Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 28 話  [かげ][つき]
「道理で、様子がおかしかった訳だ」
 客間の寝台で、昏々と眠り続けるサイファを見ながら、ユウザは小さく笑った。
『あんたが生きててくれて、本当に良かった……』
 そう言って抱きついてきた彼女に、ユウザは少々面食らったのだ。自分が何者かに襲われた事を、もう嗅ぎつけたのかと。
 しかし、それが全くの見当違いだと分かって、つい笑ってしまった。まさか、自分たちがハナイ・ヴァンテーリに攫われた事になっていたとは。
「笑い事ではありませぬ」
「そうですよ! 僕たち、本気で心配したんですからね!」
 グラハムが苦虫を噛み潰したような顔で呻き、目を泣き腫らしたパティが、ふくれっ面で訴える。
「そうは申すが、先に役場へと向かわなかったお前たちにも、落ち度はあったと思うぞ? 私は、ちゃんと[ことづ]けを頼んでおいたのだから」
 ヴァンテーリ邸に着いてすぐ、ハナイに頼んで役場に使いを出してもらっていたのだ。戻り次第、こちらに来るよう伝えてくれ、と。
 もっとも、伝言を聞くこと無く、自分の居場所を探り当てた事には、感心させられたが。
「御もっともです。判断を誤ったのも、殿下のお[そば]を離れて、御身を危険に晒しました事も、全て[わたくし][とが]です」
 グラハムはその場に膝をつくと、どうか厳罰を、と静かに[こうべ]を垂れた。
「それには及ばぬ。私もミリアも[かす]り傷一つ無ければ、危ない目にも[]うてはおらぬ。――なあ?」
 同意を求めて、ミリアをふり返ると、彼女は心得ていますとばかりに、澄まし顔で頷いた。
「ユウザ様の神気を前に、[わざわい]も尾を巻いたのでございましょう」
 答えながら、サイファの崩れかけた結い髪をせっせと[ほど]いてやっている。中々、堂に[]った狸ぶりだ。
 そういう訳だから気に病むことは無い、と軽く受け流そうとすると、グラハムは瞳を鋭くした。
「何事かあったのでは、遅きに失します」
 断固たる口調で、猶も制裁を望む。
(……この石頭め)
 グラハムの旋毛[つむじ]を見下ろしながら、思わず苦笑した。自分に厳しい姿勢は尊敬するが、何もここまで頑なにならなくても良いと思う。
「相わかった」
 仕方なく頷いて、ユウザは声の調子を改めた。
「グラハム・バリよ。罰として、そなたに役場への使いを命ずる。今すぐ、天馬を引き取って参れ」
僭越[せんえつ]ながら――!」
「では、黙れ」
 反論しかけたグラハムを一蹴する。
「護衛である其方[そなた]に、御者の仕事までさせようと申しておるのだ。それだけで、十分、償いになるとは思わぬか?」
 ユウザが目を細めると、グラハムは、ふっ、と短く息を吐いた。
 その裁量を快しと笑ったのか、甘いと嘲ったのか。俯き[ざま]の表情は読めない。
 やがて、御意、と返して、上向いた顔は、いつも通りの[しか]め面だった。
 ハナイの厚意で、かなり遅めの昼食を饗された後、ユウザは一人、サイファの枕元に腰を下ろした。
 開け放たれた窓からは、カーテンを揺らす微風と、隣室で食休み中のパティとミリアの声が入ってくる。その騒がしい調子から、二人が、またしても遣り合っているのだと判った。
(毎日、毎日、よくも争う種が尽きないものだ)
 供の人選を誤ったか、と苦笑いしながら、ユウザは窓を閉めた。
 ついでに、寝台を直射する陽光を[ひわ]色のカーテンで遮ると、室内が淡い緑に包まれた。静かになったところで、改めて、サイファの顔を覗きこむ。
 常磐[ときわ]色の蒲団に広がる、[]かれた銀髪。微かに[ひそ]められた眉と、固く閉ざされた瞼――。
(よほど、無理をしていたのだな)
 その少し苦しそうな寝顔に、ユウザは溜息をこぼした。
 思えば、ディールに着いてからというもの、彼女は働き過ぎていた。
 深夜に及ぶ宴会の後、ろくに眠りもしないでパンを焼き、狩りをして。一夜[いちや]明けての今日といえば、予定外の表敬訪問に、慣れない淑女の振りである。
 そうでなくとも、長旅で疲れていたはずなのだ。例え、彼女自身が過労に気づいていなくとも、傍にいる自分が、もっと気を配ってやるべきだった。
 それなのに、守るべきサイファを、自分の襲撃事件の巻き添えにまで……。
「すまない」
 自分の至らなさを深く反省していると、サイファが小さな呻き声をもらした。
「どうした?」
 苦しいのか、と声をかけてみると、彼女の瞼がぴくりと震えた。そして……。
「……んっ」
 とろんとした瞳が、ユウザを捉える。
「大丈夫か?」
 身を乗り出すと、まだ寝ぼけているのか、サイファは黙って右手を伸ばしてきた。
「何だ?」
 [いぶか]るユウザの頬に、彼女の白い指先が触れる。それから、ゆっくりと確かめるようになぞって……。
「良かった」
 サイファは[かす]れた声で呟いた。彼の頬に手を当てたまま、夢じゃない、とにっこり笑う。
「気分は、どうだ?」
 そのあどけない微笑に、胸中を甘く乱されながら、ユウザは彼女の手に自分の左手を重ねた。自然と、口元が綻ぶ。
「もう、平気」
 意識がハッキリしてきて、にわかに恥ずかしくなったのか、サイファは逃げるように手を引っ込めた。喉が乾いたな、と呟いて、そわそわと身を起こす。
「何か貰ってきてやろう」
 水で良いか? と、立ち上がりかけた時、コココン! という、素早い合図[ノック]が響いた。
 返事をすると同時に、ミリアがダッと駆けこんで来る。
「ユウザ様、ちょっと聞いて下さいなっ! パティ様ってば、酷いんですよぉっ! 先ほどの後遺症で、腰を[さす]っていましたら、婆クサイ、なんて[]かしやがるんですの! [わたくし]、今日という今日は、堪忍袋の緒が切れました……って、あら!」
 散々、喚き散らしておきながら、起き上がっているサイファに気づいた彼女は、もう少し寝てればいいのに、と労わりの声をかけた。
「大丈夫。一眠りしたら、だいぶスッキリした」
 サイファは笑顔で頷くと、それより後遺症って何の事だ? と、小首を傾げた。
「そうそう、あなた達と[はぐ]れた後、大変だったのよ――!」
「ミリア、その前に水を持ってきてくれないか?」
 興奮からか、それとも、サイファになら構わないと油断したのか。口を滑らせかけたミリアを、ユウザはさり気なく黙らせた。余計な事は言うな、と目で制しながら。
「あっ! 少々、お待ち下さいませ」
 自分の失態に思い至った彼女は、入って来た時と同じような勢いで、あたふたと出て行った。やれやれ、である。
「ところで、腹は空いていないか?」
 再びサイファに向き直ると、彼女は、何も食べたくない、とぶっきらぼうに答えた。口をへの字にして、顔を俯ける。
 会話を邪魔されたと、怒っているのだろうか? ついさっきまで、頬を朱に染めながらも、淡い笑みを浮かべていたのに。
 怪訝[けげん]に思いつつも、そうか、とだけ答えて、ユウザは席を立った。途端に、サイファが[おもて]を上げる。
「何処に行くんだ?」
「え? いや、ただ、お前の目が覚めた事を、ハナイ殿に伝えに行こうかと……」
 [すが]るような眼差しを向けられ、わずかに狼狽[うろた]えた。こんなに頼りなげな顔をする彼女を、今までに見たことが無かった。
 先の混乱で植えつけられた恐怖に、[さいな]まれているのかもしれない。不憫さと愛しさが同時にこみ上げて、ユウザは我知らず胸を押さえた。
「心配するな。お前の事は、ミリアによくよく頼んでおくから」
 [なだ]めるように微笑して、サイファの髪に触れた――瞬間、今度はサッと身を引かれてしまった。何て、あからさまな拒絶。
「そんな病人扱いしなくていい」
 冷たい声音[こわね]で吐き捨てるなり、彼女はぷいっとそっぽを向いた。
(……私が一体何をした?)
 ころころと変わる、サイファの理不尽な態度に、ユウザは強い憤りを覚えた。
 彼女が目覚めるまで、自分がどんな気持ちでいたか。目覚めた彼女に、どれほどの欣幸[きんこう]をもたらされたか。
 自分の恋情を押しつけるつもりなど更々ないが、人として大切にしてやりたいと望む心を、これほど邪険に扱われる[いわ]れはない。
「ならば、勝手にいたせ」
 何とか感情を押し殺し、ユウザは部屋を後にした。
 金色[こんじき]の陽射しが背を照らし、[つるばみ]色の床に長い影を伸ばす。
 日暮れには、まだ間がある。
- 2003.09.01 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL