Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 33 話  冥王[めいおう]、その御名[みな][いただ][]
 宴の後。
 サイファは眠れぬ夜を過ごしていた。
 だが、帰郷している今、それはいつもの郷愁である筈がなく……。
「ああ、ムカツクぅーっ!!」
 未だユウザへの苛立ちが治まらず、サイファは手近にあった枕をばすばす殴り、それでも飽き足らず、ぶんぶん振り回し、挙句、遠心力に任せて天井までふっ飛ばした。
 ぼってりと鈍い音を立て、罪の無い枕が床に転がる……。
「何やってんだろ、あたし」
 ふいに虚しさが込み上げた。枕を拾い上げ、自嘲する。
 嘘を[]くのは、悪いこと。
 こんな事は子供だって知っている。
 だけど、時には嘘を[]いた方がいい、もしくは、[]かなければならない事態が存在する事を、大人である自分は心得ている。
 それでも、なるべくなら誠実でありたい、誠実であって欲しい、とサイファは思うのだ。
 何か理由があるのなら、ちゃんと説明して欲しい。
 何も分からない。何が分からないのかも、分からない。
 こんな事では、不安が募るだけだ。
 これまでも、彼の秘密主義には何度か歯痒い思いをさせられてきた。だから、これを機にはっきりさせる。
 ユウザが腹を割って話さない限り――心を開いてくれない限り、絶対に口をきいてやらない。
 しかし……。
(いつまで経っても話してくれなかったら、どうしよう?)
 枕を抱え込み、サイファは眉をひそめた。
 このままユウザを無視し続けたとして、その意図に彼が気づいてくれなければ、何の意味もない。徹底無視作戦≠フ他にも、何か良い方法を考えなければ――。
 それを思うと、居ても立ってもいられなくなった。眠りに就く事を放棄し露台に出る。
「どうしよう……?」
 中天にかかる月を見上げ、独り[]ちた時。
「何を、どうするのだ?」
 突然、暗闇から問い返されて、サイファはその場に立ちすくんだ。息が詰まる、声が出せない。
「こんな時間に、どうした?」
 隣の部屋の露台[バルコニー]。淡い月明かりの[もと]、ユウザがついと現れる。
「……ビックリさせるなよ……」
 一瞬、止まりかけた胸を押さえ、サイファは露台[バルコニー]越しにユウザと向かい合った。
「あんたこそ、何でそんなとこに居るんだよ? 眠れないのか?」
「いや、そんな事は――」
 否定しかけて、彼はクシャリと前髪を掻いた。
 躊躇[ためら]うように一拍置いてから、ぼそりと呟く。考え事をしていたら、眠れなくなった。
「……そう」
 サイファは神妙に頷いた。いつも憎らしいくらい泰然としているユウザが、今夜は、何処となく弱気に見える。
「あんたが眠れなくなるくらいだから、きっと、よっぽどの事なんだろうな。あたしで良かったら、相談に乗るぞ?」
 何、考えてたんだよ? と、努めて明るく促すと、彼の瞳が真っ直ぐにこちらを見た。
「お前の事だ」
「へ?」
 あまりに意外で、間抜けな声が出た。
(それって、もしかして……)
 いくら鈍過ぎるサイファでも、さすがに、これにはピンとくるものがあった。
 憂いを帯びた、漆黒の眉。物言いたげな、[かたち]良い唇。月光にほの映ゆる、思い詰めた眼差し……。
 一度は止まりかけた心臓が、一転、活発に拍動する。
「あ、あの……」
 サイファは恐る恐るユウザを見上げた。喉が乾いて、巧く言葉を紡げない。
 ほんの一時[いっとき]、絡んだ視線。先に[ほど]いたのは、彼の方だった。
「どうしたら――」
 長い睫をゆっくりと伏せ、表情を隠すみたいに大きく前髪を掻き揚げて……。
「どうしたら、お前の機嫌が直るか、そればかり考えあぐねていたのだが――」
 もう直っているようなのでホッとした、と、いつもの澄ました顔になる。
「ああーっ!!!」
 言われた瞬間、サイファは頭を抱えて[うずくま]った。
(あたしの馬鹿ぁっ!!)
 ユウザとは口をきかないつもりだったのに、不慮の出来事に動揺して、つい普通に喋ってしまったではないか!
「おい、どうした?」
 いきなり、へたり込んだサイファを見て、彼女の思惑など知る由もないユウザが緊迫した声を出す。
「……何でも無い」
 力なく首を振り、サイファは露台[バルコニー]の柵にだらりと縋った。
 何だか、物すごく疲れた。ユウザの意味ありげで、その実、何でも無かった態度と、妙な勘違いをしてしまった、自分自身の空回り具合に。
 そして、もう一つ。
(いくら問い質したって、また適当にはぐらかされちゃうんだろうな……)
 ユウザにはばかることなく、サイファは大きな嘆息を漏らした。
 どうせ、この溜息の意味だって、彼には伝わらないのだ。そう、悲しくなりながら。
 しかし――。
「昼間は、すまなかった」
 唐突に、ユウザが頭を下げた。
「お前を[たばか]るつもりは無かったが、私の態度が、お前に余計な疑念を抱かせてしまった事は認める」
 許して欲しい、と真摯な謝罪がなされる。
「……やっぱり、何か隠してたんだ?」
 思いが通じて嬉しい反面、サイファは少し寂しい気持ちでユウザを見つめた。あたしには言えない事なのか?
 言外に問うと、彼は静かに頷いた。
「お前は知らない方が良い事だ」
 これ以上の詮索を拒む、強い意志を覗かせて。
「そっか」
 サイファは笑みを浮かべてみせた。
 納得しよう、と思った。
 商店街で[はぐ]れた後の、空白の一時間。あの時、ユウザの身に――彼とミリアの間に何が起こったのか? 気にならないと言えば、嘘になる。
 しかし、何でもない、案ずるな、しか言わなかったユウザが、ここまで歩み寄ってくれたのだ。それだけでも、大した進歩ではないか。
 ただ――。
「でも、これだけは教えてよ」
 どうしても、確かめておかねばならない事がある。どうしても、許してはおけない嘘がある。
「逸れた後、何か大変な目に遭ったんだろう?」
 ユウザの口から何らかの釈明が聞ける事を願いつつ、断定的に尋ねると、彼は黙って首を振った。
「ミリアも?」
「ああ」
「嘘[]き」
 サイファは小さく吐き捨てた。ミリアの名前が出た時、彼の瞳がわずかに曇ったのを見逃しはしなかった。
「もう、いい」
 呟いて、背を向ける。
(やっぱり、こいつは[なん]にも解ってない)
 いつも、大事なことに限って何も言わないユウザ。それが、どれほどサイファを焦燥させ、物憂くさせるか――。
 部屋に戻ろうとして窓枠に手をかけた時、苦しい吐息が追いかけてきた。
「私の――」
 闇に冴えるユウザの低音に足を止め、ふり返る。
「私の名が、冥王、ユウザリウスからの賜り物である事を、お前も、一度くらいは耳にした事があるだろう?」
「は?」
 あまりにも突飛な話題の転換に、サイファは意表を衝かれて黙りこんだ。
「ユウザリウスは、死者の魂を導き、現世[うつしよ]で罪を犯した者に刑罰を科す隠世[かくりよ]の守護神だが――」
「ちょっと、待った!」
 独り、話を進めようとするユウザを慌てて遮る。
「あんたの名前の由来は初耳だし、興味はあるけど、何だって、今、そんな話をするんだよ?」
 怪訝[けげん]に眉を寄せると、ユウザは、まぁ、聞け、と言って、強引に話題を戻した。
「神々の系譜を辿れば、ユウザリウスは至上神ソルティマの第一子――イグラットの双子の兄に当たる高貴な男神だ。だが、いくら[たっと]き血筋でも、死≠司る冥王は忌み嫌われる。そんな不吉な神の名を、誰が、なぜ、私に授けたと思う?」
 問われた瞬間、脳裏に嫌な推理が浮かんだ。
(まさか……陛下が?)
 実の孫を十数年もの長きに渡って隷属させている女帝と、求めに応じ、忠節を尽くす皇太孫。その異常とも思える主従関係が、陛下と皇太子夫妻との軋轢に起因しているとしたら……?
(いくら何でも、それはあんまりだ)
 生まれたばかりの赤子には、何の罪もないのに。大人同士の諍いに、子供の未来を巻きこむなんて。
 サイファが小さく息を呑むと、ユウザは彼女の考えなどお見通しだと言わんばかりに、穏やかに目を細めた。
「陛下がつけて下さったと思ったのだろう?」
「え! や、違……」
 図星を指され、サイファは大慌てで首を振った。
 辛い境遇を自覚≠キることは出来ても、それを赤の他人にまで認められた≠フでは、彼も遣り切れないだろう。せめて、気づかないふり≠してあげなくては――。
「そう、確かに違う」
「そうだね。きっと、違うよ……」
 切なさで潤みそうになる瞳を瞬きで誤魔化しながら、うん、と相槌を打った時、ユウザが苦笑を漏らした。
「だから、本当に違うと申しておろうが」
 人の話はしっかり聞け、と眉根を寄せ、さらりと言う。名付けたのは私の父だ、と。
「はぁっ!?」
 サイファは素っ頓狂な声を上げた。
「あんた、お父さんとも仲が悪いのか!?」
 うっかり口を滑らせてしまってから、死ぬほど後悔する。
(あたしの馬鹿、馬鹿、馬鹿!)
 人の傷口に粗塩を揉みこむような真似をしてどうするんだ、と激しく落ちこんでいると、暗中にユウザの明朗な笑いが響いた。
「そうではない」
「……じゃあ、どういう意味?」
「父上は、ユウザリウスの負の威光≠借りて、私の身を守ろうとお考えになったのだ。冥王の加護を受けた子に手を出せば、死の制裁が待っている、とな」
 サイファと同じように柵に体重を預けながら、彼は続けた。
「私は皇太子の独り子であり、皇帝陛下にとっても唯一の直孫だ。それが何を意味するか、わかるか?」
「……いずれは、あんたが帝位を継ぐってことだろ?」
 他に何があるんだ? と顔をしかめると、ユウザは重々しく頷いた。
「確かに、現時点においては、私が正統にして最後の直系だ。もし、私が子を[]す前に命を落とせば、代々皇家に受け継がれてきた神の純血≠ヘ、完全に途絶えてしまう事になる。それこそが、奴らの狙いなのだ」
「奴らって?」
 政教一致のイグラット帝国において、皇家の滅亡は神の不在――信仰をも揺るがす一大事になり兼ねない。話の重大さと、いつになく厳しいユウザの表情に、否が応にも緊張が高まる。
「同じく神の血≠分けた者たちだ」
 サイファの疑問に、彼は冷笑で答えた。
「帝国憲法では、原則として直系の嫡子が皇位を継ぐ事になっている。しかし、原則があるという事は、当然、例外もあるという事だ。もし、何らかの理由で直系の人間が一人残らず死亡した場合、皇族の中でも特に直系に近い血筋の中から、後継者が選抜されることになっている。つまり、直系の血が不慮の事故≠ナ絶えたとしても、国家の存続自体には何ら支障は無いのだ」
「って事は……」
「私の死を心待ちにしている親族は、定めし多かろう」
 口の[]を皮肉に持ち上げ、嘲るように呟く。待ち切れない、せっかちな[やから]もいるようだが、と。
「それって、暗殺――!?」
 言いかけたサイファを、今度はユウザが制した。
「お前が私の身を案じてくれているのは、良く解っている。お前の潔癖なまでの誠実さにも、正直、憧れる。だが、これが私の生きてきた世界で、これからも、生き続けねばならない世界なのだ」
 くっきりと、[かく]された一線。お前のように、真っ直ぐではいられない。
 そう締め括った彼の瞳は、痛々しいほど冷静だった。
「……ごめん」
 サイファは自分の幼さを思い知った。
(やっぱり、あたしは馬鹿だ)
 自分に対して、涼しい顔で嘘を[]くユウザ。だけど、その心の中まで涼しいなんて、どうして思ってしまったのだろう?
 彼が感情を[おもて]に出さないのも、胸の内を明かさないのも、全て、陰謀渦巻く宮中を生き抜く為に培った処世術だったのだ。
「何も、泣くことはない」
 呆れたような、困リ果てたようなユウザの声で、サイファは、初めて自分が泣いていたのだと分かった。
「ごめん」
 己の意志を全く無視して流れる涙を、手の甲で拭う。
「――まあ、私はまだ独り身だから、政略結婚の道具として利用価値も高いらしくてな。さほど、危険な目には遭っていないのだ」
 衝撃を受けたサイファを気遣ってくれたのか、ユウザが冗談めかして笑う。ユウザリウスの加護を受けているというのも、あながち嘘ではないらしい、と。
 そんな彼を見て、サイファは名状しがたい強烈な衝動に囚われた。
 ユウザの力になりたい。彼を――守ってあげたい。
「……あのさ」
 制御できない動悸を持て余しながら、ユウザを見上げる。
「何か、あたしに出来る事はない?」
 小首を傾げて問いかけると、彼はわずかに目を[みは]った。それから、大輪の花が綻ぶみたいに、緩やかに破顔する。
「変わるな」
 何者にも染まらず、今のお前≠フままでいろ。この先、何があっても――。
「……わかった」
 サイファは、努力するよ、と頷いた。
 自分が変わらないでいることが、どうしてユウザの為になるのか? 今一、良くわからない。でも、彼が望むのだから、そうあろうと思った。それで、少しでも彼の役に立てるのなら。
「さて、もう休むとするか」
 お前も、さっさと寝ろ。明日は早い、といつもの事務的な口調に戻って、ユウザはくると背を向けた。背筋がしゃんと伸びた、近寄り[がた]い後姿。
 臣下に愛され、民に愛され。されど、自分に最も近しい一族に疎まれた、神の[いと][]
 サイファは白々[しらじら]と照る月を仰ぎ、そっと祈りを捧げた。
(冥王、ユウザリウス――)
 その御名[みな]を戴く子に、限りなき祝福を。
- 2004.04.10 -
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