Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 37 話  合鍵[あいかぎ]
「はぁ〜、綺麗!」
 降り注ぐ木洩[こも]れ日の[もと]燦然[さんぜん]と輝く村長夫人のお手製弁当を前に、サイファはうっとりと溜息を漏らした。
 こんがりした狐色が食欲をそそる、海老の香草焼き。恐らく昨夜から仕込んでいたと思われる、牛肉の葡萄酒煮込み。緑と橙色の対比が目にも美味しい、ほうれん草とにんじんの和え物。色取りも盛りつけも完璧で、崩してしまうのがもったいない出来映えである。
 さすが村一番の料理上手! と、しみじみ感嘆していると。
「……お姉ちゃん、まだ食べちゃ駄目?」
「好い加減、目の毒だぞ」
 お預けをくらったラヴィとユウザが、揃ってこぼした。
「あ、ごめん」
 つい夢中になっちゃって、と言い訳しながら、サイファは水筒のお茶をコポコポと木椀に注いだ。
「さあ、食べよう!」
 村を発ったのが正午過ぎで、それから更に一時間。天馬の休憩を兼ねて昼食を取ろう、と提案したのは、サイファ自身だった。滝に着いてからの方が良いのでは? というユウザの意見を、半ば強引に無視する形で。
 せっかくのご馳走も、思い出の詰まり過ぎたあの場所では、すんなり喉を通るとは思えなかったから。
 自分でも、馬鹿なことをしていると思う。あの滝に行くのが、こんなにも辛く感じるのなら、今からだって、行き先を変えればいい。
 だけど、ユウザが遠出しようと言ってくれた時、真っ先に浮かんだのはあの場所で、こうして、ぐだぐだ葛藤している今も、やっぱり、そこ以外、考えられない。
 行きたくないけど、行きたい。行きたいけど、行きたくない。
 十年振りに向かう思い出の地は、サイファにとって、思い出≠ニ言い切ってしまえるほど、遠い存在では無かった。
 今日、あの場所に立った時、自分は平静でいられるだろうか? あの日の自分と同い年の弟に、同じ分だけの幸せな思い出≠作ってあげることが出来るだろうか?
 にんじんを肉刺[フォーク]で突き刺しながら、サイファは決意を固める。
(ラヴィの前では、絶対に泣かないようにしなくちゃ)
 ユウザの言うように、十年前の母との記憶に、ラヴィとの楽しい思い出を上書き出来れば、きっと気分も変わるだろう。
 里帰りを締め[くく]る、最高の思い出。その為にも、是が非でも頑張らなくてはならない。
 咀嚼[そしゃく]したにんじんと一緒に溜息を飲み込み、サイファは隣に座るラヴィをちらりと見やった。そして、思いがけなく目を三角にする。
「こら、ラヴィ! 好きな物だけ先に食べちゃダメって、いつも言ってるだろ?」
 皿の隅にゴッソリ残された、野菜の山。一[さじ]すくって、弟の口元へ運ぶ。
「ほら、口開けて」
「ええー、お野菜ばっかり、そんなにイッパイ食べられないよぉ」
 眉をハの字にして、ラヴィが抵抗する。自分の口を両手で塞いだりして。
「じゃあ、こうしよう。この野菜を頑張って食べたら、お姉ちゃんの分の海老も、ラヴィにあげる。これで口直しすれば平気だろ?」
 サイファは弟の大好物を目の前にちらつかせ、にこりと笑った。
 ラヴィの偏食は、長年、母親代わりを務めてきた彼女にとって、克服させなければならない重要課題の一つだった。
 いつも、好きな物だけ食べていられる状況にあれば良い。しかし、飢饉や不猟で食べられる物が限られてしまった時、好き嫌いが多ければ、それだけ生き延びる確率が落ちてしまう。
 不味くても嫌いでも、自分から口に入れることさえ出来ればいい。後は丸呑みでも何でも、腹に収めた[もん]勝ちだ。
「ほら、どうする?」
 サイファは、催眠術師よろしく、ラヴィの眼前で海老を左右に揺らした。
「早く決めないと、お姉ちゃん、食べちゃうぞ?」
 開いた自分の口に、わざとらしく海老を近づけてみせると、ラヴィは物欲しそうな目をして叫んだ。
「僕、お野菜、食べる!」
 皿に顔を近づけ、犬食いみたいに一息に掻っ込む。むぐむぐと口を動かし、喉を鳴らして嚥下[えんか]すると、目には薄っすら涙がにじんだ。
「良く頑張ったね、ラヴィ」
 弟の頭を撫で撫でしながら、サイファは約束通り、彼の皿に海老を置いた。それを嬉々として頬張るラヴィを大満足で眺めていたら、向かいから、ユウザの押し殺したような笑いが聞こえた。
「何だよ?」
 眉を寄せて尋ねると、彼は目を細めた。
「いや、何、宮廷一の問題児も、自分の弟に対しては一角[ひとかど]の教育者になるのだなと思って」
 そう言って、なお笑う。やはり、ラヴィも城に引き取るべきかな、と[]可笑[おか]しげに。
 サイファはムッとして、口を引き垂れた。
「そんな事しなくったって、もう、あんたには迷惑かけないよ」
 昨日の夜、ユウザの役に立つ人間になろうと心に誓ったばかりなのだ。それなのに、やる気をなくすような事を言わないで欲しい。
「……ああ、誰かに似ていると思ったら」
 膨れっ面になったサイファを見て、ユウザはくすりと笑みをこぼした。今日のお前は、まるで私の母にそっくりだ、と。
「似てるって、顔が?」
 サイファは、つり上げていた眉を、あっさり下ろした。
 ユウザが自分から進んで――それも愉しそうに家族の話題を持ち出すなんて初めての事で、わくわくしながら返事を待つ。
「いいや、中身がだ。母は躾には大変厳しい人でな。食わず嫌いなどしようものなら、食べる前に諦めるとは何事か、と酷く叱られたものだ」
 怒られた割に、ユウザはにこやかに語る。
 今、自分に強靭な胃袋が備わっているのは母の教育の賜物だ。ちょっとやそっとのゲテモノにも屈することは無い、と妙なところで誇らしげに。
「ゲテモノって、あんた……」
 一瞬、ゲジゲジや蛙をも優雅に食する彼の姿を想像してしまい、サイファはぶるぶると身を震わせた。いくら健啖家[けんたんか]であっても、如何物食[いかものぐ]いにまで走るのは勘弁して欲しい。
「今の話は冗談などでは無いぞ」
 露骨に顔を[しか]めた彼女に対して、ユウザが真顔で返す。
「昔、陛下が珍味に凝っていらした時期があってな……」
 紫亀[むらさきがめ]≠ニいう、マルジュナ産の亀の肉が極めて美味だという噂を聞き、ハシリスが早速、取り寄せた。
 しかし、その名の通り、鮮やかな紫色をした亀は、肉の色までドギツイ青紫で、見るからに食欲が減退する代物だった。火を通しても、その色が[]せることはなく、皿に盛られて出された料理は、この世の物とは思えない異彩を放っていた。
 誰も手を伸ばすことが出来なかったその物体に、最初に小刀[ナイフ]を入れたのはユウザで、完全に食べ切ったのも彼だけだったという。
「味は美味かったが、如何[いかん]せん見た目がな。まあ、話の種にと思って、両親の所へ持って行ってみたのだが――」
 そこで、彼は思い出し笑いした。さすが母上。顔色一つ変えず、全て召し上がった、と。
「……なんか、[すご]そうな人だね」
 未だ見ぬ皇太子妃を思い描き、サイファはごくんと唾を飲み込んだ。
 そんな妙ちきりんな食い物を親に持って行くユウザもユウザだが、彼をそんな風に育て上げた母親も、かなり奇矯[ききょう][ひと]に思える。
「でも、一回、会ってみたいな。これの御礼も、まだ言ってないし」
 サイファは自分の右手を見やった。その中指には、ユウザがセシリアから預かってきた水華石の指輪が輝いている。
 相変わらず、身代わり石にはしていなかったけれど、いつも大切に身につけていた。帝都で暮らすようになって初めて貰った、真心のこもった¢。物だったから。
「そういえば……」
 彼女の言葉を受けて、ユウザが思い出したように呟いた。
「旅から戻ったら、お前を連れて遊びに来るよう言われていた」
「本当!?」
 サイファが目を輝かせると、ユウザは、ああ、と頷いた。
「お前が望むなら、連れて行っても――」
「行く!」
 彼が言い終えぬ内に、サイファは即答した。
 指輪の御礼はもちろん、純粋に会ってみたかった。ユウザ・イレイズのお母さん≠ノ。
「では、帰ったら、すぐ訪ねるとしよう」
 木椀のお茶を飲み干し、ユウザはにっこりした。美しい滝を見たという、良い土産話を持ってな。
「うん」
 さり気なく自分を後押ししてくれる彼に、サイファは心から頷き返した。
 母と過ごした幸福な記憶≠消してしまいたい訳ではない。
 だから、閉ざし続けた心の扉を、一つだけ開けに行こうと思う。
 小さな愛しい弟と、自分に力を貸してくれる教育係。二つの頼もしい合鍵≠ニ一緒に。
「そろそろ、出発しようか」
 サイファは膝にかけていた布巾を畳み、勢い良く立ち上がった。
 ユウザの前に置いた弁当箱が、すっかり空になったことだし。
 苔むした河原に天馬を着陸させ、サイファは静かに降り立った。
 アスラン樹海の深部に、それは在った。
 白い垂れ幕が幾重にも折り重なったように見える飛瀑[ひばく]。その雄麗な姿を遠くに仰ぎ、思わず目を閉じる。
 滔々[とうとう]と流れ落ちる水、音を立てて弾ける飛沫[ひまつ]、霧のように湿った濃密な空気―― 十年前と、何一つ変わらぬ[たたず]まい。
 瞼に浮かぶは、今なお鮮やかな過去の面影。
『滝壷は深いから、絶対に近づいちゃ駄目よ』
 優しくたしなめる声、澄み切った空色の瞳。
 あの日、冷たい川水から抱き上げてくれた温かな腕は、もう無い……。
 改めて、思い知らされた時。
「ほら、もっと近くまで行くぞ」
 あたかも、見すかされたように手を差し出され、サイファは胸を詰まらせた。
 失ってしまった腕とはあまりに異なる、健やかで屈強な剣士のそれ。しかし、重ねた掌から伝わる確かな温もりは、遠い記憶と同じように優しく、それ以上に鮮烈だった。
「ありがとう」
 そっと目を伏せ、囁くように礼を言うと、ユウザは黙って歩き出した。彼の長い指が、言葉を[つむ]ぐより雄弁に、柔らかく絡んでくる。
 その[いた]わりに満ちた感触に、サイファは瞳を潤ませた。
 ユウザが、今、この瞬間、自分の隣に居てくれて良かった。
 本当に、良かった。
 彼と手を繋いだまま、滝のすぐ傍まで行き着くと、細かな水しぶきが全身を薄く覆った。ひんやりと清浄な空気が、喉に染み[]る。
(母さん、見てくれてる?)
 サイファは心の中で呼びかけた。
 母さんの居ないこの景色は、それでも、ちゃんと綺麗に見えるよ。
- 2004.10.16 -
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