Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 32 話  []えぬふり
 晩刻、ヴァンテーリ家の大広間では盛大な宴が開かれていた。
 あちこちで交わされる乾杯、次々と運び込まれる大皿の料理、酔った勢いで歌い、踊る人々――。
 それは[まさ]しく無礼講≠ナ、奴隷をも含む屋敷中の人間が幸福な娘≠囲み、愉しい夜を過ごしていた。
 もっとも、囲まれている本人とその従者たちを除いて……。
(何て不味い酒だ)
 相変わらず御者に成り済まし、極力目立たず、[ひそ]やかに[はい]を傾けていたユウザは、溜息さえも静かにこぼした。
 よく冷えた辛口の麦酒[ばくしゅ]そのものは、文句なしに美味い。だが、現況下では、悠長に美酒を味わう気にもなれ無かったのだ。
 昼間の拉致騒動が祟ったのか、役場から戻ったグラハム・バリは、気分が優れない、と言って、早々に宴席を辞していた。精神的にも肉体的にも強靭で、人一倍責任感の強い彼がこんな風に弱音を吐くのは初めてで、大事なければ良いが、と心から思う。
 その一方、皇家の使者[大役]≠務めていたはずのパティ・パジェットは、何やら[すこぶ]る上機嫌で、[]がれた酒をグイグイ呷り、さっさと酔いつぶれている。翌朝の惨状が容易に想像できるだけに、こちらも、今から気が重い。
 まして、広間の隅っこで目を泣き腫らし、すっかりしょ気切ってしまっているミリア・アンバスに至っては、心中で白旗を掲げるばかりだった。期せずして己の胸の大きさについて劣等感を抱いてしまった少女に、一体どんな言葉をかけてやれるというのか? 彼女が自力で立ち直ってくれるのを待つしかない。
 そして、最も厄介だったのは――。
(眉間にあんなに皺を寄せて)
 [さかずき]に口をつけたまま、ユウザは広間の中央をちらりと見遣った。
 ハナイの奥方[おくがた]に勧められるまま、皿に盛られた料理をぱくついているサイファ・テイラントは、とても幸福≠ネ娘には見えない仏頂面だった。
 しかも、時折こちらに視線を投げかけては、わざとらしくそっぽを向く。自分は怒っている、と全身で主張しながら。
 しかし、そんな可愛げの無い彼女を見ても、最早、ユウザの胸が波立つことは無かった。サイファの怒りが何に対するものなのか、よく分かったから。
『まだ、何か隠してるのか!?』
 あの一言で、目から鱗が落ちた。
 先の理不尽な態度は、何の事はない、隠し事をされた事への不満の表れだったのだ。彼女のために善かれと沈黙を貫いたのが、かえって不興を招いたらしい。
 恐らく、こちらが真実を告げれば、サイファの[わだかま]りも簡単に[]けると思われるのだが……。
「どうしたものかな」
 口中[こうちゅう]で呟いて、酒を喉に流し込んだ時。
「!?」
 ふと、背筋に悪寒が走った。それも、殺意とは大きく異なった意味で身の危険を感じる、強烈なやつが。
 その刹那。
「――何をしようとしていた?」
 振り向き[ざま]抜き放った刀身を曲者の喉元にピタリと据えつつ、ユウザは低く問いかけた。返答次第では、このまま[]ぎ払うぞ?
「……いや、その、体が勝手に……」
 前屈みになり、今にもユウザの首筋に吸いつこうとしていたテラ・ムスカルの不埒[ふらち]な唇が、にへらと笑って弁明する。ユウザ殿の後姿があまりにも悩ましげだったから、とか、[うなじ]が美味しそうだったんでつい、とか。
「ほう……」
 聞けば聞くほど身の毛がよだつ言い草に、ユウザは冷笑を浮かべた。酌量の余地は無いようだ、と素早く剣を振り上げる。
「おわっ! 待て、待てっ!!」
 前髪を数本、パラリと切り落とされたテラは、あたふたと飛び退[しさ]った。
「冗談きついぞ、ユウザ殿!」
「どちらがだ」
 剣を鞘に収めながら、ユウザは苦笑した。男に襲われそうになった身にもなれ。
 さすが元猟師だけあって、テラもまた、サイファ同様、全く気配を感じさせなかった。いくら戯事[ざれごと]とはいえ、あの[おぞま]しい気≠ワで押し隠されていたら、今ごろ、どんな目に遭わされたことやら……。
「何を仰る」
 渋面を作ったユウザに対し、案の定、テラはにまにまと笑った。
「ユウザ殿がお相手なら、俺は一向に構わないぜ?」
 むしろ大歓迎だ、と鳶色の瞳に危うい色香を湛える。
 全く、昨日といい今日といい、どうして、この男は、こうもロクでも無い事ばかり思いつくのだろう?
「あいにくだが、そなたに可愛がられたいとは思えぬ」
 挑発に乗ること無く、素っ気なく返すと、テラはすかさず[たわ]けた。
「何なら、俺が可愛がられても――」
「断わる」
 言下に拒否して、ユウザは[さかずき][テーブル]に置いた。
「――で? 今度は、どんなお節介を焼きに?」
 窓際の壁に[もた]れかかり、目だけをテラに向ける。まさか、こんな嫌がらせの為だけに寄ってきた訳では無いのだろう? と。
「あや、やっぱり気づかれてたか」
 彼は大きく肩をすくめると、一変、笑顔の[めん]を脱ぎ捨てた。
「ちょいと、小耳に挟んだんだけどさ――」
 声を落とし、真剣な面持ちになる。昼間、妙な男どもに絡まれてたんだって?
「妙な男?」
 一瞬、胸を掠めた動揺を[おもて]には出さず、ユウザは故意に怪訝[けげん]な表情を作った。身に覚えのない話だが? と、首まで傾げて空惚[そらとぼ]ける。
 しかし、その様子を見たテラは、そういう事か、と呟いて、嘲るように唇を歪めた。
「あいつにも、その調子ではぐらかしてみせたんだろうけど、俺には通用しねぇ」
 横目にサイファを見遣り、次いで、調子っぱずれな歌声を披露している一団を顎で示す。ついさっき、アントンから聞いたばかりだ、と。
「アントン?」
 聞き覚えの無い名に、ユウザは[いぶか]しみながら繰り返した――が、テラの視線を辿って、得心した。
(御者か)
 赤ら顔で大口を開けている、その見覚えある若者に、思わず深い溜息がこぼれる。目撃者の口から漏れたのでは、下手な言い逃れも出来まい。
「……酔い醒ましに、風にでも当たろうか」
 先立って露壇[テラス]に下りる。
 人の口に戸は立てられぬもの。
 グラハムがこの場に居合わせなかった事だけでも、幸いに思うべきか。
「納得いかねぇな」
 昼の騒ぎは、男に絡まれた≠ネどという甘いものではなく、[れっき]とした暗殺未遂事件だった事、この件がグラハムに知れれば、即刻、帝都に連れ戻されるであろう事、そうならない為にも、成るべく事を内密にしておきたい事などを掻い摘んで話すと、テラは不満も露わに顔をしかめた。そういう事情なら猶の事、サイファに真実を話して、了承させれば済む事じゃないか、と。
「その通りだ」
 自覚があるだけに、耳の痛い指摘を甘受しながら、ユウザは小さく肩を縮めた。
「――だが、それでも、私は打ち明けるべきではないと思っている」
「どうして?」
 彼の答えに、テラが間髪を容れず問い返す。そんなにサイファは信用ならねぇか? と、射るような眼差しで。
「そうではい」
 静かに首を振り、ユウザは眼前で揺れる鉢巻をシュルリと[ほど]いた。
「……確かに、あの娘は思った事をそのまま顔に出すゆえ、内々[ないない]の話を聞かせるのは、少々躊躇[ためら]われる。悪気は無くとも、彼女の態度から秘密が漏れる可能性は高いのでな。そういう意味では、信用していないも同然かもしれぬ。しかし――」
 テラの顔を正面から見据え、軽く笑んでみせる。
「良くも悪くも、私はあの者の正直≠愛しているのだ」
 だから、要らぬ真実を吹きこんで、煩わせるような真似はしたくない。
 万一、事が公になった時、知っている≠フに知らない$Uりをするより、知らない≠烽フは知らない≠ニ胸を張っていられる方が、サイファにとっても良いはずだから。
「……なるほど。言われてみれば、それも一理あるな」
 微苦笑しながら頷いて、けれども、ごまかしを許さぬ強い口調でテラは続けた。
「だけど、あいつの気持ちはどうするつもりだ? このまま、うやむやにしてしまうのか?」
「まさか。こんな冷戦状態、そうそう続けていられるものか」
 全てを話す気は無いが、嘘を[]いた事は謝るつもりだ、と釈明すると、テラは溜息混じりの嘲笑を浮かべた。
「俺が言ってるのは、そんな上辺[うわべ]の事じゃない」
 小さく[かぶり]を振り、口の[]をわずかに持ち上げる。サイファの不機嫌の理由がそれだけだと思っているなら、見当違いも甚だしいぞ、と。
「……他にも、非があると?」
 我知らず、ユウザは眉をひそめた。自分が彼女に対して[やま]しく思うのは、嘘を[]いた≠ニいう一点のみで、それ以外に、何ら思い当たる節もなく……。
「非が有るとか無いとか、そういう問題じゃない」
 困惑するユウザに向かって、テラはじれったそうに吐き捨てた。
「そんなの、サイファの態度を見てれば、簡単に判る事だろう? あいつは、あんたのことが――!」
 言いさして、ギリッと歯噛みする。乾いた夜風が前髪をさらい、頬を走る傷痕[しょうこん]を月下に淡く晒け出した。
「……あいつは、あいつなりに、ユウザ殿の事を大事に思ってる。あんたの役に立ちたいと、必要とされたいと、躍起になってるんだ」
 大きく一つ息を吐き、彼は乱れた髪を無造作に撫でつけた。せめて、その想いだけでも汲んでやってくれよ、と。
「ああ」
 そうだな、と短く頷いて、ユウザは天を仰ぎ見た。雲一つない紫紺[しこん]の闇に、欠け始めの月が白く貼りついている。
『あいつは、あんたのことが――!』
 その後に続くはずだったテラの言葉を、ユウザは[]えて追及しない事にした。
 もし、それが自分の直感――あるいは、希望的観測通りだったとしたら、引っ込みがつかなくなるから。
 欲しくて欲しくて堪らないものを差し出され、それでも、手を伸ばさずにいられるほど、自分は我慢強くも、無欲でもないのだ。
 手に入れてはいけないものを、手に入れてしまう事になる。
「何だか、肌寒くなってきたな」
 沈黙に耐え兼ねたのか、テラは殊更大きな声で言い、ブルリと体を震わせた。二の腕を[さす]りながら、もう、入ろうぜ、と回れ右する。
 その後姿が、何とはなしに儚く映るのは、多分、ユウザの気の所為でも、自惚れでも無いだろう。そんな思いが、つい口に出た。
「そなたには、難儀をかけるな」
 去り際の背に詫びを入れると、テラはわずかに顔を振り向けた。苦しい胸の内など微塵も見せずに、[おど]けたように片眉を上げる。
「なに、ユウザ殿の苦行に比べれば、どうってこたぁねぇよ」
「苦行?」
 思いもよらぬ返答。素で首を[ひね]ると、彼はニタリと笑って耳打ちしてきた。
 今すぐ押し倒されたくなかったら、腕を放せ――。
「なっ……!?」
 掻き立てられた欲情を抑えるのに必死で、思わず口走った赤面ものの台詞。囁かれた途端、首筋から頬にかけて、カアッと熱が這い[のぼ]った。
 心の奥底に押し込めておいた記憶が、ぶわっと一気に浮上する。一心に[すが]りついてきたサイファのひた向きな瞳も、仰ぎ見られた時の唇の近さも、左腕に押しつけられた豊かな胸の膨らみも。
「……覗き見とは、大層なご趣味だな」
 まざまざと蘇る煩悩を懸命に振り払いながら、ユウザは低く唸った。思い出すな、忘れろ、記憶から抹消してしまえ。
「覗きだなんて、滅相もない」
 瀕死の彼の横で、テラがしゃあしゃあと笑う。俺はただ、陰ながら見守ってただけだ、と。
「そういうのを覗きと呼ぶのだ、愚か者!!」
 あちこちで交わされる乾杯、次々と運び込まれる大皿の料理、酔った勢いで歌い、踊り、[いさか]う人々――。
 ルファーリの夜は、騒々しく更けて行く。
- 2004.01.09 -
 

TREASURE

歌帖楓月 様より、このシーンをイメージした素敵なイラストを頂戴しました!
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