Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 20 話  神々[かみがみ]血脈[けつみゃく]
(これでは、命を落とす訳だ……)
 長い葛折[つづらお]りを上り詰めたユウザは、目下[もっか]に広がる景色に息を呑んだ。
 峠の下り≠ニされるアンカシタン側の道は、とても道≠ニは呼べない代物だった。ゴツゴツとした岩肌が剥き出しになっており、その勾配も鋭角である。
 グラハムが、侵入は不可能≠ナは無い、と言っていただけあって、両手をつき、時間をかければ、登ってこられない事もないのだろう。しかし、装甲した兵が峠を越えるのは、限りなく不可能≠ノ近かった。
(ラパンサが教えてくれた通りだったな)
 ユウザは、今は亡き師との遣り取りを、懐かしく思い返した。
『ガデル峠≠ヘ、峠≠ニは名ばかりの断崖絶壁なのですよ。誰が[]いたか知りませんが、この絵は偽りです』
 ラパンサ・ホーランジュは、歴史書に[えが]かれた挿絵を指差して、苦笑を漏らした。本に書かれたものを鵜呑みにしてはいけませんね、と。
 ユウザが六歳の時から家庭教師をしてくれていた彼は、大変博学な男だった。
 数学、物理学、経済学、歴史学、法律学、言語学、心理学――更には、魔石の研究にまで精を出し、生き字引として皆の尊敬を集めていた。
『でも、数百もの兵が死んだのであろう? そんなに険しい道なら、初めから登ろうとする方が愚かではないか』
『その通りですよ、ユウザ様。普通なら、そんな危険を犯す者はいません。けれど、当時は戦争の真っ只中で、普通≠ナは無かったのです』
 ユウザの指摘に、ラパンサは丸眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。戦争は人を狂気に走らせます。
 アンカシタン王国は国土の三分の二が砂漠という過酷な環境下にあるが、そこから産出される大量の炎舞石のお陰で、豊かな国力を誇っていた。
 しかし、そうした砂漠の恩恵を受けながらも、緑の大地≠ノ対する憧れは強く、再三に渡ってイグラットに攻め入ってきた。
 無論、それに屈するイグラットではなく、アンカシタン軍はことごとく退けられた。
 その結果、捨て身の覚悟でとられたのが、ガデル峠からの奇襲作戦であったという。ガデルが天然の要塞≠ナあると知りながら――。
『ガデルの奇跡≠ネどと、大層な名がつけられましたが、実は奇跡でも何でもないのです。言わば、人間の愚の象徴ですね』
『死んだ兵士たちは、哀れだな』
 土地くらい分けてやれば良かったのに……と漏らしたユウザに、ラパンサはニコニコと笑いかけた。
『世の権力者が、皆、貴方のように欲がなければ、世界はずっと平和になるのですけどね。ユウザ様が皇帝におなり遊ばせば、イグラットも大きく変わることでしょう』
 今から楽しみです、と言って、ユウザの頭を撫でてくれた。それが、とても嬉しかったのを覚えている。
「どうだい? 歴史に名高き、ガデルの眺めは?」
 ここまで案内してくれたテラ・ムスカルが、ひょいっと肩を竦めてみせた。さして面白くもないだろう? と。
「そんな事はない。ここを一歩跨げば、もう隣国であろう? 何とも感慨深いではないか」
 国境を示す石柱に手を掛けながら、ユウザは赤茶けたアンカシタン領を眺めた。
 炎舞石の眠るという、広大なイヴリム砂漠。ラパンサがこの場に居合わせたら、どんな講義を聞かせてくれたことだろう?
(お前と一緒に来てみたかったよ……)
 ラパンサが三十六歳の若さで亡くなってから、既に五年の月日が流れている。乗馬中の事故ということだったが、本当に惜しい男を失った――。
「殿下、ちょっと、そこらを見て参ります」
 ぼんやり物思いに耽っていたユウザは、グラハムに声をかけられ、我に返った。
「私も行――」
「いいえ」
 言いかけたユウザを、グラハムがキッパリと遮る。決して、この場を動かれませぬよう、と鋭い口調で言い置き、さっさと急斜面を調べ始める。
「随分、職務熱心な男だな」
 隣に突っ立っていたテラが、半分呆れたような声を出す。あんな危険な場所、大枚積まれても近寄りたくねぇ。
「グラハムは私が生まれる以前から、ずっと皇家に仕えてくれているのだ。陛下も全幅の信頼を置かれている」
 慎重に辺りを探るグラハムの背を、ユウザは頼もしく見遣った。彼ほど自分の仕事に強い信念を抱いている者を、他に知らない。
「へぇー……おっ!」
 相槌を打っていたテラが、突然、目を輝かせた。本当に運が向いてきたかな? と独り[]ち、茂みの奥へと入って行く。
「どうしたのだ?」
 後を追おうとすると、近づくな! と押し殺した声で制止された。
 [いぶか]りながらも、その場で待っていると、やがて、銀色の物体を大事そうに抱えたテラが、満面の笑顔で戻ってきた。
銀狼[ぎんろう]の子だ」
 親がいない隙に一匹失敬してきた、と悪びれずに言う。
「これが……。生きている物は、初めて見る」
 何も知らず眠りこけている赤子の狼を、ユウザはしげしげと眺めた。
 銀狼≠ヘ、その名の通り、銀色のすべすべした毛並みが美しい狼で、極上の毛皮として貴人の襟巻きなどに用いられている。何を隠そう、ユウザも一枚持っていた。
「サイファへのいい土産が出来た」
 狼の頭を指の腹で撫でながら、テラが今まで見せたことのない柔らかな微笑を浮かべる。
「よほど、あの娘を好いていると見える」
 ユウザが笑うと、テラは真っ直ぐに顔を上げた。
「もちろんだ。悪い虫がつかないよう、十数年も手塩にかけてきた女だからな」
 あんたにもやらない、とニヤリとする。しかし、その瞳は驚くほど真摯だった。
「何を言う。私はただの監視役だ」
 悪い虫とは心外、と苦笑を返すと、テラは途端に白けた顔になった。
「おいおい。今さら、そんな逃げ口上は無いだろう」
 あんたもサイファに惚れてるんだろ? だから、あんな殺しそうな目で俺を睨んだんじゃないのか? と、口調の軽さとは裏腹に、噛みつくような目をして畳みかけてくる。
 ユウザは一瞬、言葉に詰まった。
 守役[もりやく]である自分が、守るべき娘に心を奪われるのは許されない事だ。それは重々承知している。
 それに、自分は……――。
「そうだ」
 意に反して、頷いていた。
 こんなにも真剣に向かってくる相手から、目を背けることは出来なかった。ここで逃げては軽蔑される。対等であるはずの、この男に。
「それ、見ろ」
 テラは呆れたように言うと、急に真面目な顔になった。
「貴殿が相手なら、文句のつけようが無い」
 サイファを宜しく頼む、と頭を下げる。
「ちょっと待て。私には、あの娘もそなたを好いているように思えるのだが?」
 ユウザは、今朝、テラに抱きついていたサイファを思い出し、軽く眉を寄せた。
「そいつは違う。サイファは、俺の事を気のいい兄貴とでも思っているだけさ」
 テラは微かに視線を落とすと、低く呟いた。俺は一度だって、あいつを妹と思ったことはないけどな。
「では、なぜ気持ちを伝えない?」
 彼の苦しげな表情に、違和感を覚えた。自分とは違い、テラには想いを隠す必要など、何処にもないはずだ。
「あいつの背に、これ以上、十字架を負わせたくないのさ」
 テラの瞳が優しく曇る。
「一見、普通に暮らしているようだけど、サイファの心は酷く不安定なんだよ。今ある全ての幸せと母親を失った哀しみの間を、行ったり来たりしている。あいつの母親は今から六年前――ラヴィを産んだ翌年に病気で亡くなったんだが、サイファは、それを自分の責任だと思ってる」
 自分の看病とリュフォイへの祈りが足りなかったんだ、ってね。
 テラは憫笑を浮かべた。
 そんな訳ないのに。それでも、もっとやれる事があったはずだ、と今なお苦しみ続けている。
死人[しびと][しゅ]を頼みにしているのは、私も知っている。だが、それだからこそ、そなたの存在が支えとなるのではないか?」
 ユウザの問いかけに、テラは断固として首を振った。俺では駄目だ。
「この傷は、熊の爪にやられたものなんだが――」
 言いながら、テラは右目を覆う前髪を掻き揚げた。左半分の整った顔立ちとは対照的に、醜く[えぐ]れた傷が露わになる。
「サイファを庇って出来たものだ」
 あいつは知らないがね。
 テラはにっこり笑って前髪を下ろした。知られたら、お仕舞いだ、と。
「……そうか」
 ユウザは胸を射抜かれたような心地がした。
 テラの言葉の中には、彼の想いの全てが集約されていた。
 後悔も怨恨もない、むしろ、彼女を守ったことを誇りとする心。愛情の深さゆえに、絶対に真実を隠し通そうという強い意志。彼女を負い目≠ニいう鎖で繋ぎ止める事のないよう、自分を戒める覚悟――。
 自分はきっと、この男のような愛し方は出来ない。愛する者とは、それがどんな形であろうとも繋がっていたい≠ニ望むから……。
「ユウザ殿がサイファを守ってくれると思うと、正直、複雑な気分になるよ。安心と嫉妬が交互に襲ってきやがる」
 娘を嫁に出す父親ってのは、こんな心境なのかねぇ? とテラが道化たように眉をひそめる。
「安心しろ。私もあの娘に想いを告げることは無い」
 ユウザは唇の[はし]をわずかに持ち上げた。
 告げたところで、どうにもならない。もう一つ、自分を縛り付けている存在を思い出す。
「どうして? まさか、教育係だから――なんて、本気で[]かす気じゃないだろうな?」
 テラの目に微かな苛立ちが浮かんだ。
「そうではない。私はいずれ、この国を[]べる神≠ノなる。神の妃もまた、神≠ナなければならぬという事だ――」
 言いながら、自分の声が冷たい[やいば]のように尖っていくのを感じた。その言葉が、自分自身を傷つけていく。
「ふざけるなっ!」
 テラは目を剥いて叫ぶと、ユウザの胸倉を乱暴に掴んだ。
「サイファが奴隷だからか!? 言っておくがな、あいつは一人前の猟師として立派に生きてきたんだよ! ディールのツェラケディア≠ニ称えられ、誰よりも気高くだ。それを奴隷なんぞに[おとし]めたのは、貴様ら皇族だろうが!」
 怒りに声を震わせ、力任せに突き飛ばしてくれる。
「勘違いするな。あの娘を[めと]れないのは、私の身に問題があるからだ」
 ふわりと、よろけることなく着地すると、ユウザは自嘲の笑いを漏らした。
「……どういう意味だ?」
 テラが憤怒と困惑を同居させた顔になる。
「あいにく、私は神≠ニして半人前なのでな。嫁取りも[まま]ならぬのだ」
 それだけ言って、ユウザは押し黙った。腑に落ちない様子のテラが、無言で睨みつけてくる。
(いくら、あの娘に恋焦がれても……)
 父のように、祖母を裏切ることは出来ない。この身に流れる血の半分が、既に人≠ネのだから――。
 イグラット皇家は、代々、純血を守り続けてきた。
 直系の子孫に特定の姓≠ェ存在せず、生まれた子に自らの配偶者の姓≠名乗らせるのも、その血統を明らかにする為だった。だから、親子なのに姓が違う。
 つまり、ユウザ・イレイズ≠フ名は、皇族ではない、宮人の血が混ざっている事の証でもあるのだ。
 それは、皇太孫であるユウザにとって致命的な問題だった。
 これ以上、下賎の血が混じれば直系とは見なされなくなり、皇家の純血が途絶えてしまうことになる。それだけは、絶対に許されない。
「どんな理由があるかは知らないが――」
 ユウザの沈黙に苦悩を感じ取ったのか、テラは幾分表情を和らげた。
「俺にとっては、サイファが唯一絶対の女神だ」
 あいつを哀しませるような事だけは、しないでくれ、と節くれ立った右手を差し出す。
「約束しよう」
 ユウザはその手をしっかり握り返した。それから、さて、と明るく調子を改める。
「そろそろ、帰るとしようか」
 昼食抜きの山登りは辛いものがある、と腹を押さえて、顔をしかめてみせる。
 そうだな、とテラも笑顔で頷く。今ごろ、サイファが得意料理を作って待ってるはずだ。
「それは楽しみだ」
 内心の憂いを微笑で[くる]み、ユウザは右手首に残るルドの爪痕をきつく握り締めた。[いま]だ癒えない傷口に、痺れるような熱が生まれる。
(自分に課せられた使命は、あの者を守ることだ)
 ただ、それだけでいい。
 それ以上を――望むな。
- 2003.06.09 -
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