Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 21 話  [][こころ][しず]もる[たましい]
「ただいま」
 家に帰ると、ラヴィが、遅いよぉ、と頬を膨らませた。食卓には、料理が手付かずのまま置いてある。
「先に食べて、って言ったのに……」
 それが自分に対する思い遣りだと判っているのに、サイファはものすごく不幸な気持ちになった。
 自分はただ、美味しい物を、美味しい内に食べて欲しかっただけなのだ。家族にも、ユウザにも――。
「だって……」
 ラヴィがしゅんとして口ごもり、トーギが彼女の心を見透かすように優しい溜息をこぼす。
「サイファ、忘れてしまったのかい?」
 どんなに美味しい料理を出されても、大切な人が欠けていては、幸せにはなれないんだよ、と。
 その瞬間、サイファは激しい自己嫌悪に襲われた。父の言葉には苦しいほどの実感がこめられていて、そんな台詞を言わせてしまった自分が、許せなくなる。
 母を失った痛苦は、じゅうぶん身に沁みていたはずなのに――。
「……ごめんなさい」
 [まばた]きしたら、涙がこぼれた。自分の哀しみに心を奪われて、とんでもない八つ当たりをしてしまった。
「泣かなくてもいいんだよ。私の大切な者は、ちゃんと此処[ここ]に居るんだから」
 サイファとラヴィの頭を同時に撫でながら、トーギがにっこりする。お前たちが居てくれるから、父さんは生きていられるんだ。
 その声には、ほんの少しの躊躇[ためら]いも、誇張もなくて、サイファは益々悲しくなった。
 自分が、父にとってかけがえの無い¢カ在であることを、疑った事はない。だけど、母だってかけがえの無い¢カ在だった。
 人の心には、たくさんのかけがえの無い≠烽フがあって、そのどれか一つ≠ェあればいい訳じゃない。
 むしろ、どれか一つ≠ナも失えば、心に穴が空いてしまう。
 父の心に空いてしまった穴は、娘のサイファでも、息子のラヴィでも、他のどんな幸福をもってしても、絶対に埋められない。サイファには、それが歯痒くて、何も出来ない自分が情けなくなる。
「ごめ……なさ……い」
 途切れ途切れに謝ると、トーギは少し困ったような微笑を浮かべた。
 娘が何について謝っているのか、父には全部お見通しで、サイファもまた、それを充分心得ている。その上で、謝らずにいられないのだ。
「お前の気持ちは、良く解っているよ」
 トーギは慈愛に満ちた声で言い、衣嚢[ポケット]から生成色の手巾[ハンカチ]を出した。ほら、涙を拭いて。
 小さな子供にでもするように、サイファの涙を[ぬぐ]ってくれる。
「さぁ、食べよう」
 鼻の頭を赤くした彼女を食卓につかせ、トーギは向かい合わせに腰を下ろした。すっかり冷めてしまった鳩の肉を齧り、美味しいよ、と笑う。
 お腹を空かせたラヴィが透かさずそれに倣い、目をパチクリさせた。
「本当だ! さっき食べた時より、ずっと美味しい!」
 言ってしまってから、バツが悪そうにサイファを見上げる。つまみ食いして、ごめんなさい……。
 わざとやっているなら天才的とも思えるラヴィのお[とぼ]けに、サイファは泣き笑いになった。涙で顔がヒリヒリする。
「ちょっと、顔洗ってくる」
 そそくさと席を立ち、勝手口から外へ出た。
 小さな弟の前で年甲斐もなく泣きじゃくった自分が、無性に恥ずかしくなった。
「はあぁ……」
 母の眠る小高い丘で仰向けに寝転びながら、サイファは深々と溜息を[]いた。
 ここは村の共同墓地ではなく、彼女が母の為だけに切り拓いた小さな聖地≠セった。他人が滅多に近寄らないこの場所で、もう随分長いこと、こうしてへたばっている。
(あんな奴に振り回されちゃうなんて、馬鹿みたいだ……)
 今日の一喜一憂が全てユウザに起因していることに、サイファも気がついていた。
 彼が笑ってくれたのが嬉しくて、テラとの際どい遣り取りにヒヤヒヤして。出来たての料理を食べさせられなくてガッカリし、精神的な置いてきぼりを食ったことで、ガタガタになった。
(あたしは、あいつに何を求めてるんだろ?)
 流れ行く雲を見ながら、ぼんやり考える。あいつは、あたしの何なんだ?
 サイファがユウザと出会ったのは、彼女がハシリスに召し抱えられた日――最初の逃亡を企てた夜だった。
『ほっ!』
 小さな掛け声をかけ、サイファが露台[バルコニー]の手すりから身を躍らせると、着地する予定だった場所に、いきなり黒い人影が現れた。
『危ない!』
 叫んでみても、最早遅くて――。
(ぶつかるっ!)
 思わず目を閉じた瞬間、サイファの体はふわりと抱き留められていた。
 恐る恐る開いた目の先には、良く出来た彫刻のような顔。それが、帝都防衛隊長、ユウザ・イレイズだった。
『早く慣れろ』
 逃げ出したサイファを叱るでも、蔑むでもなく、ただそれだけ言うと、後は無言で連行された。思えば、あの時の眼差しも、どこか悲しく冷たかった。
 それから毎夜、逃げ出した彼女を見つけるのは彼だった。
 追う者と追われる者。
 それだけの関係だったのに、ひょんなことから、里帰りにまでついてくる事になって……。
 こうして一緒に旅したことで、ユウザの優しさや辛い身の上を知り、サイファは前よりもずっと彼を身近に感じるようになっていた。
 そして、恐らく彼も、自分と同じように思ってくれているものだと信じていた。それなのに――。
(あいつにとって、あたしは居ても居なくても、どっちでもいい存在なんだ)
 だから、弱みも見せないし、頼ってもくれない。つまり自分は、ユウザに必要とされていない……。
 そう思ったら、また涙が出てきた。青い空が歪んで見える。
(あたしって、弱いなぁ……)
 自分自身の問題はいくらでも乗り越えられるのに、他人からもたらされる哀しみには、滅法[めっぽう]弱い。
 しかも――。
(一つ悲しい事があると、どうして昔の嫌な事まで思い出しちゃうんだろう?)
 サイファは頭の中が悲しい記憶でいっぱいになるのを感じた。
 新しく出来た心の鍵を何処に隠そうかと模索する内に、自分が前に隠した鍵まで次々と探し当ててしまうのだ。
 そして、山積みになった鍵を前に、途方に暮れる。
『一度に出来ないことは、少しずつ、自分の出来る範囲でやればいいのよ。目の前に、[]っきな生菓子[ケーキ]を置かれたと思いなさい』
 ふいに蘇る母の笑顔。どんなに好きな物でも、一度に全部食べたら具合が悪くなるでしょう?
 こんな時、自分を励ましてくれるのは決まって母の言葉で、それが余計にサイファを苦しくさせた。
 閉ざした扉のほとんどが、大好きな母へと通じているから。在りし日の思い出が幸せ過ぎて、失ったものの大きさに打ちのめされる。
 鍵をかけなくては、生きていられないほどに――。
「母さん……」
 サイファはごろりとうつ伏せになり、母の墓石と向き合った。
 ライア・テイラント、ここに眠る
 丸い墓石に刻まれた母の名前。
 どうして、こんな事になってしまったのだろう? リュフォイは、なぜ、母の病を癒してくれなかったのか?
(あたしが、もっと頑張っていれば……)
 そこに思い至った途端、息が出来なくなった。
 あたしが――殺した。
 ライアが息を引き取った日、サイファは連日の看病疲れから、ついうとうとしてしまった。ほんの数分だったと思う。だけど、目を覚ました時には、既に――。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
 サイファは念仏のように、繰り返し繰り返し謝った。
 あの時、自分がちゃんと起きていれば、母は助かったのかもしれない。もし駄目でも、父を呼び、その死に目に逢わせてやれた。
(あたしの所為で……)
 唇を噛みしめた時、森の小道から誰かがやってくる気配がした。慌てて身を起こし、袖口で涙を拭う。
 ぼやけた視界に映るのは、白い花束を抱えた、黒い外衣[マント]の男で――。
「泣いていたのか?」
 サイファの前に膝を折ったユウザは、彼女の顔を一目見るなり、一番触れて欲しくないところから斬り込んでくれた。
「悪いか?」
 彼をじろりと[]めつけながら、サイファは思う。
 自分がこんな哀しみのどん底にまで落ちたのは、元はといえば、全部こいつの所為なのだ、と。またの名を、逆恨みという。
「誰も悪いとは言っていない」
 そう牙を剥くな、と苦笑して、ユウザは持参した花束をサイファに差し出した。白くて大きな百合の花。
「ガデルからの帰りに見つけたのだ。お前に、と思ったが、母君に供えてくれ」
「……ありがとう」
 サイファはおずおずと受け取ると、墓前にそっと手向けた。辺りに漂う、甘い芳香。
 なぜだろう? お前に≠ニいう一言が、頑なな鬱をすぅっと溶かしてくれる。
「ところで、どうしてここに?」
 幾分、冷静さを取り戻し、サイファは小首を傾げた。ここに来る事は、家族にも言ってこなかったのに。
「お前の家に寄ったら、父君が多分ここだろうと教えてくれた」
「そう……」
 サイファは小さく肩をすくめた。やっぱり、父さんにはバレバレだ。
「テラはどうしてる? 今まで一緒だったんだろ?」
「お前の家で、ラヴィに捕まっている」
 だから私一人で来たのだ、と言って、ユウザは森の地図を広げた。丘へと続く、枝分かれの小路[こみち]。墓に参るのも命がけだ、と戯言[ざれごと]を吐く。
「さっき、お前の料理を馳走になった。わざわざ届けてくれたそうで、すまなかったな」
 サイファの隣に腰を下ろしながら、ユウザはにっこりした。美味かった、と。
 その悪気の無い笑顔が、サイファの胸を締めつけた。一言言ってやらねば、気が済まない。
「朝、会った時、何で、ガデルに行くって、教えてくれなかったんだよ?」
 恨みがましく尋ねると、ユウザは一寸、驚いた顔をした。
「なぜと言われても、お前が帰った後に思いついたから……」
 行きたかったのか? と、逆に問われ、サイファは返答に窮した。
 行きたかった、というより、無視されたようで寂しかった、とは言えない。
 サイファが眉根を寄せて黙りこむと、それを肯定と取ったのか、ユウザは申し訳なさそうな顔をした。
「テラから、お前は狩りに行ったと聞いたから、誘いもしなかった。でも――」
 彼の表情が途中から悪戯な笑みに摩り替わる。
「そのお陰で美味い料理にありつけた訳だから、私としては万々歳なのだが」
 その顔にも、やっぱり悪気は無くて、何だか気が抜けた。もしかして、自分の一人相撲だったのではあるまいか?
「あのさ、もし、あたしが狩りに行ってなかったら……」
 サイファは後に続く言葉を呑み込んだ。
 こんな事にこだわるなんて、愚かだと思われるかもしれない。だから、心で問いかけた。
(ちゃんと、声をかけてくれた?)
 それなのに、ユウザはまるで聞こえているかのように、真顔で頷いた。
「当たり前だ。私はお前の教育係だぞ?」
 一緒に行っていたら、ガデルの奇跡≠ノついて講じてやった、と偉そうに言う。
「それじゃあ、行かなくて良かった」
 素直に喜ぶのも気恥ずかしくて、憎まれ口で返すと、ユウザは苦笑いになった。向学心の無い奴め。
「あはは……。母さんにも、よく怒られた」
 笑いながらも、サイファはぐずぐずと湧き上がってきそうになる悲しみを、頭の隅に追いやった。油断すると、また泣き出してしまうから。
「母君は、御幾つで身罷[みまか]られたのだ?」
 彼女の心の機微を敏感に感じ取ったのか、ユウザが遠慮がちに尋ねる。
「三十歳」
 なるべく憐れに聞こえないよう、わざとぶっきらぼうに答えた。同情はご免だ。
「……そうか」
 ユウザは神妙な顔で頷くと、おもぶるに切り出した。
「母君に鎮魂の[じゅ]を捧げたいのだが、構わぬか?」
「ええっ!?」
 そのあまりに思いがけない申し出に、サイファは耳を疑った。
 鎮魂の呪≠ヘ、神である皇帝が天界に還る時――即ち、崩御された時に皇太子が唱えるもので、神聖語による祈りの中で、最も尊ばれるものだ。それを、ライアの為に唱えてくれるという。
「そんな事して、大丈夫なのか?」
 嬉しいよりも、まず、その事でユウザが罰せられたりしないのかが気になった。
「バレなければ、問題ないだろう」
 彼は澄まして答えると、墓前に手を合わせ、静かに口を開いた。
 低く、詠ずるように響くユウザの声。
 神聖語の意味など、さっぱり解らないのに、その安らかで温かい響きに、胸が熱くなる。
(母さん、良かったね……)
 今度は、嬉しくて涙が溢れた。全く、今日の自分はどうしようもない。
「――泣くな」
 唱え終わったユウザが、サイファの頭を自分の胸に引き寄せた。女の涙は好かぬ、なんて気障[きざ]な台詞を臆面もなく[]かす。
 だけど、それがまた憎らしいほど様になっていて――。
「ごめん。でも、止まんないや……」
 彼の胸に[すが]ったまま、しばらく涙を流し続けた。
 後ろ頭に添えられたユウザの右手が、労わるように彼女の長い髪を[]く。
 そんな風にされながら、サイファは何とも複雑な気持ちになった。自分を揉みくちゃにしたのがユウザなら、こうして元通りに治してくれるのもユウザなのだ。
 破壊と復元。まるで、至上神ソルティマみたいだ。
「……綺麗な夕日だな」
 ふと、ユウザが吐息混じりに呟いた。
 顔を上げると、樹海の奥へと沈み[]く太陽が、サイファの目を焦がした。瞳に映る全ての世界がじりじりと焼き尽くされ、吸い込む空気までもが紅い。
 オーランブールの港で、ユウザに見せてやりたいと思った景色だ。
「お前の母君は、良い場所におられるな」
 夕焼けを見つめたまま、ユウザが囁くように独り[]つ。私の祈りなど霞んでしまう、と。
「これが、あたしの鎮魂の呪≠ネんだよ」
 サイファは薄っすらと微笑んだ。かつて、母と並んで見た夕日を思い出す。
『アスランに沈む太陽が好き』
 そう呟いて、穏やかに細められたライアの青い瞳。サイファは、夕焼けに[]えて紫色に見えるその目が、大好きだった――。
(今のあたしの瞳も、紫に見えるのかな?)
 それを確かめられるのは、目の前にいるユウザだけ。期待をこめて見上げると、視線に気づいた彼と目が合った。
「不思議だな――」
 お前の瞳が[すみれ]色に見える。
 その呟きに、サイファは顔をほころばせた。
 母との[まばゆ]い過去を封じようと努めているのに、自分の中に母の面影を見出す度、嬉しくて堪らなくなる。
 サイファの心は悲しい矛盾だらけだ。
「あんたの瞳も、すごく綺麗だ」
 再び太陽に向き直ったユウザの横顔を、サイファはしみじみと眺めた。
 彼の翠玉の瞳に[くれない]の光彩が入り混じり、何とも[あで]やかな色味になっている。こんな眼差しは、この場所――この瞬間でしか見られない。
 サイファは、この日の夕焼けを、一生、記憶に留めておこうと思った。帝都に戻っても、しっかり生きていられるように――。
- 2003.06.13 -
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