Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 34 話  [かげ]
「ユウザ様!」
 大声で呼ばれ、ユウザは唇に人差し指を当てて相手を制した。
「静かに」
 自分の背で寝息を立てているパティを起こさぬよう、声をひそめる。
「あら、やだ! パティ様ったら、まだお目覚めにならないんですの?」
 幾分声を抑えて、ミリアは非難めいた口調になった。もうすぐ出発の時間ですのに。
 翌、早朝。
 朝食も是非ご一緒に! とのハナイの申し出を丁重に辞退し、ユウザ達一行は村へ帰る仕度をしていた。日が高くなってからの移動では人目につき過ぎるため、昨日のような混乱を起こさぬようにとの配慮だった。
 そして今、ヴァンテーリ夫妻を始め、屋敷中の人間が見送りに出てきてくれている中、最後の大荷物――皇家の使者様を馬車にお乗せするところだった。
「まったく、ユウザ様のお背中で図々しく眠りこけてるなんて、最悪ですわね」
 栗色の眉を器用に片方だけ吊り上げて、ミリアが毒づく。これだから、自覚のないガキは嫌なんですわ、と。
「確かに、身の程を弁えない無茶な深酒には困ったものだが、苦しむのはパティ自身だからな。今度こそ、懲りるだろう。……それより、お前は大丈夫か?」
 一夜明け、普段通りに見えるミリアに、ユウザはさりげなく探りを入れた。彼女の立ち直りの早さは十二分にわかっていたが、昨日のように目に見えて落ちこむ事も珍しく、少々気懸かりだったのだ。
 しかし、それは全くの杞憂だったようで。
「もちろんですわ! [わたくし]、こう見えましても、お酒は強いんですのよ」
 無い胸を張り、ミリアはからりと笑った。ヤケ酒の十杯や二十杯、どうって事ございませんわ、と。
「そうか」
 それは頼もしいな、と微笑して、ユウザは後部座席にパティを横たえた。ヤケ酒≠ニ、きちんと認識できているあたりが、彼女の言うところの大人の自覚≠ニいうものなのかもしれない。
 ミリアも大分[だいぶん]成長したな、などと微笑ましく思いながら、ユウザは、ころんと丸まったパティの体にそっと膝掛けをかけた。そうして、ふと思いつく。
「――ああ、そうだ。ミリア、すまないが、道中、パティに膝を貸してやってくれないか?」
 馬車が揺れて転がり落ちるといけないから、と言って、ミリアをふり返ると、彼女は露骨に顔をしかめていた。
「……膝を貸すという事は、つまり、パティ様に膝枕して差し上げるという意味ですよね?」
「ああ。何なら、[][かか]えてくれても良いのだが……」
「いいえ!」
 ミリアは勢いよく[かぶり]を振った。膝だけで済むなら、それに越した事はありませんわ、と引き[]るような冷笑になる。
「……そう、か?」
 一瞬、彼女の瞳から殺伐とした悪意を感じ、微かな不安が胸を[]ぎった。
 そこへ、銀髪を揺らしながら、サイファが小走りにやって来る。
「もう、出発するのか?」
 わだかまりが解けて、すっきりした笑みを浮かべた彼女は、仏頂面のミリアと懸念を隠し切れずにいたユウザを見るや、眉をひそめた。
「何かあったのか?」
「別に、大した事じゃないわ」
 大人の自覚≠ヘ何処へやら、ミリアが刺々しい口調で答える。パティ様が転がらないよう、膝に乗っけておくようにと仰せつかっただけよ、と[]も嫌そうに。
「何だ、そんな事か」
 サイファは気が抜けたように言うと、にっこり笑った。
「だったら、あたしが抱っこしてってやるよ」
 弟の世話で慣れてるから任せといて! と、やる気満々、腕まくりする。
「えっ、いいの?」
 ミリアの瞳が期待で輝き、それから、窺うようにこちらを見た。
「……お前が良いのなら」
 ユウザは小さく頷いた。
 ミリアに頼んだ事を、サイファには頼めないと言えば、きっと、またいじけるだろう。それに、彼女の気持ちを思えば――。
「ありがとう、サイファ!」
 ミリアが素直に礼を言い、サイファは張り切って馬車に乗り込んだ。ごそごそと体勢を整えてから、母親のような優しさでパティをきゅっと抱き締める。
 [いま]だ夢の中のパティは小さく寝返りを打ち、心地良さげに彼女の胸に顔を[うず]めた。
 そんな二人から、ユウザが無言で視線を逸らした時、くつくつと忍び笑いが聞こえた。
「何が可笑しい?」
 声の[ぬし]に冷眼を向けると、忍び笑いは大っぴらな哄笑に変わった。
「いやいや、ユウザ殿もなかなか可愛い御仁[ごじん]だったんだなぁーと思ってね」
 腹を抱えて蹲ったテラが、上目遣いにユウザを見る。そんな顔するくらいなら、駄目だって言やあいいのに。
「また、得意の覗きか」
 うんざり眉をひそめると、彼はくすりと笑った。
「そう、カッカしなさんな」
 よっこらせ、と立ち上がり、ユウザの肩に腕を回す。
「サイファの奴も、健気じゃねぇか。あれで、あんたの役に立ってるつもりなんだから」
 左目を愛しげに細め、低く笑った。男心が全く解かってないあたりが、あいつらしいけどな。
「さぁな」
 今の心境を寸分[たが]わず代弁されて、ユウザは内心苦笑した。
 自分の為に懸命になってくれるサイファがいじらしく、その心意気を尊重してやりたいと思うのに、いざ実行すれば、可愛い弟分にまで詰まらぬ嫉妬を覚える始末。
 近頃、自分の度量がどんどん狭くなっていく気がする。いや、それ以前に、感情そのものが巧く制御できなくなっている。取り分け、サイファに関する事のみに。
(何とかせねば……な)
 ユウザは軽く唇を噛んだ。
 昨夜も、流れに任せて、彼女への想いを吐露しそうになった自分。途中で思い留まり、何とかごまかしたが、最後の最後でボロが出た。
『何か、あたしに出来る事はない?』
 目元を涙で紅く染め、そう申し出てくれたサイファ。込み上げる愛おしさに、不覚にも気が弛んだ。
(変わるな、などと、随分おこがましい頼みをしたものだ)
 己の馬鹿さ加減に、自嘲の笑みがこぼれる。いつまでも、自分が恋したままの女であって欲しいなんて、身勝手な妄想も甚だしい。
「――ユウザ様、そろそろ出発いたしましょう」
 物思いしていたユウザは、グラハムの声で引き戻された。
「ああ」
 今一度、ご当主にご挨拶してこよう、と答えると、彼は黙って会釈して、伴走の仕度に入った。
 体調不良を訴えていたグラハムだったが、今朝一番、ユウザの元にやって来て、ご迷惑をおかけしました、と一言謝った。それから後は、いつも通りの厳つい顔でしゃきしゃき動いているので、どうやら全快しているらしかった。
「いよいよか」
 傍らで聞いていたテラが、寂しくなるな、と淡く笑む。
「そなたには、色々と世話になった」
 ありがとう、と手を差し出すと、彼は力強く握り返してきた。痛いほど、きつく。
「サイファを幸せにしてやってくれ」
 あんたの手で、必ず――。
 テラが真っ直ぐにユウザを見据える。初めて会った時の、あの挑むような眼差しで。
「善処しよう」
 その視線を真っ向から受け止め、ユウザは深く頷いた。
 恐らく、彼が思い描いているであろう幸せの形≠ニ、自分が請け負った幸せの意味≠ェ、多分に異なる事を知りながら……。
「どうぞ、お気をつけて」
 使者役のパティに代わり、謝辞を述べると、ハナイは大らかに笑った。使者様に宜しくお伝え下さいませ、と。
「承知した」
 微苦笑しながら頷いて、それでは、と[いとま]を告げかけた時。
「――イレイズ様」
 ハナイは辺りを気にするように声をひそめ、そっと耳打ちしてきた。
「昨日、貴方様を襲った男たちは、町の上宿に滞在していた旅の者でした」
 何か、御心当たりはございませんか? と、問われ、ユウザは軽く笑んでみせた。
「いや、全く」
 可愛い娘を連れていたので、大方、下らぬ妬みを買ったのだろう、と戯言[ざれごと]でかわす。
 わざわざ調べてくれたハナイの気配りはありがたく、もっと詳しく話を聞きたいところだったが、これ以上、深入りさせる訳にもいかなかった。皇家を神と崇める庶民に、一族の醜聞を晒す事は許されない。
 しかし、然様[さよう]でございますか、と柔和に相槌を打ちながら、彼は問わず語りに続けた。
「どうも、一昨昨日[さきおとつい]から宿泊していたらしいのですが、観光客にしては様子が変だったと、宿屋の親爺が首を[ひね]っておりましてね。何でも、真夜中に人が訪ねてきたり、異国の言葉で口論していたり、とかく不審な客だったそうでございます。まあ、金離れが良くて、話し振りもきちんとしていたようなので、さほど卑しい身の上ではなかったのかもしれませんが」
 二度と拘わり合うことの無いよう、切にお祈り申し上げます、と強い口調で締め括る。まるで、何もかも心得ていると言わんばかりに。
(もしや――)
 ハナイは、自分の正体に勘づいているのではなかろうか? そう感じた矢先、彼は片目を瞑って囁いた。
「何はともあれ、御体、ご自愛下さいませ」
 貴方様の――イレイズ一世の御世[みよ]を待ち望む者たちの為にも、と。
(……軽率が過ぎたようだな)
 両の目をつと細め、ユウザは自分の未熟を省みた。
 現皇太子妃の実家であるという事よりも、宮人の旧家として名高い、イレイズ家。身分を偽るため、あえて本名を名乗ったのだが、少々、ハナイを見くびっていたかもしれない。
 いくら有識者といえど、所詮は片田舎の小商人[こしょうにん]。遠く離れた都の現状、まして、皇家の内情など知る筈がない、と。
 ユウザは目を[すが]め、辺りを見遣った。見送りの人々は、皆、サイファの乗った馬車を取り囲み、別れを惜しんでいる。
 ユウザは手早く鉢巻を剥ぐと、ハナイの正面で素顔を曝け出した。
「ご忠告に感謝する」
 無意識の非礼を詫び、また、心からの謝意を伝えるために。
「ああ、やはり……」
 途端、感極まったように言葉を詰まらせたハナイに、肯定代わりの囁きを返す。
【この話は、私と其方[そなた]だけの秘密だ】
 歌声のように響く、神聖語の抑揚。
 思い上がりと知りながら、外した布をハナイに下賜し、ユウザは素早く御者台に[のぼ]った。
「出立!」
 短く宣して、天馬の背中に鞭を[ふる]う。高い嘶きと共に、馬車は黎明の空へと飛翔した。
「また、帰ってこいよ!」
「お元気で!!」
 たちまち遠退く歓声、迫る朝陽――。
 ルファーリの街並みが、[おぼろ]な影になる。
- 2004.05.28 -
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