Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 39 話  微熱[びねつ]惑乱[わくらん]
「ラヴィ! ユウザ!」
 サイファの悲鳴が切り岸に[こだま]した直後、二人の体は高々としぶきを上げ、水面[みなも]に吸いこまれた。
『滝壷は深いから、絶対に近づいちゃ駄目よ』
 かつての母の戒めが、にわかに胸に差し迫る。
(助けなきゃ!)
 ラヴィが死んじゃう! ユウザが……死んじゃう?
「そんな事、絶対にさせない!」
 頭を過ぎった不吉な考えを振り払い、サイファは川に踏み込んだ。冷たい水を蹴立てて、滝へ近づくと――。
「!?」
 ユウザの黒髪が、ザバリ、と水面[すいめん]を掻き分けた。続けて、彼の腕に身を預けたラヴィが、ぷっかりと顔を出す。
「ラヴィ!!」
 弟の元へ、夢中で駆け寄りかけた時。
「来るな」
 ユウザの酷く冷静な制止を受けた。
「思ったより、深い。それ以上寄ると、頭まで水に浸かるぞ」
 ラヴィの体を片手で抱えた彼は、もう一方の腕で器用に水を掻き、難なく浅瀬へ泳ぎ着いた。サイファがやきもきしながら見守る中、全身から雫を滴らせ、岸に上がる。
「大丈夫!? 何処も、怪我は無い?」
 河原に下ろされた弟の前に跪き、サイファは、その顔を覗きこんだ。うん、と頷いたラヴィが、しかし、しょんぼりと眉を曇らせる。
「お姉ちゃんにあげようと思ったお花、落っことしちゃった」
 ごめんね、と、心底、すまなそうに謝られ、サイファは怒る時機を[しっ]してしまった。
 馬鹿だなぁ、と思った。本当に、馬鹿だ。
 花なんて、どうだっていいのに。
 大切な者の命と引き換えに得る富なんか、欲しく無いのに。
 でも、好きな人の為に何かしたい、喜ばせたい、と望む気持ちは、痛いほど解るから。
「ありがとう、ラヴィ」
 濡れ鼠になった弟を、きつく抱きしめた。気持ちだけで十分だよ、と。
 それから、いくら感謝しても足りない恩人を、改めて振り仰ぐ。
「ごめん。弟の為に、危ない目に遭わせて……」
 申し訳なさと情けなさで、胸が押し潰されそうだった。大切にしたいと願っているのに、想いとは裏腹に、ユウザには、いつも迷惑ばかりかけてしまう。
 しゅんとして、[こうべ]を垂れていると。
「初めてだな」
 頭上から、ユウザの淡々とした独言[どくげん]が降ってきた。
 一体、何を考えているのか? 中々新鮮で悪くない、などと笑って、まるっきり人の話を聞いていないよう。
「新鮮って、何が?」
 さすがにムッとして、眉を顰めると、ユウザはついと視線をよこし、からかうような笑みを浮かべた。
「滝壷に落ちる間際、初めてお前が私を呼ぶ声を聞いた」
 ユウザ、と。
 そう言って、額に貼りつく前髪を、煩わしげに掻き揚げる。その拍子に、髪の先からこぼれた雫が、頬を流れた。
(言われてみれば……)
 そんな事を意識したことも無かったけれど、確かに彼の言う通りだと思った。いつも、『あんた』とか、『おい』とか、そんなロクでもない呼び方ばかりだった気がする……。
(皇子様相手に、やっぱ、まずかったのかな?)
 もしかして、ずっと根に持たれていたのだろうか? と、真剣に悩み始めた時。
「こんな非常時でもなければ、一生、お前に名を呼ばれる事は無かったかも知れぬ」
 サイファの前に膝を着き、ユウザはにこと微笑んだ。ラヴィには感謝せねばなるまい。
(あっ……)
 サイファは小さく息を呑んだ。
 やっぱり、こいつには敵わない。そう、認めざるを得ない。
 この男流の、細やかで遠回しな心慮。
(どうしよう……)
 泣きそうだ。
 気にするな、と言われるより、ずっと心安くて、胸に沁みる。
 サイファはそっと顔を伏せ、[まばた]きを繰り返した。不覚にも滲んでしまった涙が、ちょっとでも引っ込むように。
「それにしても、泳ぐには時期が早過ぎたようだな」
 くしゃん、と小さくクシャミして、ユウザは濡れそぼつマントを重たげに脱いだ。川の水をたっぷり吸い込んだ羅紗を軽く絞りながら、このままでは風邪を引く、と眉間に深い皺を刻む。
 軽口を叩いてはいるが、相当寒いらしい。日頃から優れて血色が良いようにも思われない顔色が、より一層白く、[]めて見える。
「とりあえず、一旦、全部脱いじゃって、水気を絞った方がいいんじゃないか?」
 あくまで応急処置だが、ずぶ濡れのまま村に引き返すよりは幾分ましだろう。
「……そうだな」
 思案顔だったユウザは、サイファの提案をすんなり受け入れた。
 腰の長剣をマントの上に置き、長靴[ちょうか]を脱ぎ、飾り帯の留め金を一つ一つ丁寧に外していく。シュルリ、と布の摩れる音を立て、黒繻子の帯を[]くと、裾の長い貝紫の上着をその場に脱ぎ落とした。
(わあ……)
 弟の服を脱がせてやりながら、何の気なしにユウザの後姿を見たサイファは、我知らずその背中に釘づけになった。
 服の上からは想像もつかない、固く筋肉の張り詰めた剣士の裸身。その背に息[]くのは、両翼を広げた一羽の鷲だ。
 こちらを見据える黄金[おうごん]の瞳は爛々と輝き、今にも飛翔せんと力[みなぎ]らせた鉤爪[かぎづめ]は、鋭く研ぎ澄まされている。
 イグラット皇家の――神々の[おさ]となるべくして生まれた、継嗣[けいし]の証。刻まれた、王者の紋章。
「そんなに食い入るように見つめられると、続きがやり[にく]いのだが?」
 こちらに背を向けたまま、ユウザが苦笑した。先程まで衣服を剥ぐのに忙しかった手指は、腰部の辺りで[とど]まっている。
「え? あっ、ごめん!」
 彼の言わんとしているところを悟り、サイファは慌てた。着替えを覗いていたという自覚すらなく、ただただ見惚れてしまっていた。
「……まあ、どうしても、と申すなら、このまま続けても構わないが」
 わずかに顔を振り向けたユウザが、愚にも付かない戯言[ざれごと][]く。
「だっ、誰が見たいか、そんなもん!」
 サイファはあたふたと回れ右した。
 なぜだろう? 胸が、痛いくらいにドキドキしている。
 男の素肌を見たのは、今日が初めてではない。父やテラの背に施された刺青[いれずみ]だって、何度となく見ている。
 それなのに……。
(どうしちゃったんだろう?)
 何か、変だ。
 サイファは、ふと唇に手を遣った。
 恐らく、さっきのアレ≠ェ悪いのだ。その場の空気に流されてユウザと接吻[キス]してしまいそうになった、あの一瞬が。
(あれは、ただの気の迷いだ)
 何処か後ろめたさを感じ、心中で吐き捨てる。
 この際、自分が彼を好きか否かは、大した問題では無い。重要なのは、ああいう場面に陥った経緯である。
 好きだ、と告げた訳でも、告げられた訳でもない。あんな、売り言葉に買い言葉みたいな状況で交わす口づけなんて、論外だ。
 いくら奥手なサイファにだって、一応、初めての接吻[キス]に対する理想くらいはあるのだ。相手とか、雰囲気とか。
 だけど、もし、あの時、ラヴィが崖登りなどしていなければ、自分はユウザと……。
(危ない! 危ない、危ない!)
 上気した頬を、サイファは両手でぺちぺち叩いた。間近で見つめ合った彼の、艶めいた瞳が、唇に感じた吐息が、生々しく蘇る。
(あいつは、あたしの監視役!)
 サイファは、ぶんぶんと[かぶり]を振った。
 ここ最近、大分、馴れ合ってきたけれど、所詮、見張る者≠ニ見張られる者=B根本的な部分では敵同士……なのだ。多分。
 そんな建前的な大義名分を掲げ、自省を促していると――。
「!!!!!」
 サイファは声にならない悲鳴を上げた。突然、音もなく伸びてきたユウザの腕に、後ろから抱きすくめられる。
「何するん――!?」
「寒い」
 絞り出した抗議の声は、たった一言で封じられた。暖を取らせろ、と、素気[すげ]ない命令調で言われ、身動き出来なくなる。
「あーっ! ユウザ兄ちゃんばっかり、狡ーい!」
 そこへ、甘ったれの本領発揮とばかり、下着一枚になったラヴィが、嬉々としてへばりついてきた。お姉ちゃんのお腹、[あった]か〜い、と冷たい頬を摺り寄せる。
 しかし、サイファの意識は、専ら背後のユウザに注がれていた。
 背中いっぱいに感じる、他人の微熱。肩と二の腕に添えられた大きな掌、耳朶[じだ]を掠める湿った黒髪の感触が、ユウザに抱き締められているという事実を、これでもか、と主張する。
 更に――。
「随分、体温が高いのだな」
 このまま放したくない、と、甘えるような、でも、どこか苦しげな声音で囁かれ、息が止まりそうになった。
 どうしよう? どうすればいい? どうすべき?
 なけなしの思考力を掻き集めてみるも、元より今は緊急事態。ぐるぐると空転するばかりで、全然まとまらない。
 破裂するんじゃないかと思うくらい煩い心臓を持て余し、ひたすら身を強張らせていたら。
「少しは抵抗したらどうだ?」
 首筋に、刹那の接吻[キス]揶揄[やゆ]の声。反射的に顎を仰け反らせた瞬間、ふいに解放された。
「あまり人が善過ぎると、付け込まれるぞ」
 くすと笑んで、ユウザは湿った上着に再び腕を通した。冷たい、と不快に眉を寄せつつも、きっちり帯を締め直す。
「抵抗しろも何も、あんたが動けないようにしたんだろうが!!」
 唇の感触が残る部分を掌で押さえ、猛然と噛みつくと、彼はわざとらしい大息をこぼした。
「何だ、もうあんた≠ノ降格か?」
 つれない事だ、と嘆いてみせる口ぶりは、これっぽっちも沈んじゃいない。完膚なきまでに、おちょくられている。
(このっ――!!)
 怒りが、喉元まで込み上げた時。
「そう、怖い顔をするな」
 飾り帯の金具を留める手を休め、ユウザは艶然と微笑した。
「今し方お前にした事は、全て戯れだ」
 許せ、と悪びれずに言う。
(……戯れ?)
 サイファは返す言葉を失った。
 何もかも、全部?
 寒いと言って抱きついてきたのも、項にされた短い接吻[キス]も、どうせ彼が時折みせる悪ふざけ≠フ一種なのだと、頭の何処かでは判っていた気がする。
 だけど、あの声の響きだけは真実≠ニ、直感的に思ったのだ。サイファの耳元でもらした、あえかな呟き。
 放したくない――と。
 あの切ない声色すらも、戯れだったというのか……?
 黙りこんだサイファを顧みること無く、ユウザは濡れたマントを拾い上げた。それを羽織りはせずに、小脇に抱える。
「さ、戻るぞ」
 同じく湿った衣装に身を包んだラヴィと向き合い、優しい笑顔を作る。濡れた者同士、仲良く二人乗りと行かぬか?
「うん!」
 ユウザの誘いに、ラヴィがにっこり応じた。
「僕が前に座ってもいい?」
「ああ。何なら、手綱も握ってみるか?」
 弟の小柄な体を抱き上げながら、ユウザは朗らかに笑う。
 サイファに向けるのとは違う、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちた眼差しで――。
(……つれないのは、どっちだよ)
 サイファは、きゅっと唇を噛んだ。
 訪れたのは、予期せぬ胸の痛み。
 ユウザの大胆な振る舞いに動揺し、緊張し、そして……ほんの少し、ときめいていた自分が居た。
- 2005.01.17 -
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