コツコツ、と遠慮がちに扉を叩く音がして、サイファは小さく身をすくませた。
(ミリア……かな?)
それにしては戻りが早過ぎる、という心の声に耳を傾けながら、はい、と返事をする。もう一つの予感を胸に、緊張しながら戸を開けると……。
「何だ、あんたか」
思わず、気の抜けた溜息が漏れた。てっきり、ユウザが戻ってきたものと思ったのだが。
「何だ、とは、何だ!」
予想外の訪問者――パティ・パジェットが、不愉快そうに眉を上げる。
「ごめん、ごめん」
別に深い意味は無いんだ、と執り成すように微笑んで、サイファはパティを招き入れた。まあ、入んなよ。
「……お前、一人っきりか?」
革張りの長椅子に腰掛けながら、彼はキョロキョロと窺うように室内を見回した。
「そうだよ。ついさっきまで、テラが居たんだけどね」
サイファの悩みを聞いてくれた後、テラは、ちょっと様子を見に寄っただけだから、と言って、直ぐに出て行ったのだ。抱きついて接吻の一つもすれば簡単に仲直り出来るぞ、なんて、しょうもない助言を残して……。
「ところで、何の用?」
思い出し苦笑いを浮かべつつ、向かいに腰を下ろすと、パティは落ち着きなく視線をさ迷わせた。その不審な態度に、ふと閃く。
「あ、判った。ミリアに謝りに来たんだろ?」
いくら何でも、十五の乙女に向かって婆クサイ≠ヘあんまりだもんな、とサイファが独り合点すると、パティはたちまち小鼻を膨らませた。
「違う! 僕は、ただ、お前の事が心配で来ただけだっ!」
誰が、あんな可愛げのない婆に謝ったりするもんか! と、ぷりぷりする。どうやら、今回の喧嘩は婆≠ニいう単語が鍵になっているらしい。
「何、言ってんだよ。ミリアが婆さんだったら、あたしはどうなるのさ?」
棺桶に片足突っ込んだ死に損ないか? と冗談半分に眉をひそめると、パティは大きく頭を振った。
「そんな事ない! お前は、ミリアなんかより、ずーっと可愛いぞ!」
両の拳を握って力説されて、思わず吹き出してしまった。自分を見上げるパティの瞳には、子供特有の一途な好意が溢れている。
(あんたの方が、よっぽど可愛いよ)
喉まで出かかった台詞を飲み込んで、サイファは卓の上に身を乗り出した。
「ありがとう」
笑みを浮かべながら、パティのおでこに軽く口づける。お世辞でも嬉しいよ、と。
「う、嘘じゃないぞ!」
心持ち頬っぺたを赤くした彼は、繕うように話題を戻した。
大体、ミリアには若さってものが足りないんだよ。
*
それから後は、パティの独擅場だった。
「……意地悪だし、生意気だし、チビで、チンクシャで……」
延々、吐き出される悪態の数々に半ば感心し、チビで生意気は、お互い様じゃなかろうか? と、心の中で突っ込みを入れ、更に、腹がへってきたな、と関係のない事まで考え始めた頃、微かな合図が響いた。
その音に、サイファが顔を上げるのと、戸が開いたのは同時だった。だから、止めてやる暇もなかった。
「……声はキンキン煩いし、胸も真っ平だし――」
「あらまぁ。まるで、ご自分の目で確かめたように仰るんですのねぇ?」
室内に極寒の雪嵐が吹き荒ぶ。
「げっ!」
ふり返ったパティの脳天を雪女――元い、ミリアの罵声が貫いた。
「子供だと思って大目に見てれば、いい気になりやがりましたわね、この変態助平小僧っ!」
叫ぶやいなや、持っていた物体を次々とパティの顔に投げつける。
それは透かし模様のついた上着であり、桃染の長衣であり、絹の靴下であって、言わずと知れた、サイファの着替えである。
「誰が変態だっ!」
頭から被った靴下を払い落とすと、パティは臨戦体勢に入った。こっちこそ、婆だと思って手加減してやったのに!
「何ですってぇっ!?」
あっかんべぇをしてミリアを挑発するその姿に、先ほどまでの愛らしさは微塵もない。一瞬、サイファの脳裏に二重人格≠ニいう言葉が浮かんで消えた。
その時――。
「落ち着け、ミリア!!」
投げる物がなくなり、近くにあった陶器の壷――しかも、特大に手を伸ばしかけたミリアを、サイファは慌てて羽交い締めにした。
最早、堪忍袋≠フ緒が切れた≠ヌころではない。完全に破裂≠オてしまっている。
「パティ、とりあえず逃げろ!」
邪魔しないでちょうだいなっ! と、じたばたするミリアを押さえながら、大きく顎をしゃくる。
さすがに、壷――しかも、特大で殴られては堪らないと思ったのか、パティは疾風の如き素早さで部屋を脱した。
「ちょっとぉ! お待ちなさぁぁぁいっ!」
気が触れたように暴れるミリアを抱えたまま、サイファは深く息を吐いた。
次に二人が顔を合わせる時を思うと頭が痛くなるが、今、この場での流血沙汰を回避できた事に、ひとまず安堵する。
(あいつの力って、大きいんだな)
いつぞや、ユウザが駆使した飴と鞭。自分には、とてもじゃないが真似できない。
*
「……もう、大丈夫よ」
一頻り、パティへの雑言を吐いたミリアは、サイファの腕の中で、ぐったりと項垂れた。
あ痛たた……っ、と腰を押さえ、よろよろと長椅子に寝そべる。この騒ぎで、すっかり症状が悪化したようだ。
「湿布でも、貰ってきてやろうか?」
サイファが小首を傾げると、ミリアは力無く笑った。横になってれば直治るわよ。
「それじゃあ、あたし、腰揉んであげるよ」
床に両膝を着き、サイファはミリアの細腰をうにうにと揉み解した。長年の麺麭作りで養われた握力は、こういう時にも役に立つ。
「あ、そこ、気持ちいい」
「ここ?」
「ううん。もうちょっと左……そう、そこそこ!」
腹這いになったミリアが、はぁ〜、とか、ほぉ〜、とか、心地好さげな、それでいて、とてつもなく年寄りクサイ溜息をこぼす。
パティの主張も、あながち嘘とは言い切れないな、などと思いながら、肘を使ってグリグリしていると、戸口の方で物音がした。何かが扉にぶつかったような、固い音。
「誰か居るのか?」
動かしていた手を休め、問いかけると。
「やっぱり、婆じゃないか! 銀の娘に腰なんか揉ませて!」
勢い良く開いた扉から、パティが勝ち誇ったように――それゆえ、小憎らしさ三割増の笑顔を突き出した。
「なっ! 婦女子の部屋を覗くなんて、犯罪ですわよっ!」
ミリアはガバッと起き上がろうとして、挫折した。急な動きが、腰に負担をかけた模様。
「無理しちゃ駄目だよ」
寝椅子にべしゃっと倒れた彼女を、サイファはゆっくりと起こしてあげた。それを見たパティが、いかにも愉しげに、婆、婆、と囃し立てている。
「……ぅお〜のぉ〜れぇ〜」
腹の底から低く唸ったミリアは、手近にあった座布団を掴み、渾身の力を込めて投げつけた。しかし、それがパティの顔に届くことはなく、ぼふんと音を立てて戸を半分だけ閉めた。
「パティ・パジェット! 隠れてないで、出てきなさい!」
じりじりと匍匐前進までして、パティを追いかけようとするミリアの執念に、サイファは戦慄した。今、自分が止めてやらなければ、彼女は色々な意味で壊れてしまう。
「まぁまぁ、相手は未成年なんだしさ。ここは一つ、大人になろうよ」
這い進むミリアの両足首を掴んで、サイファはズルズルと後退した。彼女の口惜しげな抗議を無視して、出来るだけ戸口から遠ざける。
そこへ、半開きだった扉が、ぎぃっと音を立てた。
(あのガキ、また性懲りもなく!)
サイファはミリアの脚をパッと放して、身を翻した。
後ろで、ゴンという鈍い音と、くぐもった悲鳴が聞こえたような気もするが、今はそれどころではない。ミリアの人格崩壊の危機なのだ。
「もう、戻ってくんなっ!」
一声叫んで、廊下に顔を出すと――そこには極上の笑みがあった。
「それは悪かったな」
にーっこり微笑んだユウザ・イレイズが、くるりと踵を返す。その表情は、テラの手に赤痣をつけてくれた時と全く同じもので……。
「うわあっ! 違う、違う、違うっ!」
あまりの間の悪さに心で号泣しながら、サイファはユウザの腕に飛びついた。
「何をす――!」
「ごめんっ!」
彼の声を遮って、平謝りに謝る。今のはパティと間違えただけなんだ、とか、さっきのはあたしが一方的に悪かった、とか。
あんまりな不意打ちで、用意していた謝罪の言葉の半分も出てこなかったけれど、誠意と熱意だけは、しっかり込めたつもりだった。
それなのに。
「分かった、分かった」
ユウザときたら、ほとんど上の空といった感じで、彼女の腕を引っぺがすことに集中している。分かったから離れろ、と。
その態度に、サイファは逆ギレと解っていながら、ぶち切れた。
「嫌だっ!」
思いきり叫んで、ユウザの腕に全体重をかけて伸しかかる。ちゃんと話を聞いてくれるまで、絶っ対に離れないからなっ!
しかし、敵も然る者で。
「お前が腕を放したら、聞いてやる!」
だから離れろ、とサイファの肩をぐぐっと押し返す。
「嘘だっ! 放したら、逃げる気だろ?」
「馬鹿を言え! なぜ、私が逃げねばならぬ!」
「だって! 今、実際、逃げてるじゃないかっ!」
「それは、お前がべったり引っ付くからだろう!」
「何だよそれ! 引っ付いて、何が悪いってのさ!?」
「そんなもの、自分で考えろ!」
「わかんないよっ!」
「即答するな! 少しは頭を使え!」
「悪かったなっ! どうせ、あたしは馬鹿ですよ!」
「ええい、そこで開き直るな!」
「そんなこと言われたって、わかんないものは、わかんない!!」
意固地になって、ぎゅうっと腕に力を込めると、唐突にユウザの抵抗が止んだ。
(ん?)
不思議に思い、そろりと顔を上げたところへ、低い、低い、囁きを落とされる。
「――今すぐ押し倒されたくなかったら、腕を放せ」
熱っぽい吐息混じりの、これでもかというほど、邪悪な響き。
その言葉の意味を解するのに、サイファは、たっぷり十秒を要した。
そして――。
「な、な、な、な、な、何、何、何言ってんだ、あんたっ!? お、押し倒すって、押し倒すって、押し倒すって事だろ!?」
体中の血液が一気に頭に押し寄せて、自分でも何を言っているのかわからない。
「ああ、そうだ! お前の胸が腕に当たって落ち着かない、と言っている!」
面倒臭そうに吐き捨てたユウザが、放心したサイファの腕をべりっと引き剥がす。何でもいいから、早く離れろ!
支えを失った両腕がだらんと垂れても、サイファは身動き出来なかった。顔面から放出される熱に中てられっぱなしで、頭がうまく働かない。
そんな彼女に代わってユウザの言葉に反応したのは、いつの間にか廊下に這い出て来たミリアだった。
「ユウザ様まで、そんな事を仰るんですの!?」
彼に対しても変体助平小僧≠ニいう、不名誉極まりない称号を贈るのかと思いきや。
「私が抱きついた時には、何も仰って下さらなかったのにーっ!」
あんまりですわ、と首を振り、はらはらと涙をこぼす。
「は? 抱きつく?」
ミリアの曰くありげな発言で、サイファの頭は奇跡的に正常に戻った。
「まだ、何か隠してるのか!?」
目を剥いて、ユウザを見上げると、彼は、何も、と無表情に返しつつ、明らかに視線を逸らした。あくまで、黙りを決め込むつもりらしい。
(これって、何か、何か……)
一度は諌めた苛々が、再び胸に蘇る。だけど、ここで怒ってしまったら、また話が拗れてしまう――のに。
「この大嘘吐きーっ!」
ヴァンテーリ家の長い廊下に、サイファの怒声が反響した。
壁に掛けられた燭台には、いつの間にやら火が入れられている。
日は、落ちた。
- 2003.10.10 -