Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 30 話  [こころ][みだ][もの]
 書斎を訪ねると、家主は不在だった。
 辺りを見回しても、誰も通りかからない。他人の屋敷を勝手に捜し回る訳にもいかないので、客間に引き返すより[ほか]ないのだが……。
 視界を遮る鉢巻を剥ぎ取りながら、ユウザは書斎の扉に寄りかかった。
 ハナイが戻るまで待とうというのではない。ただ、今はまだ、サイファと顔を合わせたくなかった。
(全く、情けないにも程がある)
 麹塵[きくじん]色の布を握り締め、自嘲の笑みを漏らした。
 波立つ感情が静まらない。
 脳裏に居座るサイファの冷やかな瞳が、尖った声音が、胸の内を否応無しに掻き混ぜてくれるのだ。刺客に襲われた時でさえ平静を保った、[はがね]の心を。
(女の気紛[きまぐ]れに振り回されてどうする)
 しっかりしろ、と自分で自分を叱りつけ、部屋に戻る決意を固めた時だった。書類の束を抱えた執事が、廊下を横切って行くのが見えた。
「すまない!」
 しめたとばかり、大声で呼びかけると、執事はピタリと立ち止まり、軽く会釈を返した。
 恐らく、ハナイと同年代と思われる彼は、主人が主人だけに気苦労が絶えないのか、頭に白いものが目立っている。
「ご当主は、どちらに?」
 近づきながら尋ねると、執事は眼鏡の奥で目を[みは]った。
「ええと、あの、イレイズ様……でいらっしゃいますよね?」
 半ば[ほう]けたように、ユウザの顔をまじまじと見つめてくる。
「そうだが?」
 執事の妙な態度に、如何した? と、首を傾げると、彼は慌てて[かぶり]を振った。
「大変、失礼を致しました。どうも、眼鏡の調子が良くないようで……」
 鼈甲[べっこう]の眼鏡をしきりに動かしながら、ぼそぼそと言い訳をする。イレイズ様のお顔が、先ほどお目にかかった時と、別人のように見えてしまうのですよ、と。
「それは大変だ」
 よほど度が合わないのだろう、と大袈裟に相槌を打ち、ユウザはこっそり鉢巻を結んだ。
 どんな恰好をしてもすぐにバレる、とミリアは言ったが、布一枚の力は意外に大きかったようだ。
 執事に案内されてやって来たのは、屋敷の一角にある大きな倉庫だった。重そうな木箱を担いだ男が十数人、裏庭と倉庫の間を何度も往復している。
「おお、それは良うございました!」
 サイファが目覚めたという、ユウザの言葉を聞くや、ハナイは執事に向かって酒宴の仕度を言いつけた。
「いやはや、幸福な娘≠ェお倒れになった時は、目の前が真っ暗になりましたからな」
 凶兆かと思ってビクビクしました、と肩をすくめるも、浮かべる笑みは豪放そのものだ。
「色々、ご迷惑をおかけした」
 ユウザが丁寧に頭を下げると、ハナイは、とんでもない! と両手を振った。
「幸福な娘≠ェお休みになった寝台は、我が家の宝でございますよ」
 どうぞ気兼ね無くお使い下さい、とにこにこ笑う。
「そう[おっしゃ]って頂けると、心安い」
 ハナイの温かな気配りを受けて、ユウザは目元を和ませた。このような男が主人なら、テラ・ムスカルの身は安泰だと思った。
 先ほどから、忙しそうに立ち働いている男たち―― III 種のことが、気になって仕方がなかったのだ。
 イグラットの奴隷制度は、自分より低い身分の者であれば、誰を、何人飼おうと許されている。ただ一つ、奴隷が望む最善の暮らし≠与えるという、主人の義務さえ果たせるのなら。
 しかし、それが明文化されている訳では無く、最善≠フ度合いは、奴隷を飼う者の裁量に任されていた。そこに、問題があるのだ。
 現皇帝のハシリスが奴隷を擁護しているため、宮廷や皇族に飼われている者たちは、[ぜい]を極めた暮らしを保証されている。
 だが、それ以外の圧倒的大多数にあたる、宮人や商人に隷属する者たちは、必ずしも、満足な待遇であるとは言えなかった。
 法に定められていないのを良い事に、劣悪な環境で過酷な労働を強いる主人が、ごまんといるからだ。
 そんな現状を打破しようと奴隷保護法≠ネるものが提議された事もあったのだが、いつの間にか有耶無耶[うやむや]にされてしまった。
 宮人や商人に買収された、浅ましい皇族の手によって――。
(神の一族が、聞いて呆れる)
 ユウザは短く息を吐いた。
 そもそも、正義を司る神[イグラット]≠フ末裔たちが、この忌まわしい習慣を作り上げたというのだから、皮肉なものである。
 それを自覚しているのに何も出来ない自分は、猶もどかしい。皇太孫という絶大な権力を持ちながら、それを行使できない自分が。
 皇帝の I 種という、保護されるべき立場にある自分が……。
「――あれは炎舞石でしてね。先ほど、カダッズから届いたばかりなんです」
 ユウザが奴隷たちの姿を目で追っていると、視線の行方を勘違いしたハナイが、わざわざ箱の中身を見せてくれた。
 カダッズは帝国領の西の果てにある砂漠地帯で、国内唯一の炎舞石の産地である。
「結晶を取り出した後の[くず]ですが、アンカシタンからの輸入物に比べると、魔力が数倍強いんですよ」
 ハナイは弁柄[べんがら]色の小石を摘まみ上げると、ユウザに差し出してよこした。ご覧下さい。
「……確かに。イヴリム産の原石よりも澄んでいる」
 受け取った石を光に[かざ]しながら、これは速効性の石だな、と呟くと、ハナイは目の色を変えた。
「良く、お判りで!」
 もしや、魔石学を修めておいでですか? と、声を弾ませる。
「残念ながら、少しかじっただけだ」
 軽く首を振り、ユウザは石をハナイに返した。
 魔石学≠ヘ、魔石が持つ妙なる力≠有効利用すべく生まれた、比較的新しい学問である。
 これまで、魔石が生み出す不思議な力は、石に宿る精霊の力とされ、彼らと契約を結ぶ事によって具現化すると信じられてきた。
 しかし、研究の結果、契約の儀式として、石に唇をつけて呪文を唱えるという行為が、魔力を秘めた核に絶妙な刺激を与え、反応を誘発する事が解った。
 他にも、透明度の高い石ほど魔力が強いとか、色味が濃い物は効き目が遅いといった特徴も、少しずつだが明らかになっている。
 ユウザの家庭教師として皇家に仕え、また、あらゆる分野の学者として世に貢献してきたラパンサ・ホーランジュが、趣味として熱中したのが魔石の研究だった。その基礎的な知識を、教え子であるユウザにも授けてくれたのだ。
 魔石を制する者は、世界を制する。そんな時代が、いつか必ず来るから、と言って……。
「またまた、ご謙遜を。[わたくし]も玄人の[はし]くれとして、独学で研究して参りましたが、魔石の鑑定は何年経っても難しいものですよ」
 石についた[ほこり]をハンカチで丁寧に拭くと、ハナイは石に唇を当て、呪文を唱えた。
「石に宿りし聖なる御霊[みたま]よ、汝、その妙なる力を以ちて、我を助けよ」
「ハナイ殿!?」
 こんな屋内で何をなさるか! と、ユウザが鋭く[とが]めると、ハナイは、心配ご無用、と言って、炎舞石を床の上に置いた。
 そうして、上着の衣嚢[ポケット]から別の石を取り出す。浅葱[あさぎ]色の、水華石の欠片。
 それを、炎舞石にしたのと同じように口づけ、呪文を唱えていると、床に置いた石が破裂音を立てて深紅の妙炎に変じた。
 しかし。
「――我を助けよ」
 詠唱が終わると同時にハナイの手から溢れた妙水で、あっという間に鎮火する。
「速効か遅効か、魔力が強いか弱いのか。目で判断出来ない場合、実際に使ってみるしか、確かめる[すべ]が無いのですよ」
 濡れた手を拭いながら、ハナイは眉尻を下げた。危険を伴なうことは重々承知しておりますが、と。
(そういえば……)
 ラパンサの部屋からも、しょっちゅう怪しげな爆発音が聞こえていたような気がする。そんな危ない事をしていたとは思えないほど、愉しそうに実験の結果を話してくれたが。
「魔石は天からの授かり物です」
 有意義に使わなければ、罰が当たりましょう。そう告げるハナイの眼差しは、使命感に燃えた学者のものだった。
 その輝きに、亡き師の面影が重なる。
(もし、ラパンサが生きていたら……)
 今ごろ、魔石学界も飛躍的な発展を遂げていたであろうか?
 床に残る妙水の煌きを見ながら、ユウザは静かに溜息を呑んだ。
 今日は、やけに心乱される。
- 2003.10.01 -
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