Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 40 話  禁断[きんだん]
 手を伸ばしてはいけない――と、初めからわかっていた。
 それでも、触れずにいられなかったのは、[おの]精神[こころ]の未熟さゆえ。かかる責め苦は、悦んで受けよう。
 この胸の疼きこそが、唯一、我が[まこと]
「まあ、まあ! こんなに冷たくなられて!!」
 出迎えてくれた村長夫人は目を丸くし、急ぎ湯浴みの仕度に走った。一緒に表まで出て来たミリアも、怪訝に眉を寄せる。
「一体、何があったんですの?」
「なに、陽気に誘われて、水遊びに興じただけだ」
 生乾きの袖口を振り、ユウザは、さらりと、はぐらかした。
「それより、グラハムは?」
 これ以上の追及を防ぎつつ、厳格な護衛の気配を探す。こんな恰好を見られては面倒だ。
「お部屋でお休みのはずですわ。呼んで参りましょうか?」
「いや、良い――ああ、待て」
「はい?」
 ユウザの呼びかけにミリアが応じたが、彼が引き止めたかったのは、彼女ではなかった。村長に挨拶し、屋敷を後にしようとしているサイファたちへ改めて声をかける。
「せっかくだから、ラヴィもここで、私と一緒に湯を使わせてもらえば良い」
 寒そうに[はな]を啜っているラヴィと目を合わせ、それからサイファに視線を移した。
「お前も、色々あって疲れただろう?」
 彼女の瞳を直視せず、淡い笑みを作る。待つ間、ミリアに茶でも淹れてもらって休んでいろ、と。
 しかし、サイファは小さく首を振った。
「……いい、帰る」
 村に戻る間中、ずっと黙していた彼女の顔は、今も浮かなかった。三日月の眉は心持ち顰められ、青い瞳が不自然な程はっきりと逸らされる。
 それも、その筈だ。嫌がる女を強引に抱き締めておきながら、あれは戯れだった≠ニ思いきり突き放したのだ。サイファが気分を害するのは当然の事である。
 もっとも、それを見越した上で、[]えて彼女を傷つけたのだが……。
「では、好きにしろ」
 ユウザはすんなり引き下がった。わざと怒らせたのは事実であるが、必要以上に逆撫でする気もなかった。
 大事なのは、一定の距離≠保つこと。
 これ以上、近づいても、近づけてもいけない。
 わずかに残る理性が、最後の警告を発していた。ここで自分を抑えられなければ、もう歯止めが効かなくなる、と。
 そもそも、あれで終わり≠ノする予定だったのだ。禁断の美酒に酔い痴れた事にして、自分を甘やかすのは。
 それなのに、放したくない、などと本音を漏らしてしまったのは、全くの失言だったと思う。あの一言さえ口にしなければ、いくらでもごまかせたのだ。サイファに対しても、自分自身に対しても。
 しかし、一度[はな]ってしまった言葉は――自覚してしまった想いは、取り消せない。だからといって、偉大なる神々≠フ血脈に不浄な人間≠フ血を混ぜることは許されないという、馬鹿げた運命[さだめ]が変わる訳でもない。
 まして、欲望の赴くままにサイファを抱き、[]し崩しに[めかけ]の座に据えるような暴挙は、以ての外である。
 祖父の愛妾――皇帝の良人を[たぶら]かした毒婦と蔑まれ、謂われ無き罪を着せられた母の苦しみも、夫を奪われ、嫉妬に身を[やつ]した祖母の哀しみも、自分は充分過ぎる程わかっている。そんな苦悩を、どうして、愛しい女に強いられようか?
 不幸にすると分かり切っている未来に、サイファを[いざな]うことは出来ない。自分を一人の男として認め、愛する女を託してよこした友の信頼に応える為にも、絶対に――。
「明日は日の出と同時に発つ。それまでに、用事を済ませておけ」
「別に、用事なんか無い」
 サイファはぶっきらぼうに吐き捨てた。どうせ暇人だよ、と。
 ユウザとしては、残された時間を好きに使えという意味で言っただけなのだが、虫の居所が悪い相手には、何を言っても皮肉に伝わるらしい。
「なら、ゆっくり休め。ラヴィは、後で私が送って行くから――」
 心配するな、と続けようとした矢先。
「わざわざ、いいよ。ご近所だし、ラヴィだって、赤ん坊じゃないんだから」
 サイファが素気[すげ]なく遮った。真っ当な言い分ではあるが、声に棘があり過ぎる。
「……やけに、つっかかるな」
 彼女の目に余る態度に、ユウザは軽い苛立ちを覚えた。いくら、こちらに非があるとはいえ、こうして関係修復を試みている側から破壊されたのでは、為す術が無い。
 しかし、ここで謝る訳にはいかないのだ。
「まだ、怒っているのか?」
 さも呆れた風を装い、ユウザは冷笑を作った。お前も存外しつこいな、と傲慢な不快を[おもて]に貼りつける。
「悪かったな」
 ぼそりと、呟くように応えた彼女の声は、予想に反して酷く弱々しかった。その顔に浮かぶのは、いつもの勝気な反発ではない。先程までの険すらも失った、傷ついた表情だ。
 一瞬、胸に疼痛が走った。思ったよりも、深手を負わせてしまったのかもしれない。
 思わず伸ばしかけた腕を、辛うじて引き戻す。
「悪ふざけが過ぎたと、謝った筈だが?」
 ユウザは殊さら素っ気なく言った。今さら蒸し返すのは御免だ、とばかりに、濡れたマントを椅子の背に放る。
 事実、その通りの心境だった。
(もう、勘弁してくれ……)
 サイファに悟られぬよう、静かに息を吐く。
 なぜ今日に限って、彼女はこんな目で人を見るのだろう? 臆病で、頼りなげで、そのくせ、戦慄を覚えるほどに甘い。
「誰も、謝って欲しいなんて、言ってない」
「だったら、何が不満だ?」
「何も!」
 泣きたいのを[こら]えたような鼻声で、サイファは頻りに首を振る。ちょうど、いやいやをする駄々っ児みたいに。
「それでは、私にどうせよと?」
 ユウザは投げ遣りに尋ねた。ここでまともな回答が得られなければ、本当にお手上げだ。
 だが、返ってきた答えは、最もまずい@v求だった。
「あたしは、ただ、あんたの本当の気持ちが知りたいだけだ……」
 震える声音で言いさして、サイファは唇を結んだ。握り締めた拳で荒々しく目尻を拭う仕草はいかにも子供っぽいが、ほんのり[しゅ]に染まった目元が、ぞっとするほど[あで]やかだ。
 やはり、恐れていた通りだった。
 自分が発した不用意な一言を、彼女は正しく@揄している。想いは、伝わってしまったのだ。
 最早、躊躇[ためら]っている余裕はない。今ここで、きちんと己の恋情に終止符を打たねばなるまい。
「わからぬ事を言う」
 意を決し、ユウザは冷たく微笑した。
「お前は、私の本当の気持ち≠知りたいと申すが、なぜ、私が嘘≠吐いていると思う? まさか、私が本気≠ナ、お前を欲していた、とでも?」
 唇を嘲りの形に歪ませて、サイファを見返すと、その頬が見る間に紅潮した。誇りを傷つけられた青玉の瞳は、荒れ狂う嵐の海を思わせる。
(そう、それでいい)
 ユウザは内心、ほっとした。憎しみをぶつけてくれた方が、次の作業≠ノ入り易い。
「考えてもみろ。ここ数ヶ月、夜毎逃げ出すお前に付き合わされて、ろくに女を抱く[いとま]もなかった。好い加減、禁欲生活にはうんざりしていたところなのに――」
 サイファの顎を乱暴に捕らえ、自嘲混じりの笑みを浮かべた。
「目前の誘惑に、[あらが]い切れる訳がない」
 囁くと同時に、有無を言わせず唇を重ねる。たちまち、彼女の体が固く強張り、背後にミリアの息を呑む音を聴いた。
 何度も触れたいと、口づけたいと夢想したサイファの唇。それを、こんな形で奪うのは本意でないが、それでも、心と体は別物で、求める度に柔らかく押し返される感触に恍惚として、つい目的を忘れそうになる。
 ユウザは、強い拒絶を示す彼女の閉ざされたままの唇をそっと舌先でなぞると、無理にこじ開けることはせず、あっさり離した。
 そして、取り返しのつかない決定的な訣別を口にする。
「お前は、愛玩用に飼われている奴隷だ」
 自分から遠ざかることが出来ぬのならば、相手を遠ざけるより道がない。
「その役目は、主を慰める≠アとであろう?」
 こちらが幾ら擦り寄ろうとも、決して届かぬ距離まで……。
「精神的にも、肉体的にも」
 今なら、間に合う。
「違うか?」
 そう、今なら、まだ――。
「……それが」
 しばしの沈黙の後、サイファが重い口を開いた。
「あんたの本心なのか?」
 問い返す声が、低く掠れる。
 接吻[キス]の余韻が残る、痛々しいほど紅い唇。両の目からは、涙が止めどなく溢れている。
 こんなにも美しく凄惨で、煽情的な女の顔を、他に知らない。
 ユウザは無言で微笑むと、彼女の脇をすり抜け、廊下に出た。そのまま後ろ手に扉を閉めた途端、全身が焼けつくように疼き出す。
(これで、良い)
 大きく喘ぎ、ユウザは自らに言い聞かせた。これが、最良。
 もう一度、最初の状態に戻すだけだ。
 監視する者、される者。
 相反する二人の間に、絆など要らない。
- 2005.02.22 -

TREASURE

sayura 様、歌帖楓月 様より、このシーンをイメージした素敵なイラストを頂戴しました!
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