Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 38 話  冷水[れいすい][まと]
 こんなにも和やかな時間を過ごすのは、いつ以来だろう?
 河原に点在する岩の一つに腰を下ろし、ユウザはゆったりと森林浴を楽しんでいた。
 絶え間なく流れる川音、深緑に潜む鳥たちの軽やかな[さえず]り。肌を撫ぜる湿り[]を帯びた空気も、汗ばむほどに晴れやかな今日は、かえって心地好く感じられた。このまま、一眠りしてしまいたい衝動に駆られる。
 一方、こんなに穏やかな陽気でも、狩人の血は騒ぐものらしい。川辺では、靴を脱ぎ捨てたサイファとラヴィが、ザバザバと水しぶきを上げ、逃げ惑う小魚を追い回している。
「ラヴィ、そっち行ったぞ!」
「えいっ!」
 膝まで水に浸かったラヴィが魚を掬うのに使っているのは、昼食の席で茶を飲んだ[うるし]塗りの椀≠セった。他に道具がなかったにせよ、村長夫人が見たら、間違いなく悲嘆に暮れるであろう光景だ。
 目的の為なら手段を選ばない、如何にもサイファらしい発想である。
(村長殿への謝礼には、漆器を手配すべきか)
 微苦笑しつつ、ユウザは固い岩の上に仰向けになった。少々背中が痛むが、頭の下で組んだ腕を枕にして、そっと瞼を閉じる。
 すると、たちまち世界が緋色になった。額に、頬に、顎に、優しく包み込まれるような陽射しを感じる。
(このまま、ずっと目を瞑っていられれば良いのだがな)
 全身を陽光に晒し、両脚を無造作に投げ出しながら、その寛いだ姿勢とは裏腹に、ユウザは昨日の襲撃事件を思い返した。
 いくら人通りの少ない場所とはいえ、昼日中[ひるひなか]、それも正面切って現れた刺客たち。襲われた直後は、いよいよ自分の番が来たかと、さして気にも止めなかったが、今朝方、ハナイの話を聞いて、事情が変わった。
 []の者たちは、一昨昨日からルファーリに宿をとっていたという。つまり、ユウザたちがディールに到着する前日に、彼らはもう、この地で待ち構えていたことになる。風狼船と天馬を駆使し、最短距離を最速でやってきた一行を。
 そうなると、刺客を[はな]った黒幕も、だいぶ絞られてくる。天馬、もしくは、それに準ずる駿馬と、最高級の風狼船を惜しみなく使える財産家といったら、皇族の中でもそうはいない。
 現皇帝[ゆかり]のハシリス家、次代を担う皇太子と神官長を輩出し、今を時めくノース家、武芸全般に秀で、イグラット国軍全体に影響力を持つエカリア家、商人との結び付きが強く、金に物を言わせた振る舞いが鼻につくダルネ家、血筋としてはやや劣るが、権謀術数に長け、皇位を狙い日夜暗躍していると噂のラシオン家。真っ先に思い浮かぶのは、この五大公家。
 とはいえ、ハシリスとノースはユウザの後ろ盾であるから、この二家は除外しても差し支えないだろう。用心すべきは、残る三家だ。
 これまで、軍の全権を掌握していたエカリアには、帝都防衛隊を引っかき回したことで、少なからず恨みを買っている。
 有力な商家に便宜を謀り、懐を肥しているダルネにも、公明正大が売りの豪商、アンバス家と親交が深い所為か、良い顔はされていない。
 ラシオンに関しては、直接因縁がある訳では無いが、正統な皇家の血℃ゥ体を疎まれているであろうから、安易に気を許すことは出来ない。
 ただ、この、いずれの公家が首謀であったにしても、[]せない事が一つある。それは、刺客たちが異国語で口論していたという、宿屋の主人の証言だ。
 今回の事件に、諸外国の思惑が絡んでいるのか、はたまた、外敵の仕業と思わせたいが為の、下手な偽装工作か。
 ユウザ一人を狙うにしては、街中を騒がせての大掛かりな手口。そのくせ、引き際が良過ぎたのも、怪しいといえば怪しい。[はな]から牽制のつもりだったか、それとも、他に企みがあったか……。
(少し、探ってみる必要がありそうだな)
 ぼんやりと思い巡らしていた時、突然、額に水滴が落ちてきた。反射的に開いた目に、自分を覗きこむサイファの顔が逆さに映る。
「ビックリした?」
 愉しげに笑う、その指先からは、ぱたぱたと雫が垂れていた。気配を消しての奇襲は彼女の十八番である。
「にわか雨でも降ってきたかと思った」
 寝転んだまま頷くと、サイファは、してやったりとばかりに、にっ、と唇を引き上げた。その笑い方に、とある男の影を見た気がして、ほんの一瞬、不愉快になる。
(……私も、まだまだ青いな)
 苦い[わら]いを薄っすらと唇にのせ、ユウザは身を起こした。軽く脇に[]けて、お前も座れ、と身振りで促す。
「あんたも、川に入ったらいいのに」
 隣に腰かけながら、サイファは、冷たくて気持ちいいぞ、と目を細めた。水辺では、ラヴィが今も、お椀片手に奮闘中だ。
「私は遠慮しておく」
 ユウザは首を振った。日向ぼこの方が性に合う、と[まばゆ]い日影に手を[かざ]す。
 すると、何を勘違いしたか、サイファは人を小馬鹿にしたような、したり顔になった。
「さては、泳げないな?」
 だから水に入るのが怖いんだろう? と、まるで鬼の首でも取ったよう。
「そんな事は――」
 無い、と反論しかけた時、ちょっとした意趣返しを思いついた。
「いや……確かに、水は不得手かもしれぬ」
 思わせ振りに目を伏せて、昔話を一つする。
「物心もつかぬ頃、一度、湯殿で溺死させられかけた事があってな」
 まだ赤ん坊の時、彼に湯浴みをさせていたセシリアが、うっかり手を滑らせ、湯船に落とされた事があったという。無論、単なる事故である。すぐさま引き上げられ、事なきを得た。
 この話は、母親から聞き知らされたものであり、ユウザ自身の記憶ではない。だから、精神的外傷など微塵もないのだが。
「泳ぎは得意だが、好んで水遊びする気にはなれない」
 少々、芝居がかった口調と共に、深い溜息を漏らす。嘘がばれぬように……というよりは、途中で吹き出してしまわぬよう、俯き加減に。
「ごめん、あたし……」
 そうとは知らず、ユウザの戯れを真に受けたサイファが、そっと肩先に触れてきた。慰めるように、そろそろと撫でつつ、神妙に返す言葉を探している。
 その愛すべき愚直さに、とうとう、堪え切れずに笑みがこぼれた。くくっと喉を鳴らしたところへ、彼女が気遣わしげな目を向ける。
「どうした?」
 泣いてんのか? と、重ねてよこされた見当違いな問いに、ユウザは顔を上げて微笑した。
「時々、お前の度を越した善良さが、愛しくて堪らなくなるぞ」
「は?」
 きょとんとしたサイファに、しれっと種明かしする。
「赤子の頃、誤って、浴槽に落とされただけの話だ」
 誰も暗殺されそうになった≠ニは言っていない、と付言すると、彼女は顔色を変え、怒りに拳を打ち振るわせた。
「何だってあんたは、いつもいつも、そう真面目な顔して人をだまくらかすんだ!?」
「騙す? 人聞きの悪いことを言うな」
 これぐらいの洒落に一々めくじら立てていたのでは、宮廷の古狸とは渡り合えん、と澄まして返すと、サイファは柳眉を逆立てた。
「あんたの真顔は、洒落にならないんだよ!」
 憤りに任せ、高々と振り上げられた細腕。難なく往なした瞬間、彼女は、ぐらりと平衡を崩した。
「うわっ」
 前のめりに倒れこんできた体を、とっさに抱き留め、庇う形で地に背中から落つ。
[つぅ]っ……」
 肩甲骨に、河原の砂利の堅固な痛み。と同時に、どさり、と胸に柔らかな重みがかかる。
「……大丈夫か?」
 首をもたげて声をかけるも、返事がない。彼の腕に囲われたまま、サイファはぐったりと項垂れている。
(打ち所でも悪かったか!?)
 ハッとして、ユウザは身を起こした。
「おい、しっかりしろ!」
 片手で彼女の肩を支え、祈る気持ちで顔を上げさせた瞬間。
「やーい、焦ってやんの!」
 両目をぱっちり開いたサイファが、ケタケタと勝ち誇ったように笑った。
 これぐらいの洒落に一々めくじら立ててたんじゃ、あたしの教育係は務まんないよ、と思わぬ逆襲に遭う。
(小癪な事を……)
 胸中で苦笑い。されど、[おもて]では努めて柔らかく微笑んだ。
「心得違いをしているようだな」
 教育係[わたし]≠フ役目は、その減らず口を封じることだ。
 わざと、互いの吐息がかかる距離で囁くと、サイファの頬が瞬く間に染まった。
 すぐさま、逃げ出されると思ったのに。
 恥じらいと怯えを[はら]みつつも、ひたと見返す瞳が、すぐ目の前。言葉を探しあぐねて戸惑う唇は、濡れたように[つや]やかな[あか]
 思いがけず、躰の芯に[あらが][がた]い火が宿る。
 何を、血迷うている?
 咎める声は、己の鼓動に掻き消され、届かない。
 縛められたように、微動だにせぬ少女の顎を指で掬い、唇を寄せかけた時――。
「ダメだ!」
 いきなり、容赦のない喉輪攻めを食らった。まともに受けて、激しく咳き込む傍らで、サイファが悲鳴と一緒に立ち上がる。
「危ないよ、ラヴィ!」
 何事かとふり返ると、切り立った岩場を這い登る、ラヴィの姿が飛び込んできた。滝の落ち口辺りに手を伸ばし、何かを必死に掴み取ろうとしている様子。
 一瞬にして、頭が醒めた。
「お姉ちゃーん!」
 サイファの呼び声に気づき、のほほんと手を振って応じる、ラヴィ。だが、濡れ光る岩の足場は、些細な油断が命取りになり兼ねない。
「ラヴィ! 私が行くまで、絶対に動くな!」
 鋭く言い放ち、ユウザは岩場に駆け寄った。逸る気持ちを抑えて、一歩一歩、慎重に足を運ぶ。
「ユウザ兄ちゃん、見て見て!」
 無事、ラヴィの元へ辿り着くと、彼は嬉しそうに拳を突き出した。握られていたのは、透き通るように青い、名も知らぬ花。
「水の中で、キラキラ光って見えたんだよ」
 お姉ちゃんにあげるんだ、と満面の笑み。
「すごいな、ラヴィ。サイファも、きっと喜ぶぞ」
 ラヴィの意識を花に集中させておきながら、ユウザは、そっと少年の体に手を伸べた。しかし――!
「あっ」
 わずかに遅く、足滑らせて流れる短躯を捕らえ損ねた。
「ラヴィ!」
 しまった、と短く舌打ちし、ユウザは力いっぱい岩を蹴った。落下するラヴィの体を空中で抱きすくめ、後は重力任せ。
 目前に迫る滝壷。
 漆黒のマントが音立てて翻る中、下界からは、サイファの悲痛な叫び。
「ラヴィ! ユウザ!」
 耳に届いた刹那、全身に冷水を[まと]った――。
- 2004.11.21 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL