Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 45 話  [とら]われる
 目が覚めて最初に飛び込んできたのは、今にも死んでしまいそうな、父親の青ざめた顔だった。
「……父……さ……」
 大丈夫? 顔色、悪いよ?
 尋ねようとしたけれど、喉が引き攣れて、上手く声が出せなかった。それどころか、息を吸う度に微かな痛みを覚える。
「サイファ!」
 彼女の手を奪い取るように握り締め、言葉もなく泣き崩れたトーギの姿に、サイファはようやく今の状況を理解した。
 ああ、死に損なったんだ――。
 深い失望が、一瞬、胸に去来した。しかし、それと同時に、死ねなくて良かった、とも思う。
 もし、自分が死んでいたなら、父は今度こそ、生きる気力を失ってしまっただろうから。
『お前たちが居てくれるから、父さんは生きていられるんだ』
 ライアの死後、トーギは、何彼[なにか]につけ、この台詞を口にした。
 そして、その言葉が父親の本心である事は疑いようが無く、それを聞く度、サイファは、父のためにも生き続けなくては、と殆ど義務感のように思ってきたのだ。
 それなのに、あの火の海で、その事を考えなかったのは――楽な方≠選んでしまったのは、自分の弱さと我侭だ。
 今、こうして生かされて≠「るのも、そんな自分に科せられた罰なのかも知れない……。
「ごめ……ね、父さ……」
 謝罪の言葉を絞り出すと、トーギは顔を上げ、微笑した。
「何を謝っているんだい。お前は良く頑張ってくれたよ」
 そう言って、枕元に立て掛けてあった小さな額に手を伸ばす。サイファが持ち出した、あの風景画だ。青白い画面の、白夜の雪原。
「お前が無事だっただけで十分なのに、その上、大事な思い出まで救ってくれた……」
 画板に視線を落とし、再び瞳を潤ませる。これ以上を望んだら罰が当たってしまう、と。
 サイファは、込み上げる罪悪感を胸の内に押し[とど]めた。ずっと[とど]めて、隠し通さなくてはならなかった。
 トーギは、きっと思いも寄らないのだ。娘が、半ば進んで死を受け入れようとしていた、などと……。
(ごめん、父さん)
 心の中で、もう一度だけ謝って、サイファは顔を上げた。
「とこ……でさ、こ……何処?」
 もぞもぞと上半身を起こしつつ、見覚えの無い部屋に視線をさ迷わせる。
 葡萄の蔦模様の白い壁紙で覆われた室内は、こざっぱりとして、夜風が穏やかに流れ込んでいた。
「村長さんのお宅だよ」
 わずかに肩を落とし、トーギは困った表情を浮かべた。
「家は焼け落ちてしまったからね。暫く、ご厄介になる事になったんだよ」
「そう……」
 吐息とともに呟いて、サイファは静かに項垂れた。
 あの時、素直に水華石を使っていれば、恐らく全焼は免れたのだろう。自分の身勝手すぎる判断が、被害を大きくしてしまった……。
 耐え難い程の後悔に襲われ、息が苦しくなる。
 サイファは、深く呼吸しようとして、はっとした。
「そ……だ! 父さ……ケレ……はっ!?」
 炎に巻かれる前に、からがら逃がした赤子の狼は、無事だったのだろうか?
「大丈夫。火傷一つ負っていないよ」
 トーギは笑顔で頷き、それから、サイファが思ってもみなかった事を口にした。
「ケレスには感謝しなくてはならないね。あの子がお前の居場所を教えてくれたから、辛うじて間に合った、と殿下も仰っていたよ」
「……殿下?」
 サイファはドキリとして、身を強張らせた。にわかに、胸が騒ぎ出す。
「あの……あたし、ど……して助か……たの?」
 誰が、助けてくれた?
「殿下が御身の危険も顧みずに、あの火の中に飛び込もうとして下すってね。そればかりか、虫の息だったお前に蘇生術まで施して下さって……本当に、もう、何と御礼を申し上げたら良いのか……」
 最後の方で、トーギは言葉を詰まらせた。まるで、目の前にユウザ・イレイズが居るかのように両手を合わせる。
「今日はもう遅いから、明日の朝、ちゃんと殿下に御礼を申し上げに行くんだよ?」
 父の言葉に、サイファは黙って頷いた。頷く以外、出来なかった。
(どうして……)
 包帯の巻かれた両腕を胸に引き寄せ、[こうべ]を垂れる。
(どうして、あたしを助けたりしたんだよ?)
 ユウザにとって、自分がただの奴隷でしかないという事実は、彼自身の口から嫌というほど思い知らされた。
 だから、よけい解らない。
 たかが奴隷のために命を賭けようとする、その真意が――。
 サイファは、考え事をする時の癖で、左の耳に――母の形見に指を伸ばした。だが、そこにあるはずの金属の感触を得られず、あっ、と呟く。
「どうかしたのかい?」
 サイファの声に、トーギが首を傾げた。
「ううん! 何で……」
 何でも無い。いつもの調子で答えようとしたら、再び喉がつっかえて、咳が出た。
「無理をしてはいけないよ。喉を火傷しているんだから、もっと大事にしなさい」
 今、薬を貰ってくるからね、と言って、トーギは部屋を出て行った。
 サイファは、喉元を両手で押さえながら、漆黒に暮れた窓の外に、じっと目を凝らした。
 足元で、乾いた砂利が音を立てる。
 夜半過ぎ、皆が寝静まったのを見計らい、サイファはこっそりと村長宅を抜け出した。乏しい月明かりを頼りに、真っ直ぐ我が家へ――我が家の跡地へと向かう。
 こうやって深夜の闇を歩いていると、自分が狩人として生活していた頃の事が思い出された。暗がりで息を潜め、眠れる獣を撃ち、暁の光を浴びて家に戻る……。
 毎日、毎日、同じ事の繰り返し。穏やかで、平凡で、満ち足りた日々だった。それが狂ってしまったのは――。
(あたしがルドさえ狩らなければ、こんな事にはならなかったのかもな……)
 緋色の空を舞う、雪白の鷲。
 その美しさに心奪われたりしなければ、巡り合わずに済んだのだ。この身の一切を捕らえて放さない、勇猛で艶麗なる男神とも。
 サイファは短く息を吐き出した。
 見事に焼け崩れた家が、薄ぼんやりと佇んでいた。
 辺りには、まだ焼け焦げた建材の匂いが漂っており、辛うじて原型を留めた外壁の一部だけが、長年住み慣れた我が家の、唯一の名残だった。
 不思議と涙は出なかった。
 目の前に広がる光景が、とても現実とは思えなかった。現実だなんて、信じられなかった。
 サイファは、自分が最後に蹲った場所に歩み寄り、そこで、しゃがみこんだ。闇の中、四つん這いになって、両手を地面に滑らせる。
(どうか、残っていますように)
 儚い望みを抱きながら、しばらく無心に手探りしていると、ふいに背後が明るくなった。反射的に振り向いた瞬間、角灯の炎が目に飛び込み、思わず目を瞑る。
「捜し物は、これか?」
 光の奥から、[なめ]らかな男の声がして、サイファはビクッと肩を揺らした。火影に照らし出されているのは、死を覚悟した直前、瞼に描いた顔だった。
「……ユウザ」
 己の唇から、無自覚に、その名がこぼれ落ち、サイファは動揺した。最後に彼と交わした険悪な会話や、強引に押し当てられた唇の感触がまざまざと蘇り、体が熱くなる。
 一方のユウザは、いつもの無表情のまま、顔の前に掲げた角灯を幾分下ろした。
「お前が捜しているのは、これだろう?」
 もう一度、同じ質問を繰り返しながら、自分の手元を照らし出す。その掌に乗っているのは、紛れもなく、彼女が探していた金の耳飾りであった。
「あぁ、ありがとう……!」
 我知らず安堵の息を[]き、サイファは飾りに手を伸ばした。
 しかし、彼女の指が触れる前に、ユウザは飾りごと掌を握りこみ、腕を引いてしまった。
 困惑して見返すと、彼の瞳が真正面からサイファを捉えた。
「返す訳にはいかぬ」
 その眼差しの強さに、鋭さに、そして、いつかと同じ冷たさに、熱かった体が、たちまち凍りつく。
「ど……して?」
 一呼吸置いて、サイファは尋ねた。その声が掠れたのは、火傷のせいなのか、恐怖からくる緊張だったのか、よく判らない。
「どうして?」
 芝居がかった調子で、ユウザは鸚鵡返しした。
「言ったはずだ。死人の守≠ネどという迷信が、お前の精神を安定させているならば、それは、それで構わない。だが、そんな物のせいで自分を失い、死を願うようなら、私が壊してやる、と」
 淡々と紡がれる言葉の端々に、鋭い切っ先が見え隠れする。そんな話し方だった。彼は、明らかに怒っていた。
「何だよ、それ。言ってる事が、全然、解んないよ」
 ユウザの責めるような視線を[かわ]し、サイファは平静を装った。
「何で、母さんの形見が焼け残っていたからって、あたしが自分から死のうとしたって事になるんだよ? この耳飾りが無事だったのは、単なる偶然じゃないか」
 妙な言いがかりは止してくれ、と言わんばかりに、鼻先で笑ってみせる。
 死を願ったのは真実だけれど、それを認めてはいけないと思った。認めたら最後、自分の心に秘めたものを、何もかも彼に晒さなければならなくなる。
「偶然だと?」
 ユウザの声に軽い嘲りが混じった。よく言う、と呆れたように呟いて、サイファに向けて何かを放ってよこす。
 とっさに受け止めたそれは、水華石の指輪だった。
「私がそれを、何処で見つけたと思う? お前の掌の中だ。それも、この忌まわしい呪物と一緒にな」
 湧き上がる激情を無理やり抑え込んだような、低いしゃがれた声音で吐き捨てて、ユウザは金の耳飾りを足元に[なげう]った。
「生≠ノ執着があるのなら、その石を迷わず使ったはずだ。だが、お前はそうしなかった。自ら進んで死≠選び取ったからだ。違うか?」
 曇りのない緑玉の瞳は、その完璧なまでの透明さゆえに、一層冷たく、無慈悲に見えた。しかし同時に、掬っても、掬っても、指の間から零れてしまう水のように、取り留めのない物寂しさを感じさせる。
「……最初は、使おうと思ったんだよ。でも、まだ、あんたのお母さんに御礼を言ってなかったから……」
 観念して、ぼそぼそと言い訳を始めると、彼の表情が一変した。
「ふざけるな! お前が、自分の命と引き換えに、その石ころを守ったところで、何になる? そんな下らぬ理由でお前が死んだと聞かされて、私の母が喜ぶ、とでも!? 馬鹿も休み休み言え!」
 ユウザの怒声が、ぴりぴりと肌を刺す。
「お前は、ただ、死んだ母親に対して筋違いな罪の意識を感じて、己に降りかかった不幸に酔い痴れているだけではないか!」
 脳天から、真っ二つに割り裂かれたような心地がした。
 驚愕、呆気、落胆、憤怒。
 種々の感情が一時[いちどき]に駆け巡り、サイファは声を戦慄[おのの]かせて叫んだ。
「……あんたに……あんたなんかに、あたしの気持ちが解ってたまるか!!」
 愛する母が日に日にやつれていく様を見ながら、何もしてやれず、ひたすら神に祈る日々。祈っても、祈っても、願いが届く事のない虚無。転寝から覚めた時、既に事切れていた母親を目にした刹那の、言葉にならない、あの絶望!
 その瞬間、自分は確かに死んだのだ。幾ばくかの使命感と、躰という脱け殻を残して。
「自分から死を願って、何が悪い!? 母さんが死んでから、この六年間、あたしは自分が何時になったら死ねるのか、そればっかり考えて生きてきたよ。毎晩、眠りに就きながら、このまま、あの世に行けますようにって、祈り続けて。でも、死ねなかったし、死ななかった! あたしが死んだら、父さんやラヴィが困るし、二人に、また、あんな想いをさせちゃいけないって、ずっとずっと我慢してたんだ!」
「ならば、なぜ、もっと我慢しなかった?」
 血を吐くように心情を吐露したサイファに、ユウザが非情とも思える問いを差し挟んだ。
「家族のために死ねないと言うなら――生き続けるしかないのなら、この先も我慢を重ねるより他あるまい? それなのに、未遂とは言え、お前は今日、生きる事を放棄した。それは、家族を捨てても良いと思ったからだろう? ラヴィが、お前と同じ悲しみを背負う羽目になっても、構わないと思ったのだろう?」
「違う!」
 サイファは大きく[かぶり]を振った。
「あたしは、そんな事、望まなかった!」
「望むと望むまいと、結果は同じ事だ」
 反論する隙も与えず、ユウザは淡然と言い切った。彼らしいと言えば彼らしい、取り付く島もない言いようだった。
「どうやら、私は要らぬ世話を焼いてしまったらしい。お前が、そこまで死を熱望しているとは、考えもしなかったからな」
 お前を助けんとして懸命になった自分が馬鹿に思える、と冷めた瞳で苦笑する。
「どうする? まだ、その気があるなら、好きにして良いぞ?」
 今度は邪魔しないでやる、と言って、ユウザは腕組みした。
「……いいのか? あたしが死んでも」
 思いがけず、声が震えた。自分を見返すユウザの表情は飽く迄も冷静で、とても冗談事には見えなかった。
「ああ。どうせ、お前を都に連れ帰っても、面倒が増えるだけだからな。生ける屍のような女など、抱く気にもならぬし。陛下には、私から適当に言っておいてやろう」
 だから、安心して死ね。
 そう、言われた気がした。
「……人でなし」
 考える間もなく、悪態が飛び出していた。喉の奥が干乾びたように痛む。
「何を言う」
 ゆったりと、ユウザの口元に酷薄な笑みが広がった。
「お前は死を望んでいるのだろう? それとも、何か? 死にたいというのは、狂言か?」
 その侮蔑し切った口ぶりに、サイファが激昂し、言葉を失くした直後だった。
「……ああ、そうだ。いくら自殺志願者でも、未練の一つや二つはあるだろうからな。私が一つ、消しておいてやろう」
 良い事を思いついたとでも言わんばかりに、ユウザは微笑んだ。そして、目にも留まらぬ早業で腰の長剣を抜き払い――。
「やめてっ!!」
 サイファは、大地に――耳飾り目がけて振り落とされようとした刃の下に、無我夢中で飛び込んだ。その結果、自分の体がどうなるかなど、考えもせずに。
「お願いだから! あたしから、母さんを二度も奪わないで……!」
 涙が堰を切ったように溢れた。
 取り繕う余裕も、自尊心も、瞬く間に消え失せた。見っとも無く地に這いつくばったまま、両手で顔を覆う。
 あの約束が交わされたのは、いつの事だったろう?
『母さんの耳飾り、綺麗だねぇ』
 美しい母の横顔を彩る、金色の耳環[じかん]。左の耳たぶに微かな振動を受ける度、無数の光が生まれては消えた。
『ふふ、素敵でしょう?』
 うっとりと見蕩れるサイファに、ライアは耳飾りと同じくらい煌く笑顔を返してよこした。
『サイファも、欲しい?』
 銀糸のような髪を耳にかけながら、小首を傾げる。再び、光が弾ける。
『欲しい!』
 熱意をこめて頷くと、ライアは思案するような顔になった。
『……駄目?』
 中々返事が無いので、サイファは遠慮がちに尋ねた。
『いいえ、駄目という事は無いの。ただね、これは大切な方から頂いた、この世でたった一つの物だから……』
 ライアは、何処か、遠くを見つめるように目を細めてから、そうね、と呟いた。
『そうね、サイファが十五歳になったら、譲ってもいいわ。大人になったお祝いにね』
 にっこり笑って、サイファの額に唇をつける。
『本当? 約束だよ?』
『ええ、約束』
 永遠に、約束が果たされる事は無かった。
 しかし、成人の祝い≠ニなるはずだったそれは、母の面影を偲ばせる形見≠ニして、また、娘を現世に繋ぎ止めておく枷≠ヨと役目を変え、受け継がれた。
 ライアの魂は、今も耳飾りと共にある。誰が何と言おうと、サイファの中では、それが真実だった。
 頭上で、静かな溜め息が漏れた。
 我に返り、首をねじって見上げると、剣先が中空でぴたりと止まっていた。初めから、脅しのつもりだったのだろう。
 ユウザは剣を鞘に収めると、サイファの前に片膝を着き、角灯を地面に置いた。それから、極めて自然な仕草で彼女の腰に手を回し、自分の胸に凭れさせるようにして抱き起こす。
「放……せっ!」
 彼の腕の中に、すっぽりと閉じ込められた形になったサイファは、分別の無い子供のように全力で抗った。
 自分を抱き寄せる彼の態度に性的な雰囲気は微塵も無く、むしろ労わりに満ちていた。だが、その安らか過ぎる程の優しさが、サイファに[こら]え切れない嫌悪感を抱かせた。
 何とも思っていないくせに――愛してもいないくせに、自分を大事に扱うユウザが憎い。自制心を失った女を宥めるためだけに、こんな風に甘い顔を見せられる、彼の不実が許せない。
 全力で暴れたが、彼は全く動じなかった。サイファが身動ぎ一つ出来ないくらい、きつく抱きしめておいて、耳元に囁く。
「この六年間……死ぬことばかり考えてきたと、お前は言うが、本当に幸せを感じた事は無かったのか? 生きていて良かったと思えた瞬間が、ただの一度も有りはしなかったのか?」
 彼の言葉が、そぼ降る雨のように、サイファの心を濡らした。
「よく思い出せ。少しくらいは、あっただろう?」
 あやすような、諭すような、しかし、内心では否定される事を恐れている、そんな頼りなげな口ぶりだった。
 硬くなっていた体から、一気に力が抜け落ちる。
 幸福の欠けらは、幾らも散らばっていた。でも、自分は見ないふりをした。それらを拾い集めて、大きな幸せに変える努力をしなかった。自分が殺した母を忘れて、明るく楽しく生きるなんて、とてもじゃないが出来なかった。
「……あたしは母さんを愛してた。今でも、ずっと……愛してる……」
 サイファは、肩を揺らして嗚咽した。
 自分はきっと、一生、母を想って泣き続ける。何年後も、何十年後も、多分、死ぬ間際まで。
 その時、ユウザが腕を[ほど]き、彼女の頬を両手で包んだ。心地好い温もりが肌に染み込む。
「……過去を振り返るな、とは言わない。母親の死を忘れろ、などと言うつもりも無い。だが、お前は今≠生きている」
 落ち着いた力強い声が、耳を打つ。
「死ぬな」
 これまでサイファに下されてきた命令の中で、最も傲慢な一言を放り、彼は、ふっと切なげに眉を寄せた。
 突然、心臓が狂ったように躍りだす。
 目の前にある、彫刻めいたユウザの顔。そこに浮かんでいたのは、何かを求めて已まないような、それでいて、必死に拒んでいるような、苦しげで、不可思議で、酷く官能的な表情だった。
「……それは、命令?」
 サイファは、そっと唇を湿らせ、喉を鳴らした。既に限界まで達していた渇きが、いよいよ耐え難く、苦痛を訴え始める。
「いいや」
 わずかに目を逸らし、ユウザは彼女の頬に添えていた指を離した。
「そうあって欲しいと思う、私の希望だ」
 その長い指先が、埃に[まみ]れた耳飾りを摘まみ上げ、丹念に汚れを拭う。
「ほら――」
 掌に載せて差し出されたそれを、サイファは暫し見つめた。そして、先程、彼がしてみせた事を自らの手で行う。
 ユウザの掌を、両手を使って握らせて、押し戻す。
「何を――?」
「預かってて」
 怪訝に眉をひそめた彼を遮り、サイファは顔を上げた。
「あたしには、それを捨てる事なんて出来ないし、手元にあると、どうしても頼っちゃうから」
 あんたに預けておく。
 これが、今の自分に出来る、精一杯の背伸びだった。母の気配を残しながら、それでも、前を向いて歩き出すための……。
「……そうか」
 サイファの決意を解ってくれたのだろう。ユウザは伏し目がちに頷くと、握った手を緩やかに開いた。
 それから、おもむろに首を傾けて、たった今、預かったばかりの耳飾りを[みずか]らの左耳朶[じだ]穿[うが]つ。
「あっ……!」
 止める間も無い、流れるような動作だった。彼の薄い耳たぶに、鮮やかな[しゅ]が滲む。
「失くさぬためには、これが一番、手っ取り早い。それに――」
 彼女の視線を受けて、ユウザは、ついと顔を上げた。
「元々、私は、お前の御守代わりだからな」
 好きなだけ頼れば良い、と口の端に淡い笑みを乗せる。
 その瞬間、サイファの中で何かが胎動した。
 母の形見を身に着けたユウザが、自分の御守になってくれる。傍に、居てくれる。寄りかかってもいい、と言ってくれている。
 それは、この上もなく魅惑的で、眩暈がするほど甘美な申し出だった。
 例え、この台詞が其の場限りの口約で、ユウザにとっての自分は、やっぱり只の一奴隷に過ぎなかったとしても、全然少しも構わない、と思えた。
 彼にどう思われていようと、どうされようと、もう、どうでもいい。
 愛されなくても、仕方が無い。
 自分が、愛さずにいられないのだから……。
「……ありがとう」
 頬を濡らす涙を拭い、サイファは、真っ直ぐにユウザを見つめた。
 完全に、囚われた、と思った。
- 2005.08.21 -
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