Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 41 話  [きみ][ほとお]
 聞きたかったのは、あんな言葉じゃなかった。
 あんな言葉を聞かされるとも、思っていなかった。
 夢見ていたのは、優しい言葉と甘い笑み。
 思い知らされた。
 ずっと、ユウザが好きだった。
 自分でも気づけないほど、自然に。
 呼吸するみたいに、当然の事として――。
「ああ、もう、信じられないっ!」
 栗色の眉を目いっぱい吊り上げ、ミリアは力任せに机を叩いた。あまりの勢いに、上に乗っていた花瓶がゴトンと跳ね上がる。
 しかし、そんな事には全くお構いなしの[てい]で、彼女は更に捲くし立てた。
「最低ですわ! 最悪ですわ! ユウザ様が、あんっな卑しい事を考えていらしたなんて!」
 つくづく見損ないましたわっ! と、不快感丸出しで吐き捨てるや、強い憤りと同情を湛えた瞳でサイファを仰ぎ見る。
「さっきの事は、きれいサッパリ忘れておしまいなさいな」
 低俗すぎて思い悩む価値もないわ、と言い放ち、薄桃色の手巾[ハンカチ]を差し出してよこす。ミリアに似合いの、愛らしい小花が刺繍してある。
「……ありがとう」
 受け取りながら、サイファは微笑んだ。
 あんな場面を他人に見られてしまうなんて、本来ならば、深く恥じ入るべきなのだろう。しかし、こんな風に、自分の事のように必死に怒ってくれるミリアの存在が、とても有り難く、いとおしく思えた。ユウザに突き放された痛みを、共に分かち合って貰ったような気さえする。
「ラヴィ、お姉ちゃん、先に帰ってるね」
 一連の出来事をポカンと見守っていた弟に、サイファは、平素と変わらぬ調子に聞こえるよう、あっさり告げた。
 動揺を面に出してはいけない。今、ラヴィの前で泣き崩れてしまったら、理由を説明できない。
「じゃあ、僕も一緒に帰る」
 幸い、サイファの異変に気づいた風もなく、ラヴィが笑顔で言う。
「……そう」
 我知らず、眉をひそめたところへ、ミリアが大声で割って入った。
「あら、ダメよぉ! こんなに立派なズブ濡れ鼠、[わたくし]の目の黒いうちは、絶対に逃がしませんことよ」
 ニャ〜オ、と猫の鳴き真似をしつつ、ラヴィの首根っこを素早く掴んだ。
「さぁ、覚悟なさい、ラヴィねずみ」
 栗色の瞳を三日月型に細め、わざとらしい舌なめずりをする。
「うわぁー、ミリア猫に食べられちゃう!」
 たちまち乗せられたラヴィが、彼女の腕をするりと逃れた。チュウチュウ笑い声を立てながら、室内をチョコマカ動く。
「こら、観念するニャ!」
 ミリアは、後は私に任せなさい、とばかりに目配せすると、両手を広げ、巧みにラヴィを廊下へと追い立てていった。
 独り、居間に残されたサイファは、ミリアの心遣いに、素直に感謝した。ラヴィには悪いが、一刻も早く、誰にも煩わされること無く、心を落ち着けたいと願ったのは確かだった。
 ユウザの言葉を思い返すと――彼が、他の男たちと同じ目で自分を見ていたのだと思うと、哀しくて、悔しくて、すぐさま涙が溢れてくる。
 ユウザに教えられるまでもなく、 I 種の存在意義が主を慰める事――取り分け、性的欲望の捌け口としての位置付けが高いことくらい、サイファも心得ていた。
 村を離れる前、世間知らずだった自分に、父が、それとなく注意を促してくれていたし、フラウ城での軟禁生活は、いかにして貞操の危機≠乗り切るかという、不毛な戦いの連続であったから。
 だからこそ、ころりと騙されたのだろう。
 連日連夜、逃げるサイファを捕らえ続けたユウザ。その度、自分に向けられた眼差しが、あまりにも冷徹だったから。この男はまとも≠セと、すっかり安心し切ってしまったのだ。
 だが、それだけでは無い。
 表面上は冷たく無愛想でも、内面は誠実で思慮深く思われた彼が、あんな事を言い出すなんて信じられなかったし、信じたくもなかったのだ。
 その想いが、あの問い≠ノ繋がったと言える。
『それが、あんたの本心なのか?』
 思わず、口にした疑問。それに対し、そうだ、とも、違う、とも答えず、ただ、曖昧な微笑を浮かべたユウザ。
 その表情が、何となく沈んで見えたのは、恐らく、未練以外の何物でもないのだろう。彼の態度の何処かに、ほんの少しでも光明を見出せないものか、と……。
 小さく溜息をこぼし、サイファはミリアが貸してくれた手巾[ハンカチ]で、そっと目元を拭った。頬を流れた雫は、いつの間にやら乾いている。まるで、何事もなかったみたいに。
 それなのに――。
(どうして、こっちは消えてくれないんだろう?)
 無意識に、唇を噛み締める。
 ユウザにされた接吻[キス]は屈辱でしかなかった。抵抗すら許されぬほど、しっかり[おとがい]を押さえこまれ、息継ぐ間もなく唇を貪られて。
 その[めく]らむ感触に、サイファは身を固くして耐え続けた。屈辱でしかなかった筈の口づけに、いつしか我を忘れてしまわぬように。
 だから、彼の舌が唇を掠めた時は、どうにかなってしまう、と思った。全身を突き上げるような震えが走り、胸が切なく軋んだ。
 どんなに激しく求められても、ユウザにとっての自分は、一時の快楽を得るための、単なる人形[ひとがた]に過ぎない……。
 サイファは、自分で自分を抱き締めた。
 初めて知った、恋の甘苦。行き場を失った感情を、どう葬ればよいのかわからない。
 その時、ふとユウザが置き去りにした外衣[マント]が目に留まった。
「こんなとこに、ほっぽり出したまんまじゃ、皺になっちゃうじゃないか」
 あいつも案外、間抜けだな。強がりにも似た悪態を吐きながら、何気なく触れると、指先がひやりと湿った。ふいに、涙腺が緩む。
 つい数日前、自分を温かく包み込んでくれた外衣[マント]さえもが、今はもう陰鬱として冷たい。椅子の背に無造作に投げ出された様が、涙でしおれた惨めな我が身を彷彿させる。
 サイファは、一瞬、逡巡した[のち]、濡れた外衣[マント]を鷲掴みにした。そして、ほとんど逃げ出すようにして村長宅を後にする。
(別に、あいつの機嫌を取る為じゃない)
 家路を急ぎながら、己の胸に弁解した。
 ユウザの外衣[マント]を、きちんと干してあげようと思ったのだ。盗まれかけたそれを取り返した時、彼が、叔父からの[はなむけ]なのだ、と言って、静かに大息を飲んだ姿が、強く印象に残っていたから。きっと、大事な――何か思い入れの深い品なのだという事が、容易に推察できたから。
(あたしも大概、お人よしだな)
 思わず、自嘲の笑みが漏れた。
 あんな酷い事をされたのに、やはり、ユウザを憎み切れないでいる。それどころか、むしろ……。
 再び、涙が頬を伝った。
 翻弄された唇だけが、いつまで経っても熱い。
- 2005.04.10 -
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