Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 36 話  [かがや]ける[きみ]真昼[まひる][つき]
「いやっ、まだ駄目ぇっ!」
 喘ぐサイファの白い喉が――背中が、大きく反り返った。何かを求めるように伸ばされた右手が、儚く宙を掴み……。
「あ痛っ!!」
 どたぁっ、と派手な音を立て、豪快な尻餅を着く。そして、もう何度目かわからない、この罵声。
「こんのバカ馬ーっ!!」
 叫ぶやいなや、サイファは素早く立ち上がり、再び、バカ馬こと、スゥーラの背に飛び乗った。途端、狂ったように跳ね回り、背中の異物を振り落とさんと、翼を広げて暴れる天馬……。
 いつ果てるともなく続く、一人と一頭の激しい攻防を傍観しながら、ユウザは考える。根性がある≠ニいう事と、諦めが悪い≠ニいう事は、実は、同義なのではなかろうか? と。
 彼女たちの死闘が始まってから、既に一時間が経とうとしていた。姉と一緒に′ラるはずが、すっかり忘れ去られてしまった可哀想なラヴィは、サイファにくっ付いてきたルドを相手に大人しく遊んでいる。忠義に厚い利口な鷲は、子守役をも務めるらしい。
(それにしても……)
 ユウザはふと笑みをもらした。今日のサイファは、本当に良い顔をしていると思う。
 滑らかな手足を土埃で汚し、額に玉の汗を浮かべた彼女は、城で軟禁されていた頃とは別人のように、眩い生気に溢れていた。青い瞳が濡れたように煌き、白い頬には赤味が差している。
 里帰りをさせた甲斐があった、と心から思えた――が。
「サイファ、もう少し手綱を短く持て」
 繰り返される惨状を見兼ねて、ユウザは口を挟んだ。
 サイファの気の済むまで、好きにさせてやるつもりではいたが、彼女のやり方は、あまりにがむしゃら過ぎた。このままでは、全身、痣だらけになる。
「え、何? うわぁ!」
 一瞬、こちらに気を取られたサイファは、またしても振り落とされた。地面にぺたりと座り込んだまま、恨みがましく見上げてくる。
「もうちょっとだったのに!」
 あんたが邪魔するから……と、ぶつぶつ不平をこぼされ、ユウザは冷笑で返した。
「人の所為にするな。あれの何処がもうちょっと≠セ」
 少し代われ、と彼女の傍からスゥーラを遠ざけ、あっさりとその背に跨る。
「ああっ! あんたばっかり、どうして!?」
 サイファが非難とも羨望ともつかない声を上げた。
「コツさえ掴めば平気だと言ったろう? ――ほら、私の前に座れ」
 ユウザは馬上からサイファに手を差し伸べた。扱い方を教えてやる、と。
「え、でも……」
 大きく目を[みは]った後、彼女は視線を落とした。上着の裾を両手で摘まみ、もじもじと意味もなく弄ぶ。
「自分一人の力で手懐けたいのは解るが、今は我慢しろ。このままでは、何も出来ずに日が暮れるぞ?」
 ラヴィと一緒に乗りたいのであろう? と、促すと、サイファは物言いたげに口を開き、しかし、何も言わぬまま、ユウザの手を取った。それから、酷くぎこちない動作でスゥーラの背中によじ登る。
 だが、普通に跨れば良いものを、なぜか変に両足を揃えて座り、中途半端に動けなくなってしまった。
「何をやっている」
 小さく舌打ちし、ユウザは彼女の腰を両手で抱え上げた。その瞬間。
「わひゃぁっ!?」
 奇声を上げて、サイファが大きく身を捩る。
「動くな」
 落とすぞ、と脅しをかけ、ユウザは、大人しくなったサイファを抱き込む形で座り直させた。手にしていた手綱を彼女に持たせ、自分の手を軽く添える。
「良いか、天馬は乗る相手を見る。舐められたら負けだ。手綱を短めに持って、頭を振り上げさせないようにしろ。特にスゥーラの場合、跨ると同時に棹立ちになろうとするから、両足で胴を押さえるようにしてだな――おい、聞いているのか?」
 自分の腕の中で、石のように動かないサイファに、ユウザは怪訝[けげん]に問いかけた。何処か、様子がおかしい。
「き、聞いてるよ」
 案の定、上擦った声で答え、彼女がわずかに――逃げるように前に移動した。その拍子に髪が流れ落ち、匂やかに色づいた首筋が露わになる……。
 はたと理由を悟り、思わず苦笑した。
「そんなに意識するな。こちらまで、妙な気分になる」
「えっ、妙なって!?」
 ギクリと身をすくませるサイファの反応が初々しくて、つい余計な悪戯をしたくなる。
「お前が考えている事と、同じ事だ」
 わざと耳元に囁いて、指先で[うなじ]を一撫ですると、彼女の躰は見事なまでに硬直した。顔を見られないのが残念だが、きっと、気の毒なほど真っ赤になっているに違いない。
(少々、いじめ過ぎたか)
 微苦笑して、ユウザは空気を壊すように、サイファの後ろ頭を小突いた。
「さぁ、お遊びはここまでだ。手綱を握れ」
「お遊びだって!?」
 抗議するようにふり向いた彼女の頬は、やはり上気している。
「今ので緊張が[]けただろう?」
 白々しく返すと、サイファは大いに唇を尖らせ、ふいっと、そっぽを向いた。
「あんたなんか、大っ嫌いだ」
「それは心外だな」
 さらりと流し、ユウザはスゥーラの脇腹を軽く蹴った。そのまま助走をつけ、中空へ軽やかに翔け[のぼ]る。
 天馬の前脚が地を蹴るように大気を踏みしめ、畳んでいた翼をバサリと伸ばすと、村長の屋敷が一瞬にして小さくなった。
「わあ! 凄い!」
 今し方の不機嫌を瞬く間に吹き飛ばし、サイファは感嘆の声を上げた。羽ばたきが起こす風圧で、白銀の髪がキラキラと靡く。
「サイファ、手綱を下向きに引いて、前脚の付け根あたりを蹴ってみろ」
「前脚? ……こう?」
 ユウザの言葉に従い、サイファがもぞもぞと脚を動かすと、どうしたことか、スゥーラが急降下を始めた。
「おい、何をした!?」
 見る見る高度を下げる中、サイファの手から手綱を奪い、急いで馬頭を起こした。地面に突っ込む前に体勢を立て直す。
「え、だって! あんたが、蹴れって言うから!」
「……それで、思い切り蹴り飛ばした、と?」
「いや、そんな思いっ切りって程じゃないけど……ちょっぴり強めに蹴っちゃった……かな?」
「馬鹿か、お前は」
 加減くらい解るだろう? と、うんざり溜息を[]き、ユウザは、もう一度、サイファに手綱を持たせた。
「このまま、村の上空を一回りしてみろ」
「あたしが、やるのか?」
 不安そうに眉を寄せる彼女に、[]えて挑戦的な物言いをする。
「一人で乗りこなせるようになるのでは、なかったのか?」
 それとも大嫌いな私の腕に[すが]るか? と、微笑んでみせながら。
 負けん気の強いサイファは、きりりと眉を持ち上げた。
「まさか」
 出し抜けにユウザの腕を掴み、大胆にも自らの腰に巻きつけた。そうして、にこりと唇だけで笑む。
 落ちないように、しっかり掴まってな。
 東天寄りだった太陽が、頂きに上り詰める頃。
「やったぞ、ラヴィ!」
 スゥーラをよたよたと危なっかしく着地させたサイファは、身軽に飛び下り、弟の元へ駆けて行った。
 その姿を横目で追いながら、ユウザは緩慢な動作でスゥーラから下りた。首を巡らせて鼻面を摺り寄せてくる彼女を、良し良し、と撫でてやりつつ、心底疲れた溜息を[]く。
「随分、梃摺[てこず]られたようですね」
「寿命が縮まる程度にはな」
 庭先で、見張りという名の静観を決め込んでいたグラハムに、ユウザは皮肉めいた軽口で応じた。
 正直な話、死ぬかと思った。
 それは、サイファと体を密着させていたから――などという、甘ったるい理由では無い。正真正銘、文字通り、生命の危機を感じる恐怖だった。
 サイファは己の腕が未熟なくせに、やたらと速度を出したがった。おまけに、急発進、急停止はお手のもので、何度、宙に放り出されそうになったか知れない。彼女の死を恐れない無謀な性格が、ここでも如何[いかん]なく発揮されたと言える。
「しかし、まぁ、銀の娘も中々やりますな」
 グラハムが独り言のように呟いた。あのスゥーラを相手に大したものです、と彼にしては珍しく、心から感じ入った声で。
 それだけでも意外だったのに。
「如何です、殿下? せっかくの日和ですし、あの娘を連れて、遠乗りでもなさっては?」
 森を上空から散策する程度なら、さしたる危険もないでしょう、とユウザを見上げる。
「……グラハムよ」
 質実剛健な壮年の護衛を、ユウザは、まじまじと見つめ返した。体調不良がぶり返したか?
「いいえ、至って健康体です」
 即答した口調は、グラハムの普段のそれと何ら変わりない。
「それでは、何を目論んでいる?」
 お前がそんな洒落た提案をするなんて――と口には出さず、不審がるユウザに、彼はいつもの無愛想で答えた。
「ご無礼は承知で申し上げますが、殿下が陛下の I 種におなり遊ばしてからというもの、ご自身の為に費やされた時間は無≠ノ等しいでしょう」
 明日の朝には否でも帰路に着かねばならない。今日を逸すれば、もう二度と、こんな機会は巡ってこないだろう。
 そんな縁起でもない――しかし、[あた]らずといえども遠からずな推測を、淡々とした口調で展開する。
「確かに、そなたの言う通りではあるが……」
 ユウザは肩をすくめて微笑した。遠慮しておこう、と。
 自分の愉しみの為に、病み上がりの人間を――本人が否定しようとも、連れ回す気には到底なれない。それに、彼には悪いが護衛付きの自由≠ネんて、所詮、自由の内に入りはしないのだ。
 グラハムは、然様[さよう]でございますか、と頷くと、表情を変えずに続けた。
[わたくし]、何やら、急に目眩を覚えましたので、恐れ入りますが、しばらく療養させて頂きます」
 不意な外出の際には、くれぐれも、ご自衛なされますように、と言い残し、しっかりした¢ォ取りで屋敷に入って行く……。
 ユウザは一瞬呆気に取られ、それから、低く笑った。
 ヤトン邸の勝手口から、昼食の仕度を始めた気配がする。
 不意な外出≠ノ備え、弁当の一つも[こしら]えてもらおうか?
 天馬で遠出してみないか? というユウザの誘いを、サイファは諸手を挙げて歓迎した。樹海の奥地、徒歩で行くには遠過ぎる場所に、地図にも載っていない美しい滝があるのだという。
 しかし、詳しく話を聞く内に、段々、雲行きが怪しくなってきた……。
「まだ、ラヴィが生まれる前、一度だけ、母さんと父さんと、三人で行ったことがあるんだ。水しぶきが霧みたいに立ち込めててね、すっごく綺麗だったな……」
 サイファは思い出を手繰るように目を細め、懐かしむというよりは、ほとんど苦しげに笑った。あの頃は良かった≠ニいう幸福な記憶が、彼女の瞳を曇らせる。
「それは良いな」
 ユウザは努めて明るく笑ってみせた。
 サイファの腰の辺りに、ぴったりと張りついているラヴィの頭を撫ぜながら、彼女の悲しみになど、まるで気づかぬ素振りで言う。
「今度は、ラヴィとも思い出を共有できる」
 そなたも楽しみだろう? と、ラヴィに振ると、善良で無垢な少年は、ユウザが期待した通りの愛らしい笑みを浮かべてくれた。
「うん! 僕も、お母さんが見たのと[おんな]じ滝が見られるんでしょ?」
 嬉しいな、と屈託なくサイファを見上げて。
 その様子を、ユウザは無言で見つめた。
 最愛の弟を出し≠ノして、無理にも発想を変えさせる事が、過去を凌げるほどの慰みになるとは思わない。しかし、心の暗がりに落ち込みそうな彼女を、何とかして掬い上げてやりたかった。
 果たして、その願いは通じたようで。
「……ん」
 そうだね、と気を取り直すように頷いて、サイファは小さな弟と目線を合わせた。
「滝に着いたら、水遊びもしような」
 きっと楽しいぞ、と華やかに笑う。まるで、自分自身に暗示をかけるかのように。
「それじゃあ、行こうか?」
 笑顔のまま、こちらに向き直った彼女に、ユウザは静かに微笑み返した。
 今すぐにも、その頼りなげな心ごと抱きしめてやりたい――否、抱きしめたいと渇望する、[おの]が心の浅ましさよ。
- 2004.08.20 -
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