Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 43 話  [ねが]わくは[そば][]
「父さん? 居ないの?」
 玄関の扉を開けながら、サイファは大声で呼びかけた。畑にトーギの姿はなく、室内にも人の気配が無い。
「どこ行ったんだろ?」
 首を傾げつつ、とりあえずユウザの外衣[マント][テーブル]に載せようとして――父の置手紙を見つけた。小さな紙片に、すぐ戻るから心配しないように、とだけ書かれている。
 だが、その一文で、サイファには父の行方が分かった。
 ああ、母さんの所だ。
 昔、母が死んで間もない頃、猟から戻ったサイファは、家の中はもちろん、村の何処にも父の姿が見当たらない事に動転し、半狂乱で森を捜し回ったことがあった。
 最愛の妻を失い、憔悴し切っていたトーギが、自分と弟を残してライアの後を追ってしまったのではないかと、心底、恐怖したのだ。
 しかし同時に、サイファは消えてしまったトーギに対して、強烈な羨望を覚えた。父が逝くなら、自分だって逝きたい――と。
 結局、その時、トーギは妻の墓参りをしていただけで、テラに抱きかかえられるようにして帰ってきた娘を見て、逆に驚いていた。
 以来、父親が黙って家を留守にすることは無くなったが、その代わり、行先の書かれていない置手紙が、月に数回、残されることになった。
 サイファは、外衣[マント]を軽く畳んで椅子の背に掛けると、書置きを手に自室へ向かった。
 ただの伝言とはいえ、父の心遣いを捨ててしまうのは忍びなく、いつも文箱に仕舞っておいた。もう何枚も、何十枚も。
 今日の分も、折れ曲がらないよう丁寧に収めた。蓋をして箱を元に戻しながら、ふと考える。
(父さんがこれを見たら、どう思うだろう?)
 きっと、喜びはすまい。そんなものを取っておいたのかい? と、哀しげに微苦笑するに決まっている。
 小さく一息[]いて、サイファは寝台に腰を下ろした。その足下には、先日、テラに貰った銀狼の子が、籠に入って眠っている。
「ケレス……」
 弟が付けた名前を、そっと呟いた。
 『忠犬ケレスの物語』は、イグラット人なら誰もが知っている御伽噺だ。男神イグラットが下界の平定に乗り出した時代、戦乱の世を、飼主である少年兵と共に馳せた猟犬、ケレスは、少年の危機を何度も救い、最期は、主人を庇って凶刃に倒れたという。
 この話に[いた]く感動していたラヴィが、その名を選んだのは自然な事だった。例え、名付ける対象が犬≠ノ良く似た狼≠ナあっても。
「ラヴィを頼むよ」
 ころんと丸い、無垢な四肢。ケレスの[すべ]らかな背中を指で撫で、寝顔に囁く。
 明日[あす]、夜明けと共に村を発つ、とユウザは言っていた。
 帝都に戻ってしまったら、今度はいつ村に帰れるか分からない。二年後、三年後……もしかしたら、二度と帰郷は望めないかもしれない。
 そうなった時、ケレスの存在が、寂しがり屋で甘えん坊のラヴィを勇気づけ、力になってくれたらと心から願う。物語の忠犬のように、弟のために死んでくれとは言わないから。
 せめて、傍に居てあげてほしい。弟が一人前になるまで離れないと誓ったのに、それを果たすことも叶わなくなった、不甲斐ない姉の代わりに。
 でも――。
「ごめんな、ケレス」
 お前には、お母さんがいたのに。引き離したりして、ごめん。
 無意識に謝罪の言葉が飛び出して、サイファは深く項垂れた。
 悪い癖だ。己が作り上げた悲しみの連鎖で、自分自身を絡めてしまう……。
(こんな事してる場合じゃないんだっけ)
 サイファはのろのろと立ち上がった。
「あの馬鹿の外衣[マント]を干してやらなくちゃ」
 いつものように自分を鼓舞する強がりを言ってみるが、湧いてくるのは力ない溜息ばかり。
 もう、頑張れないかもしれない。
 漠然と思った時。
 耳を[つんざ]く爆音が、大地を揺るがした。
 家の近くに、雷でも落ちたのだろうか?
 慌てて居間に戻ったサイファは、思いがけない光景を目の当たりにし、立ちすくんだ。
 何が起きているのか、瞬時には理解できなかった。
 轟音と共に立ち昇る、巨大な火柱。
 生き物みたいにうねる炎が、あっという間に床を舐め尽くし、壁、天井へと燃え移っていく。
 次第に広まる黒煙と、鼻に付くきな臭さで、サイファは、ようやく我に返った。
 火事だ!
 途端に、ぞっとして、台所に駆け込む。
 逃げようとは思わなかった。
 一体、どうして、こんな事態になったか知らないが、自分の家が燃えている。火を消さなければならない。
 我が家を、守らなくては――。
 ただ、その一念で、サイファは大きな水瓶を引きずり、燃え盛る炎に、ぶち撒けた。たちまち、白い蒸気が辺りを包む。
 一瞬、火勢が衰えたかに見えた。
 しかし、次の瞬間、炎は水さえも熱源に変える勢いで膨れ上がった。
「チクショウ! こんなんじゃ、全然足りない!」
 自力での鎮火は絶望的だと悟り、サイファは次の行動に移った。
 父の部屋――かつての両親の寝室へ飛び込み、壁に架けてある額を慌ただしく下ろす。
 その昔、父が母のために[えが]いたという、小さな風景画。大事な思い出を毛布で[つつ]み、小脇に抱える。
 後は、何を持ち出さなければならない? 焦る頭で自問して、ハッと顔を上げた。
「ケレス!」
 自分の部屋にいる赤子の狼を思い出し、奥へ引き返す。籠ごと急いで抱き上げて、廊下に飛び出すも――。
「嘘だろ……?」
 猛然と押し寄せる炎の波を前にして、茫然と立ち尽くす。
 火の回りが、異常なほど早い。早過ぎる。
「この炎……」
 何処か、おかしい。
 激しい動悸に反して、サイファは、ふいに頭の芯が冴えていくのを感じた。
 全く火の気のなかった居間に、突如、噴き出た激しい炎。
 次々と建材を呑みこんでいく炎色が、禍々しいほどの暗赤色。
 これは、まるで――。
「……妙炎?」
 そこに思い至った時、サイファは確信した。
 考えられるのは、ただ一つ。ユウザの外衣[マント]に縫いつけられていた、紅い貴石だ。
 てっきり紅玉だと思っていたあの石が、炎舞石の結晶だったとしたら? それが、何らかの刺激を受けて、効力を発揮してしまったのだとしたら……?
「そうだ、水華石!」
 妙なる炎を鎮めるは、妙なる水の流れのみ。
 サイファは、右手に嵌めていた指輪を引き抜いた。大粒の石に唇を押しつけたところで、ふと思い留まる。
(今、これを使ってしまったら……)
 ユウザの母に合わせる顔がなくなってしまう。お礼を言う前に、指輪を壊してしまった、なんて――。
 そこまで考えて、サイファは、ふっと笑みを漏らした。
「……どっちにしろ、意味ないか」
 指輪が有ろうと無かろうと、ユウザとの関係が、あんな形で[こじ]れてしまった今、彼の母親に会いに行くなど、夢のまた夢。
 この水華石を使って生き延びたところで、自分を待っているのは宮城の青い檻≠セけではないか……。
 そう思った瞬間、サイファは、炎に追い詰められるまま、家の奥へ奥へと後退した。
 そして、これ以上、逃げ場がない――廊下の突き当たりに辿り着くや、毛布に[くる]んだ額縁の角で、嵌め殺しの窓を力任せに叩き割った。頭を出すのがやっとの小さな明り取りから、何とか額を放り出し、次に、ケレスの入った籠を地面に垂直に落とす。
「ごめんね、父さん……」
 呟いて、サイファは、ずるずると廊下にしゃがみ込んだ。肌を刺す熱気に耐えきれず、目を閉じる。
 何だか、疲れてしまった。
 誰かに振り回されて一喜一憂するのも、失った者を想って泣くのも、何もかも……。
 鼻孔に入りこむ煙に意識を奪われながら、サイファは、ぼんやり考える。
(あたしが死んだら――)
 少しは、哀しんでくれるだろうか?
 生涯一人の思い人――翡翠の瞳の、教育係は。
「……ユウザ」
 吐息のように名を呼んで、薄っすらと目を開けた。
 視界を満たすのは、[あで]やかに[すそ]翻す炎の円舞。もう、壁の花ではいられない。
 サイファは再び目を瞑った。
「母さん……」
 左耳の飾りを手探りで外し、強く握り締める。
 今、行くからね。
 今すぐ、母さんの傍に。
- 2005.05.29 -
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