フラウ城のそれとは比べ物にならない程、こぢんまりとした湯殿で、ユウザは躰に蓄積された熱を洗い流した。濡れた肌を浴布で拭い、清潔な衣服に袖を通したところで、ようやく人心地つく。
湿った髪が乾き切る前に櫛を入れておかねばと、脱衣所の鏡を覗いた途端、思わず苦笑がもれた。
(随分と、情けない顔をしている……)
自分を見つめ返してくるのは、疲労の色が濃い、精彩を欠いた双眸。長い前髪がちょうど目の下あたりに影を落として、絶妙な陰気臭さを醸し出している。
たかが恋一つ、失ったくらいで。
こぼれそうになる嘆息を強気な自嘲に摩り替えて、風呂場を後にすると。
「!」
「あ゛」
廊下の角を曲がったところで、ラヴィを連れてやってきたミリアと鉢合わせになった。
転瞬、生じた気まずい空気。
しかし、ユウザは、すぐさま何食わぬ顔を作った。
「サイファは、どうした?」
黒目勝ちの団栗眼で見上げてくるラヴィに笑みを向けつつ、やはり先に戻ったか? と、素っ気なく尋ねる。一番気にかかっていた事を、そうとは悟らせぬよう、如何にも等閑な調子で。
「ええ、もう疾っくに」
そんな彼の思惑をよそに、にっこり頷いたミリアだったが。
「一時でも、ユウザ様と一つ屋根の下にいるのが耐えられなかったようですわ」
愛くるしい笑顔のまま、こちらが予想もしなかった毒舌をふるう。
どうやら、彼女のユウザに対する認識は、先の一件で、完全に女の敵≠ヨと塗り替えられてしまったようだ。
「なるほど」
気持ちは解らなくもない、と不敵に微笑して、ユウザは、再びラヴィに視線を戻した。翳りの無い青灰色の瞳に、愛しい女の面影が揺れる。
誤解されるのは構わない。罵られても弁解はしない。
それが己の負うべき責めだから、どんな誹謗も受け止める。
だが、ふいに訪れる感傷は――湧き上がる想いは、受け止め切れずに溢れてしまう……。
「もたもたしていると、風邪を引く」
少年の鈍色の髪に手を伸ばし、軽く梳くと、ユウザは小さな背を押した。早く温まってくるが良い。
「では、失礼いたします」
主人の命を受け、口調だけは飽くまでも慇懃なミリアが、お辞儀もそこそこにラヴィを促す。
「湯浴みがすんだら、送ってやってくれ」
遠ざかる彼女に言い足して、ユウザは歩き出した。
指先に残る、絡めた髪の感触。
思いおこすは、君と見た胸焦がす落陽。
*
「遠乗りは、如何でございましたか?」
カタカタと音を立てつつ、自ら酒器を運んできたウランジール・ヤトンは、居間の長椅子に泥のように身を沈めていたユウザへ、無邪気な問いをよこした。
「……まあ、それなりに」
脳裏を過ぎった複雑な記憶に蓋をして、ユウザは当たり障りのない返答をした。思い出になった、と。
「それは宜しゅうございました」
銀の酒盃に蒸留酒をなみなみと注ぎながら、ヤトンは、片田舎の自然も、そう悪くは無いでしょう? と、にこやかに相槌を打った。
「……ああ、でも、殿下のようにお若い方にとっては、賑やかなルファーリの方が、お好みに合いますかな?」
ユウザに盃を差し出すのと同時に、ひょいと小首を傾げる。
「そうだな、どちらも甲乙つけ難いが……ルファーリの伝統工芸は、実に見事であったよ」
目礼して受け取り、ユウザは、琥珀の液で唇を湿した。
「それは、水華石の象嵌細工の事でございますか?」
「如何にも」
頷きを返しながら、昨日見学させてもらった工房を、そこで働く老いた職人たちを思い浮かべる。
水華石は、熱には強いが、硬度が高すぎて加工には極めて不向きな石である。それを、老齢の熟練工たちが、ゆっくりじっくり時間をかけて、紙一枚の薄さにまで削り出していくのだ。
例えば、可憐な花びらの形に。或いは、瑠璃の鱗粉を散らす蝶たちの、幻想の翅そのものに。
だから、量産は出来ない。当然、値も張る。
それなのに――。
「わざわざ、ミルゼア下りから仕入れに来る者もいるそうだな」
工房の主人の話を思い出し、ユウザは大きく肩をすくめた。
今、諸外国の上流社会では、魔石細工の収集が大流行している。その波に乗せられて、ルファーリの象嵌細工も、需要ばかりが鰻登りだという。
「そうらしいですねぇ。私も、先日、ルファーリまで行ってきたのですが、その時は、マルジュナからの旅行客と、アンカシタンの隊商を見かけましたよ」
「隊商? 象嵌細工の買付に、そんなに大勢、出入りしているのか?」
「ええ。何でも、ヒリングワーズで炎舞石を卸したついで≠轤オいですが」
盃を舐めながら、ヤトンが呆れたように笑う。あの有様では、どちらが主≠セか判りませんよ、と。
「……そうか」
ユウザは深く頷いた。
(魔石熱が冷めるまで、入国を制限した方が良いやも知れぬ……)
貿易により地方の産業が活性化し、国益に繋がるのは大変喜ばしい事だが、ルファーリのような警備の温い地方都市に異国人が集結するのは、国防上、あまり芳しくない。見ず知らずの外人が街中をうろつく状況を日常≠ニ捉えるようになってしまえば、それだけ警戒心も薄れてしまう。
更に、懸念されるのは、自分を襲った刺客たちの存在だ。
異国語で口論していたという彼らを、この機に乗じた外敵と見なすのは早計だが、その可能性を捨て切れないのも、また確か。
(今夜にも、グラハムに話しておいた方が良さそうだな)
サイファの滞在期限を無事迎えた今日、最早、襲撃の事実を隠す必要もなくなった。おまけに、八つ裂き以上の刑を受けている真っ最中だし……。
溜息と一緒に、ユウザは残った酒を一息に呷った。
「村長殿、もう一献いただけるか?」
乾した盃を、グイと差し遣る。
窓から望む夕ましの空は、心揺るがす菫色。
- 2005.05.15 -