天馬の背に軽く鞭を当てながら、ユウザは眩い陽射しに目を細めた。その視線の先には、こじんまりとしたルファーリの街並みが望む。
「もうすぐ着くぞ」
馬車の内に声をかけると、分かりましたぁ、というパティの恐縮した声が返ってきた。
人の足では四半日かかるルファーリへの道のりも、天馬ならその三分の一で済む。しかし、馬を休ませる必要がある事に変わりは無く、その度、代わります、と訴えるパティを、ユウザは笑顔で退けてきた。今日のそなたは皇家の御使いなのだから、と。
ユウザは初め、グラハムを使者役に仕立て、自分が護衛をするつもりでいた。しかし、当のグラハムが、お役目を放棄する訳にはいかない、と強固に拒むので、パティにお鉢が回ったものである。
だが、ここで問題になったのは、誰が御者を務めるかだった。使者のパティがそんな事をする訳にはいかないし、グラハムが手綱を取ったのでは、いざという時の為にならない。残るミリアはといえば、天馬はおろか、普通の馬にも乗れない始末で……。
最終的に、ユウザが御者になる以外、道は無かった。
「着陸する、用心せよ!」
大声で注意を促し、ユウザは手綱を締めた。高度が下がるにつれ、顔を隠すために巻いた鉢巻が風に煽られ、うるさく揺れる。
車輪が滑るように地に着くと、そのまま町の門へと馬車を進めた。
「お、おい! あれ!」
「皇家の御車じゃないか!!」
通りを歩む人々が、突如現れた皇家の家紋入りの馬車に気づいて、あたふたと地に伏した。その顔に浮かぶのは驚きと不安ばかりである。
というのも、今日の訪問は全くの不意打ちだったからだ。町長にすら使いを出していない。
事前に連絡すれば、当然、町民総出の歓迎を受ける羽目になり、それはユウザの望むところでは無かった。
いくらサイファを隠れ蓑にするとはいえ、あまりにも目立ち過ぎて、彼女の身にまで何かあっては、それこそ一大事である。
適度に目立つ。
それが理想だった。
*
それでも、瞬く間に噂が広まったとみえ、馬車を役場の入口に横付けした時には、既に町長が出迎えに立っていた。
正装に着替える暇もなく、慌てて出てきたのだろう。緊張と息切れで、顔が真っ赤になっている。
ユウザは御者台から降りると、後部座席の扉を開けた。
軽く目礼したパティが先に降り立ち、馬車の内へと手を差し伸べた。
その掌に、白い手が重なる――。
「おおっ!? あれは幸福な娘≠カゃないか!」
「里に帰って来たのか!?」
貴人に手を引かれて現れた銀髪の娘に、民衆の間から歓声が溢れた。不審の色が掻き消え、サイファを称える拍手が起こる。
「――町長殿、まずは先触れも無しに訪れた非礼を許されたし」
パティは町長に一礼すると、サイファが皇帝の許しを得て帰郷した事、ルファーリに敬意を表するために訪問した事、街を視察する許可を得たい事などを、すらすらと述べ立てた。堂々と胸を張り、威厳に満ちた言葉遣いで。
(モーヴが見たら、さぞかし喜んだであろうな)
そんなパティの姿に、ユウザは小さく笑みを浮かべた。
その長口上は、昨夜、ユウザが考えたものであったが、それを一言一句違えずに言えたのは、パティの力である。きっと、何度も練習したに違いない。
(後で、うんと褒めてやらねば)
そして、もう一人――。
パティに促され、サイファが町長の前に進み出た。
ぴんと伸びた背筋。口元に刻まれた、厳粛な微笑。長い裾を捌く、優美な足取り……。
日頃の粗暴さが嘘のような淑女振りで、その表情には、思わず跪きたくなるような崇高さまで漂っている。
「皇帝陛下の御慈悲を賜り、こうして故郷に戻れた事を大変嬉しく存じます。僭越ながら、この慶びを親愛なるルファーリの皆様にも――」
そう言って、深紅のイグラット国旗を差し出した。皇太孫殿下の御心です、と。
その瞬間、群集が沸き立った。皇家から国旗を下賜される事は名誉であると共に、その庇護を約束された事を意味する。
これは、ユウザからのささやかな償いでもあった。田舎町を引っ掻き回した――否、これから引っ掻き回す事への。
「このような御厚意を賜り、光栄至極に存じます。急なご来訪ゆえ、何の御持て成しも致しかねますが、どうぞ、ごゆるりと御視察遊ばされますよう」
恰幅の良い町長は、その場に膝をつき、深々と頭を下げた。
その礼は、最早、一奴隷に対するものではなかった。サイファを通して皇家を――神を見ている。
正直なところ、サイファがこんなにも真摯に振る舞うとは思っていなかった。ユウザの目論見としては、彼女が装うだけで充分だったのだ。
国賓に見える晩餐の席ですら、無作法、無愛想を貫いてきたサイファである。その不敬をも許された彼女が、今更、同じ無礼を重ねたところで、責めるつもりは少しもなかった。
それなのに――。
(一体、何が、あの者を駆り立てたのであろう?)
郷土愛か? と、首を捻っていると、一緒に控えていたミリアが、独り言ちた。やっぱり、気の所為なんかじゃなかったんだわ、と。
「何がだ?」
ユウザが尋ねると、ミリアは微かに頬を赤らめた。
「実は、サイファの着替えが済んで、パティ様がお迎えにいらした時……」
よほど言い難い事なのか、途中で口ごもる。黙って続きを待っていると、彼女は大きく深呼吸してから、まるで懺悔でもするように告げた。
「彼女から、ユウザ様と同じ気配を――神気のようなものを感じたんです」
ただの奴隷なのに、私より身分の低い者なのに、と唇を噛む。
皇家に忠義を尽くすアンバス家の血筋を何より誇りとしているミリアにとって、それは認め難い感情だったのだろう。一瞬でも、皇家以外の存在に、まして、奴隷に畏敬の念を抱いた自分を恥じているようだった。
「馬鹿だな、ミリアは」
ユウザは柔らかく微笑した。
「あの者に惹かれる事は、決して恥ずべき事ではない。第一、彼女は陛下≠フ御心をも捉えたのだぞ?」
惹かれぬ方がおかしいくらいだ、と言ってやると、ミリアは目をパチパチさせた。そういうものでしょうか? と、猶も葛藤する様子。
「そう思い悩むな。斯くいう私も、あの娘に焦がれておるのだから」
ユウザがにっこりすると、それを冗談と取ったか、ミリアは口に手を当て、まあ! と笑った。
そこへ、表敬を終えた二人が戻って来る。
お役目を無事に果たした達成感で頬を紅潮させているパティに、軽く頷いてみせると、彼は満面に笑みを湛えた。ほんの少し、その歩みが速まる。
一方のサイファに目をやれば、わずかに眉を上げ、得意げな顔になった。あたしだって、やれば出来るんだぞ、とでも言いたげに。
それに応じて、ユウザが笑みを返すと、彼女はたちまち澄まし顔に戻った。そして――。
「あまり笑うと、人目を引くぞ」
すれ違い様、耳元に囁かれた。慌てて唇を結ぶと、彼女が民衆に向かって手を振った。
こぼれる感嘆、轟く歓声。サイファの姿を追いかける、人々の熱を帯びた視線――。
その時、ユウザは初めて気がついた。必要以上の愛嬌を振り撒く、彼女の真意に。
(私の為か)
いつになく華やいだ笑みを浮かべるサイファに、胸がさざめく。許されるなら、今すぐ彼女を抱きしめたい。
【神よ……】
ユウザは心中で祈りを捧げた。
サイファ・テイラントとの出会いに。
彼女の守護を命じた祖母に。
それら全てを司る神の意志に、心の底から感謝して――。
- 2003.07.10 -