Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 44 話  [いのち][しずく]
 偶然が招いた禍は、偶然が[もたら]した奇跡によって回避された。
 []けられぬのは、人の心が作った必然。
 扉を開けた瞬間、グラハム・バリは息を呑んだ。
 大きく見開いた目を凝然と固定したまま、喉の奥から絞り出すような声で呟く。
「……殿下……?」
 たった、一言。
「話がある」
 唖然とするグラハムの横をすり抜け、ユウザはさっさと部屋に入りこんだ。持参した酒瓶を二本、ドッカと書き物台の上に置き、出窓に腰を落ち着ける。
 未だに立ち尽くしたままのグラハムに目をやると、まるで幽鬼でも見たような顔で固まっていた。
 それも、無理からぬ話ではあった。
 まだ宵の口だというのに全身から酒気を漂わせ、胸をだらしなくはだけた姿は、なるほど大層な曲者ぶりだと、ユウザ自身、自覚がある。
「まあ、飲め」
 瓶の一つを取り上げ、グラハムに放ると、彼は正気に返って、片手で受け止めた。
「……随分、酔っておいでですね」
 栓を抜くことなく床に置き、非難めいた眼差しを向けてくる。
「案ずるな」
 瑞々しい葡萄酒を一口、行儀悪く喇叭[らっぱ]飲みして、ユウザは口元を手で拭った。
「いくら飲んでも、酔えないように出来ている」
 唇を皮肉に歪めて、もう一口。
 酩酊して寝首を掻かれる事など無いようにと、幼い頃より、父親に徹底的に仕込まれたお陰で、未だ嘗て、気持ち良く意識を失えた試しが無い。[のち]に、訓練と称した、単なる父の晩酌相手だったと知った時には、さすがに閉口したが。
「深酒の原因は、あの娘ですか?」
「まさか」
 存外、鋭いグラハムに微苦笑を返し、ユウザは本題を切り出した。
「私の命を狙っている者がいる」
 単刀直入に告げると、彼の表情にわずかな緊張が走った。
「何ゆえ、そのように思われますのか?」
「何ゆえも何も、実際に[やいば]を向けられた」
 これまでの経緯を掻い摘んで話すと、グラハムは眉間に深い皺を寄せた。最後まで、無言で聞き終えて。
「……然様でございましたか」
 彼は静かに頷いただけだった。
 てっきり、なぜ今まで黙っていたのか! と、[なじ]られるとばかり思っていたのに。
「驚かぬのか?」
 揶揄を含んだ口調で問うと、彼は、すいと顔を上げ、ユウザと視線を合わせた。
「実は、[わたくし]からも一つ、殿下のお耳に入れておきたき事がございます」
「何か?」
 ユウザが促した丁度その時、階下が急に騒がしくなった。
 そして、バタバタと階段を駆け上がって来る足音と、かしましい女の高音。
「ユウザ様、大変です! サイファが! サイファの家が――!」
 火事なんです! という、ミリアの叫びと入れ違いに、ユウザは部屋を飛び出していた。
 ミリアがラヴィを送っていったのが、不幸中の幸いだった。
 彼女が、例の良く通る高い声で、火事よ、火事よ、と喚き回ってくれたお陰で、ユウザがサイファの家に到着した時には、既に、村中の人が現場に詰めかけ、懸命の消火活動を展開していた。水の入った[おけ]を次々と手渡していく人の列には、小さなラヴィの姿もある。
 その最前線。
「トーギ殿! サイファは!?」
 狂ったように炎に水を浴びせかけていたトーギは、ユウザの呼びかけに、苦渋に満ちた顔をふり向けた。
「恐らく、中に……」
 その瞬間、心臓が大きく収縮した。
 こめかみの血管が、目眩がする程、ずきずき脈打つ。
「貸せ!」
 村人から桶の一つを引っ手繰り、ユウザは殆ど反射的に頭から水を被っていた。いざ火の海へ、と足を踏み出すも――。
「おやめ下さい」
 後ろからガッチリと腕を掴まれ、阻止された。
「何の真似だ、グラハム!?」
 殺気立った瞳で、邪魔者を睨み据える。
「落ち着きなされませ。殿下が、あの火の中に飛び込まれたところで、無駄死になさるだけです」
 こんな時ですら淡々として、顔色一つ変えないグラハムに、ユウザは理不尽な怒りを覚えた。
「放せ、愚か者! 今、こんな事をしている間にも、あの娘は死にかけておるのだぞ!?」
 渾身の力で腕を振り払うや、耳元に大喝を浴びせられた。
「愚かなのは貴方の方だ!」
 先程とは打って変わった、凄みの利いた目で、グラハムは続ける。
「あの炎を良くご覧なさい! あれが、ただの火事とお思いか? あんなにも黒みを帯びた赤色をしているというのに!」
 ご聡明な殿下らしくもない! と罵られ、ユウザははっと息を詰めた。ゆっくり彼の言葉を反芻し、ようやく冷静さを取り戻す。
「……妙炎か」
 道理で、あれだけ水をかけても一向に火の勢いが衰えないわけだ。しかし、納得しながらも、新たな疑問が頭をもたげる。
(なぜ、サイファの家に炎舞石が――?)
 妙炎は、妙水でしか消せないという特殊な効力から、神殿の聖火や灯台、製鉄所など、決して火を絶やしてはいけない場所で有効活用されている。
 だが、使い方を誤れば、これほど恐ろしい凶器もない。よって、炎舞石の扱いには並々ならぬ注意が要求され、一般家庭で使用される事はまず無いのだが……。
「とにかく、大量の水華石を手に入れる事が先決でしょう」
 今からルファーリまで行って参ります、と[きびす]を返しかけたグラハムを、ユウザは、待て、と制した。
「石なら、ここにある」
 腰の飾り帯から、水色の[ぎょく]を五、六粒、ぶちぶちと音立てて引き千切る。
「万が一に備えた、護身用の魔石だ。どれも速効性だし、小さくとも威力は最上級だ」
 これを使ってくれ、と村人たちに石を渡し、自らも呪文を唱えようとした、その時。
 ふと、何処からか、子犬が鼻を鳴らすような音がした。それが、段々、大きく、はっきり聞こえてきて……。
「あっ、ケレス!」
 ラヴィが喚声を上げた。
 薄闇の中、炎に照らし出された銀色の狼が、家の裏側から、こちらに向かって、よちよちと歩いて来る。
 その拙い姿が、神の化身にも思えた。
「助かったんだね、お前……」
 愛狼を抱き上げ、涙ぐむラヴィを残し、ユウザは一縷[いちる]の望みと共に、全速力で裏庭へ馳せた。
 あんな頼りない足取りの赤子の狼が、自分の力で脱出できたとは、到底、思えない。きっと、サイファが逃がしてやったに違いないのだ。
 まだ、生きている。
 絶対に、死なせてなるものか!
「やはり!」
 案の定、家の裏手には、不自然に引っくり返った籠と、なぜか苔色の毛布が投げ出されていた。だが、そこにサイファの姿は見当たらない。
「サイファ! 何処だ!?」
 返事をしろ、と怒鳴ると、建物の中――小さな明り取りから、甲高い鷲の声が答えた。
「ルド!?」
 思いがけない相手からの反応に、一瞬、面食らう。火に弱いはずの動物が、逃げもせず、煙に巻かれているなど、予想だにしなかった。
 しかし、相手が普通の鳥では無いことを思い出し、確信する。
 サイファは間違いなくそこ≠ノ居る、と。
「サイファ!」
 熱気が吹き出す窓を何とか[のぞ]き込むと、床に倒れた彼女の脚だけが見えた。更に場所を移して[うかが]うと、真っ白の両翼を墨色に染めたルドが、主に迫る炎を遠ざけんとして、大きく羽ばたいていた。だが、しかし、その鼓翼も、次第に力ないものへと変わりつつある。
「もう良い、ルド!」
 お前は先に逃げていろ! と、大声で命ずると、ルドは、ちらりとこちらを向いたが、そのまま無視して、羽を動かし続けた。
「強情な鳥め!」
 舌打ちしつつ、ユウザは飾り帯から緑色の[たま]をもぎ取った。その石粒に唇を寄せ、呪文を唱える。
「ルド! しばし、サイファの体の上に伏せておれ!」
 詠唱が終わると同時に、若草色の[ぎょく]――風狼石を壁に向かって投げつけた。
 たちまち、強烈な風が巻き起こり、焼けて脆くなった壁に大穴が空く。
 続けて、今度は水華石に口づけた。
「石に宿りし聖なる御霊[みたま]よ、汝、その妙なる力を以ちて、我を助けよ!」
 踊り狂う妙炎の渦に石を投げ込むと、辺りが一瞬にして白い水蒸気に包まれた。
 数秒後、本当に、あっけないほど容易く、火が掻き消える。
「おい、しっかりしろ!」
 ユウザは壁の穴から中に入ると、サイファを抱き起こした。
 その白い顔も、腕も、脚も、自慢の銀髪も、何もかもが黒い[すす]で覆われ、弱り果てた気息が今にも絶えてしまいそうだ。
 俄かに、背筋が寒くなる。
「今、楽にしてやる」
 押し寄せる不安の波を打ち払い、ユウザは腰の飾りを[まさぐ]った。連なる宝玉の中から、一際小さく、澄んだ萌葱[もえぎ]色の石――葉樹石を選び取る。
 豊富な滋養と強い甦生力を秘めた、この石は、医者要らず≠フ異名を持つ、歴とした薬物だ。本来ならば、呪文で溶かした石を湯に混ぜて飲むのだが……。
 ユウザは、サイファの頭を右手で支えると、石を咥え、彼女の唇に――石を間に挟んで口づけた。そして、その体勢のまま、呪文を囁く。
「石に宿りし聖なる御霊[みたま]よ、汝、その妙なる力を以ちて、我を……助けよ……」
 音声[おんじょう]が消えると同時に、石が[ほど]けるように溶けていく。
 ユウザは、その薬液[やくえき]が上手くサイファの喉に落ちるよう、圧し当てた唇の角度を何度も変え、口腔に舌を這わせた。
 青臭い水薬[すいやく]が唇を濡らし、受け留め切れなかった分が雫となって顎を滑る。
 全て飲ませ終えたところで、ユウザはそっと唇を離した。彼女の口元を親指で拭ってやりながら、様子を見守る。
 一秒が、永遠にも思える時間。
【冥界の王よ――我が父なる神、ユウザリウスよ。どうか、この娘を貴方の元に連れて行かないでくれ……】
 懇願にも似た祈りを捧げ、ぐったりと力失った体を、強く、強く、掻き[いだ]く。
 すると、サイファの喉が微かに動いた。それから、虫の息だった呼吸が、なだらかに快復し……やがて、落ち着いた寝息へと変化する。
「……ありがとう」
 独りでに、言葉が漏れた。涙が、こぼれた。
 サイファを胸に抱き締めたまま、ユウザは、しばし涙した。
 溢れ出る涙の意味は、上手く説明できない。嬉し涙≠ニ呼ぶには不適当な、あまりにも複雑な感情が胸に渦巻いている。
 ただ、この腕に[]いた命が、限りなく愛しい。
(……とりあえず、皆に無事を知らせねば)
 頬を伝う涙を拭い、ユウザはサイファを横抱きにして立ち上がった。その拍子に、彼女の掌から何か≠ェ二つ、零れ落ちる。
 一つは、玲瓏と輝く水華石の指輪。そして、もう一つは……。
 目を[すが]めて、その物体を認めた瞬間――全身を凄まじいまでの怒りが貫いた。
「お前は……」
 サイファの煤けた寝顔を見下ろし、低く唸る。
 お前は、[みずか]ら死を選んだのか?
- 2005.06.17 -
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