、サイファは、ただの社交辞令と思っていた。和解したとはいっても、あんなこと≠しでかした同士である。一体、どの面下げて、連れ立つというのか?
しかし、テラを招いた朝食の席で、お前も一緒に行かないか? と改めて誘われた時には、脱力しかけた。
本気だったのか? と、げんなりしながら尋ねると、テラは実に生き生きした顔で頷いた。一度口にした約束は、きちんと果たすのが筋だろう? と。
その如何にも嬉しそうな顔が、サイファを怖気づかせた。本来なら、自分が二人の緩衝材になるべきなのだろう。だけど、あんな危うい会話がぽんぽん飛び交う間に延々立たされたら、憔悴し切って、倒れてしまう。
そんな事になるくらいなら、父さんのために美味しい料理の一つも作った方が、ずっとずっと、ずーっと建設的だ。
そう思った時、サイファの躊躇は消えた。あたしは、行かない。
こうして狩りを終えた今、その選択は正しかったと思えた。久しぶりに味わう、獲物を狙う昂揚感と、仕事が成功した充足感で、心がふわふわしている。
「ラヴィ! 全部、見つかった?」
中々戻って来ない弟に声をかけると、後一羽! という答えが返ってきた。
「もっと奥に落ちたんじゃないか?」
サイファが探しに行こうとしたところ、足元に白い影が舞い降りた。
一緒に連れてきた、ルドだ。その鋭い嘴に、矢が突き立ったままの山鳩を咥えている。
「ルド! でかした!」
獲物を地面に下ろし、物言いたげに首を傾げるルドを、サイファはわしゃわしゃと撫でた。同時に、ラヴィを呼び戻す。
「わぁ! ルドは、ほんとにお利口さんだね」
茂みを掻き分けてきたラヴィが、感激した様子でルドを抱きしめた。相手が幼い子供だと判るのか、彼は大人しくされるがままになっている。
村に着いてからというもの、ルドは悠々と森を飛び回り、自分で餌を捕らえては、テイラント家の屋根に戻ってくる。帰るべき場所は、既に、森ではなくなっていた。
「ラヴィ、水をちょうだい」
サイファはその場に膝を着くと、鳩の体から矢を引き抜き、水筒の水で、こぼれる鮮血を洗い流した。
「命を奪うは、永久の罪。この罪を糧とする卑しき我が身を、赦し給え――」
猟師たちの間で古くから伝わる弔いの祈りを捧げ、血塗れた矢をバキリと半分に折る。
(この矢で命を絶たれたのは、お前だけだよ)
狩られた獲物にとって、それが何の意味もなさない事くらい、サイファにも解っていた。だけど、それだけが、自分に出来るささやかな手向けだった。
「――さてと。帰ろうか」
三羽の脚を紐で一括りにすると、サイファは元気良く立ち上がった。
これで、父さんの好物を作ってあげられる。
*
「父さん! お昼にしよう!」
裏の畑でせっせと草刈りをしている父親の背中に、サイファは大声で呼びかけた。
ふり返ったトーギが、大きく鎌を振って応える。今、行く!
「料理が冷めちゃうから、早くね!」
念押しすると、丸太でできた小さな我が家へ急いで引き返した。
今日の自分は、近来稀に見る働きぶりだ、とサイファは思う。
朝は暗い内から、数十個もの麺麭を焼き、狩りに出て、鳥を捌いて……。
体は好い加減疲れているのに、気分は軽い躁状態だ。やる事なす事、楽しくて仕方がない。
(自分のするべき事があるってのは、幸せだな)
城での退屈な毎日をふり返り、しみじみ思った。このまま、ずっとここに居られればいいのに、とも――。
「ああ、もうっ!」
小さく叫んで、ぶんぶん頭を振る。
今日の幸福を、自ら曇らすような真似はやめよう。明日を思い煩うな。
気持ちを切り替え、サイファは台所に入った。
竈の前で鍋の番をしていたラヴィが、待ち切れないように、カッパカッパと蓋を取ったり戻したりを繰り返している。先ほど仕留めたばかりの鳩の肉が、香草と共に良い匂いを漂わせていた。
「もうすぐ、父さんが来るから」
微笑ましい気持ちになりながら、お皿を出して、とラヴィに頼む。
「はぁい」
素直に返事をして、ラヴィが三人分の皿を食卓に並べた。
「あ、ラヴィ、もう一枚……」
言いさして、サイファは考え直した。
(家で食べる分を残して、鍋ごと持って行った方が早いな)
せっかく手の込んだ料理を作るのだから、ユウザ達にも食べさせてあげようと思っていた。
しかし、思い出されるのは彼の旺盛な食欲である。とても、皿一枚では足るまい。
それに――。
(鍋のまんま運べば、冷めなくていいかも)
そうすれば、きっと美味しく食べられるはずだ。
(また、美味いって言ってくれるかな?)
サイファは浮き浮きしている自分に気がついた。今朝、自分が焼いた麺麭を食べた時のユウザの様子を思い返す。
端整な顔に浮かんだ、満ち足りた微笑。心をくすぐられるような、無邪気な賛辞。そして、自分に向けられた、柔らかな瞳……。
あの時の気持ちは、何と表現したら良いのだろう? 胸の奥を緩やかに締めつけられたような、ちょっぴり苦しくて、それでいて何とも心地好い熱が全身を支配した。思い出しただけで、顔が綻ぶ。
サイファは三人分の料理を皿に盛ると、大鍋を持ち上げた。その拍子に、肉汁がたぷんと波立つ。
「ラヴィ、ちょっと村長さんの家に行ってくる。すぐ戻るから、父さんが来たら、先に食べてて」
そう言い残し、サイファは小走りで表に飛び出した。
*
「おや、サイファ。今度は何事だい?」
ウランジール・ヤトンは、鍋を持って息を切らしているサイファを、まぁ、お入り、と迎え入れた。
「たくさん作ったから、お裾分けに来たんだ」
鍋を掲げてみせると、ヤトンは灰色の顎鬚を扱き、にこにこと笑った。
「そいつは、すまなかったね。殿下は今、外出なさっておいでだから、夕食の時にでもお出ししよう」
「え? まだ戻ってないの?」
ヤトンの言葉に、サイファは急に心が萎えるのを感じた。出来立てを食べさせてやりたかったのに……。
「何でも、ガデル峠の方まで足を伸ばされるそうだよ。まだお若いのに国防にまで気を配られて、本当に立派なお方だ」
あの方が皇帝になった暁にはイグラットも安泰だよ、とヤトンが嬉しそうに目を細める。
「そうだね……」
サイファは無理に笑顔を作った。
自分だって、ユウザが勤勉な事ぐらい解っていたし、偉いなぁ、とも思っている。
だけど――。
(何も今日、テラと一緒に行かなくてもいいじゃないか)
サイファは微かな憤りを覚えた。
大体、テラは自分に会うために帰ってきた訳で、明日の午後には帰ってしまうのだ。それを独り占めするなんて、ズルイと思う。
それに、もっと許せないのは、今朝、麺麭を届けた時、そんな予定がある事をユウザが一言も言ってくれなかった事だ。
彼の行動の中に、自分の存在は全く組み込まれていないのだろうか? それが酷く悲しかった。
(一緒に行けば良かった……)
今更ながらに後悔した。ついさっきまでの元気が、見る見るしぼんでいく。
「パティ様とミリア様は残っておいでだが、お会いするかね?」
「ううん。これを持ってきただけだから、帰るよ」
静かに首を振り、サイファはとぼとぼと村長宅を後にした。
(早く帰らなきゃ)
父さんとラヴィが待っている。
そう思うのに、なぜか足取りは重かった――。
- 2003.06.06 -