Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 47 話  砂漠[さばく][たみ][いし][ちょう]
「引き返せ」
 やっとの思いで追いついたサイファに向かって、ユウザは素気[すげ]なく言い放った。その顔に浮かぶのは、予想通りの難色ばかり。
 しかし、彼女はめげなかった。
「嫌だ」
 冷たい緑玉の瞳を見つめ、決然と言い返す。
 それは、迷惑だろうとは考えた。足手まといになるかも知れない、とも思う。
 だが、彼の一大事だからこそ、傍についていてあげたいと思った。大切な人を失うかも知れないという不安の只中に、彼を一人で置いておきたくなかった。
 例えそれが、何の力にもならない、単なる自己満足に過ぎなくとも。
「あたしも一緒に帰るよ」
 サイファは声の調子を改めた。真剣さが伝わるよう、表情も引き締める。いい加減な気持ちで追ってきたとは、思われたくなかった。
「……グラハムから、事情を聞かされなかったか?」
 眉間に寄せた皺を揉み解すように押さえながら、ユウザは溜息まじりにサイファを見下ろした。はっきり言って、お前に構っている暇などない、と。
「別に構ってくれなくていいよ。あたしが勝手に付いて行くんだから」
「そういう問題ではない。私が何のためにグラハムを残してきたと思うのだ」
 ユウザは、クシャリと前髪を握るようにして掻き揚げた。彼にしては珍しく、苛立ちを隠そうともしないその態度が、事の重大さを物語っている。
 サイファは、沈みそうになる気持ちを抑えて、反論を試みた。
「邪魔なのは判ってるけど――」
「ならば、遠慮してもらいたい」
 間髪を容れず返されて、言葉に詰まる。自分を見返す彼の瞳もまた、いつになく真剣だった。
「――さ、行こう。クロエ」
 それを潮とばかりに、ユウザが背を向けた。路肩に繋いだ天馬へ歩み寄り、サイファを無視して出発の支度にかかる。
 その後姿を見つめながら、サイファは、今一度、胸の内で自分自身に問い返した。
 ユウザが自分を置いていった時点で、彼の考えは判り切っていた。こうして邪魔者扱いされるのも、想定内の事である。それでも、自分は彼を追ってきた。
 不安と独り戦う、彼の為に。彼の事が心配だから――。
 そこまで考えて、自嘲した。
(そうじゃない)
 確かに、彼を気遣う気持ちに嘘はない。彼の傍に居ることで、少しくらいは役に立てる事もあると思う。
 だが、それより何より、自分自身が、彼と一緒に居たいのだ。片時も離れたくないと願っているのは、自分の方なのだ。
 サイファはユウザの元へ真っ直ぐに歩み寄り、手綱に伸ばしかけた彼の腕に、そっと触れた。こちらに顔を向けるユウザと目が合う前に、逃げるように視線を落とす。
「どうしても、一緒に行っちゃ駄目?」
 思いがけず、声が震えた。頭上で、一瞬の間と、明らかな拒絶の気配を感じ、遮るように続ける。
「……あんたの傍に居ることが、奴隷[あたし]の望みだとしても?」
 軽く触れていただけの筈だった滅紫[けしむらさき]の袖を、いつの間にか強く握り締めている自分に気づく。
 暫し、沈黙が流れた。
 その静寂が酷く長く、居た堪れなさを帯び始めた頃、ユウザの唇から、深い吐息がこぼれた。
「あと五分だけ、スゥーラを休ませてやれ」
 ヘラネスの手綱から手を離し、俯いたままのサイファの頭を軽く小突く。
「ヒリングワーズに着くまで、休憩は取れないからな」
 覚悟しろ、と。
「うん!」
 サイファは伏せていた顔を上げ、力いっぱい頷き返した。
「クロエ、すまないが、もう少しだけ待ってくれ――」
 そう言って、素早く踵を返したユウザの左耳が、木漏れ日を受けて強い光を放った。
 一行がヒリングワーズに着いたのは、昼時に差しかかる前の、中途半端な時刻だった。帝都行きの船が出るまでには小一時間ほど間があり、かといって、本格的な昼餉を取れるほどの余裕も無い。
 ユウザとクロエ・カートラムが乗船の手続きやら、今後の打ち合わせやらをしている間、サイファは手持ち無沙汰だった。
 観光客と思しき人の群れに視線をさ迷わせながら、何となく、左手で抱えたルドの背中を、そろそろと撫でてみる。
(……全く、あいつの言う通りだな)
 いつだったか、ユウザに言われた事を思い出した。
『愛玩動物は飼い主に似るというが、お前たちは双子のようだな』
 もちろん、サイファとて、このような状況でルドを連れて来るつもりなど毛頭なかった。しかし、気づいた時には既に遅く、自分の後を追ってきてしまっていたのだ。
 主人の了解も得ずに勝手について来たところといい、天馬の後をガムシャラに追ってきた向こう見ずといい、なるほど、飼い主そっくりだと認めざるを得ない。
「お前も、あたしも、ホント、バカだね」
 ルドと視線を合わせて微苦笑した時だった。
「ちょいと、そこのお嬢さん! お暇だったら、覗いてお行きよ!」
 通りの斜向かいにある土産物屋の女が、満面の笑みでサイファを手招きした。年の頃は四十半ばか、女の傍らでは、彼女の子供と思われる小柄な娘と、十にも満たない少年が懸命に呼び子をしている。
 サイファは、行って良いものか、躊躇した。横のユウザたちに目を向けると、彼らは相変わらず地図を片手に話し込んでいる。
(……出発まで、だいぶ時間があるし……ま、いいか)
 振り返れば、すぐ彼らの姿が見える場所である。迷子になりようがない。
 サイファは足下に置いてある荷物とルドの片脚を紐で繋ぐと、賑わう通りを渡った。白い鷲を肩に載せて歩く事の効能と無謀さは、コメンタヴィアの港で思い知らされている。
「あんた、随分と綺麗な御髪[おぐし]をしていなさるねぇ」
 通りの向こうからでも目につくよ、と言って、女は日に焼けた顔に笑い皺を浮かべた。お愛想と判っていても、悪くない笑顔だった。
(良かった、バレてない)
 さすがにヒリングワーズ程の大きな町になると、幸福な銀の娘≠フ噂も隅々までは行き渡っていないらしい。サイファは胸を撫で下ろした。
「でもね、この香油で手入れをしたら、もっとツヤッツヤになれるんだから!」
 試してみるかい? と言うなり、女は返事も待たずに茶褐色の壜を傾けかけた。
「いや、髪油は間に合ってるよ。それより、こっちのは何だい?」
 こんな店頭で髪をベタベタにされては堪らない。サイファは隣に置いてあった適当な小瓶を指差し、慌てて女の注意を逸らした。
「ああ、それは眠り薬だよ。ヒリングワーズでしか採れない水草から抽出した、貴重な代物でね。それを一口飲めば、リュフォイのように寝返りする暇もなく、泥のようにぐっすりさ」
「へぇー……」
 ふいに、皇居での眠れぬ日々が頭を過ぎり、軽く心を動かされた。
 いくら里帰りを果たしても、生まれ[いづ]る悩みは尽きない。無意識に溜息が漏れた。
 表向きは前と変わらぬように見えるユウザが、内心、サイファをどう思っているのか、見当もつかなかった。
 離れたくない一心で必死に追い縋ったものの、あの調子で、いざ戯れに求められたりしたら、自分はどうするのだろう? どうすれば良いのだろう?
 初めての、それも愛情の無い営みに、果たして耐えられるだろうか……?
 そんな事を、ぼんやり考えていた時だった。
「痛っ……!?」
 不意に背後から髪を引っ張られ、サイファは顎を仰け反らせた。
「何するんだよっ!」
 怒鳴ると同時に振り向いた瞬間、喉が凍りつく。
 思いがけないくらい間近に、見知らぬ男の顔があった。
 浅黒く焼けた肌が若々しい、異国の面立ちだ。濃い眉と高い鼻梁。砂漠の民特有の黒い日除け布で頭部を覆っているため、髪の色は判らない。切れ長の一重瞼の奥から覗く黄玉色の瞳が、じっとサイファを見据えている。
「珍しい毛並みをしているな」
 彼女の髪を一房、しっかりと握り締めたまま、青年は薄く笑った。異国訛りのイグラット語が、力強い低音で流れた。
 その時、ふいに得体の知れない恐怖で肌が粟立った。
「放せっ!!」
 捕らえられた髪を必死に奪い返し、男を睨みつける。
 笑み崩れた容の良い唇とは裏腹に、青年の、人を値踏みするような鋭い瞳が不気味であった。
「そう邪険にしなくても良かろうが」
 苦笑を漏らし、男は、ふっと目尻を下げた。途端に、先ほどまでの凄みが消え、やんちゃな少年のような、あどけなさが浮かぶ。
「異国からの旅客には、親切にするものだぞ」
 唇を尖らせながら、彼は土産物屋の女主人に向き直った。
「――これをくれ」
 陳列棚を無造作に指差して男が買い求めたのは、蝶の形に細工された水華石の櫛だった。土産物屋で扱っている物とはいえ、暦とした魔石の結晶。それなりに値が張る品である。
「はい、只今」
 ホクホクとして女が包もうとするのを制し、彼は受け取った品をあっという間にサイファの髪に挿してしまった。
「ちょっと!」
 慌てて抜き取ろうとする彼女の腕を痛いほど強い力で押さえつけ、男は囁くように問うた。
「お前、名は?」
「言いたくない」
 何となく、名乗ってはいけないような気がして、サイファは、きっと唇を結んだ。これ以上、厄介ごとに巻き込まれてはならない。
「可愛げのない女だ」
 大仰に肩をすくめるなり、男は握っていた腕をグイと引き寄せ、何を思ったか、いきなり手首に噛み付いてきた。
「痛いっ!」
 サイファは殆ど反射的に男の脛の辺りを蹴り上げ、それを男が避けようとした隙をついて、腕を振り切った。肉を噛み千切られるかと思った通り、白い左腕には、男の歯型に沿って、赤々と血が湧き出ている。
(逃げなくちゃ)
 ドクドクと疼く傷口を右手で覆いながら、我知らず奥歯を噛み締めた。やはり、最初の勘が正しかったと思った。一瞬でも、男の幼い笑顔に気を許したのがいけなかったのだ。
「可愛げはないが、生きは良い」
 口の端についたサイファの血を舐め取りながら、男は愉しげに目を細めた。彼女が油断した、あの子供じみた笑顔。その奥に、どんな感情を隠しているのか全く読めない。
 男と対峙しながらも、サイファは、そっと背後に目を遣り、愕然とした。さっきまで見えていたユウザ達の姿が、忽然と消えている。
 勝手に離れるのではなかったと悔やんでも、後の祭り。
 サイファは、じりじりと後ずさりして――誰かとぶつかったと思った時には、体が宙に浮いていた。
(なっ……!?)
 抱き上げられたのだと認識するまでに、一瞬の間があった。
 ぎょっとして顔を上げると、外套についた頭巾を目深に被った男の、若々しい口元が目に飛び込んできた。
 その艶やかな唇から、世にも冷たい声が発せられる。
「これは私の奴隷[もの]だが――」
 ゆっくりと言葉を紡ぎ、彼は慇懃に首を傾げた。何かご無礼でも?
 サイファは、心臓が大きく一つ鼓動するのを感じた。
 私の奴隷[もの]≠セと言い放たれた、正にその時の、自分を抱いているユウザの腕に込められた力の強さを、不覚にも心地好いと思ってしまった。
「何だ、もう御手つきか」
 いささか落胆したように呟き、男の関心がユウザへと移った。そして、サイファの体で両腕が塞がっている彼の頭巾の端を、ひょいと指で摘み上げ――。
「ほう、これは、また……」
 男は言葉を失った。
 下から見上げる格好で見守っていたサイファも、どきりとした。
 無言で男を見据えるユウザの顔には、一種異様な気配が漂っていた。感情を抑えた冷厳な眼差しが、ぞっとする程の霊気を帯びている。
「そなた、名は何と仰る?」
「名乗るほどの者ではない」
 男の問いを、ユウザがぴしゃりと撥ねつけた、転瞬。
(なに考えてんだ、こいつ?)
 男の[おもて]にあからさまな愉悦が広がるのが、サイファの目にも判った。
 言葉を発しなくても伝わる、ユウザの筆舌し難い殺気に恐れをなすどころか、彼は確かに微笑んでいた。それが、ユウザ本人に伝わらない訳がない。
 ……のだが。
「御用がなければ、これにて失礼つかまつる」
 サイファを抱えたまま、ユウザは、さっさと踵を返してしまった。
「あ、ちょっと待って、これ返す!」
 片手でユウザの肩に縋りながら、もう一方の手で自分の髪に留まっている瑠璃色の蝶を引き抜き、男に向かって放り投げる。
 それを一旦は受け止めた男が、すぐさま投げ返してよこした。
「治療代だ。取っておけ」
 戻ってきた櫛を、つい受け取ってしまったサイファを見届け、不敵な笑みを浮かべる。
「いずれ、また会おう。その腕の傷が治り切らぬ内に、な」
 ひらりと黒衣の裾を翻し、こちらも背を向けてしまった。
「構わぬ。貰っておけ」
 ふと足を止め、振り返ったユウザが、人混みに紛れて行く男を見遣りながら言った。その視線は、男の姿が完全に見えなくなるまで向けられていた。
 早速、迷惑をかけてしまった。
「……ごめん」
 自分の軽率さに嫌悪感すら覚えつつ、サイファは素直に侘びを入れた。勝手にふらふらしてた、あたしが悪い。
「全くだ」
 言下に頷き、ユウザは、サイファを抱え上げたまま、再び桟橋に向かって歩き出した。その数歩後を、いつの間にか、ユウザと同じように深々と頭巾を被ったクロエがついてくる。
「もう、降ろしていいよ」
 いつまでも抱かれたままの状態がにわかに恥ずかしくなってきて、サイファは身動ぎした。
 ユウザは黙って彼女を下ろすと、先に立って船に乗り込んだ。天馬は、既に船倉の一角に設けられた厩に預けてあるという。ルドも一緒に。
 行きの船よりは幾らか格が落ちるものの、それでも十分に立派な船室に落ち着くと、クロエだけがすぐに部屋を出て行った。
 ユウザに断りも無く行動しているところを見ると、二人の間で全て話が着いているようだった。しかし、それにしても無口な男だと思った。
(……早く手当てしなくちゃ)
 サイファは熱をもったように痛む腕を握り締め、眉をひそめた。滲み出た血は、幸い止まっていた。
 傷口を洗うため、備え付けの水差しを目で探し求めた時、目的の物が彼女の前に音も無く置かれた。ついでに洗面器も。
「ほら、腕を出せ」
「いいよ、自分でやるから――」
「片手では難しい」
「……ありがとう」
 遠慮するサイファを正論で黙らせ、ユウザは水差しを傾けた。冷たい水が、サラサラと腕を流れ落ちていく。
「沁みるか?」
「ううん、平気」
 ユウザの細やかな気配りは相変わらずで、サイファは潤む瞳を意識しながら、水をかけ続けてくれる彼の横顔を盗み見た。
 この優しさは、何て残酷なんだろう。
 愛されなくても仕方がない、という諦念と、それでも、愛されたら、と願ってしまう希望の狭間で、身動きがとれなくなりそうだ。
「あの男――」
 彼女の腕を手拭いで念入りに拭きながら、ユウザが口を開いた。
「何と言って、お前に声をかけてきた?」
「珍しい毛並みをしているな、って……」
 思い出して、サイファは今更ながらに不愉快になった。毛並み≠セなどと、まるで人を家畜みたいに。
「それだけか?」
「うん」
「他に何か言わなかったか?」
「さあ……異国の旅客としか」
 男との会話を丁寧に思い返しながら、サイファは首を振った。何処の国の人間だとは言っていなかったが、あの彫の深い面差しは、アンカシタンの民で、まず間違いないだろう。
「そうか」
 頷いて、ユウザは銀色の缶に入った乳白色の軟膏を指に取った。
「それにしても、奇怪[きっかい]な真似をしてくれる」
 忌々しげに吐き捨てて、でも、その乱暴な口調とは正反対の繊細な手付きで、彼女の傷口に薬を摺り込んでいく。
 帝国北部のアザール高原に棲息する、一角獣。その角から作った薬は、擦り傷、切り傷、打ち身、捻挫、火傷……と、ありとあらゆる怪我に効く万能薬で、イグラットの貴重な輸出品の一つでもある。
 サイファは、ユウザに気取られぬようにして、静かに息を呑んだ。さっきまで脈打つように痛んでいた傷より、己の早鐘のような鼓動の方が苦しかった。
 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、ユウザは薬を塗るのを[]め、包帯を巻き始めた。丹念に塗り込められた軟膏から、ふっと、水仙に似た仄かに甘い香りが漂う。
「流れた血の割には、傷は浅いな」
 手際よく作業を進めながら、彼がぽつりと呟く。これなら痕も残るまい。
「うん、良かった」
 あんな男の歯型が一生残ったのでは、堪ったものじゃない。心底ほっとしながら、ユウザの手元を見つめていると、ふと彼も手首に怪我をしていた事を思い出した。
「……なぁ、ルドにやられた傷、どうなった?」
「もう治った」
 あっさり即答した彼の手首には、なるほど包帯は巻かれていない。
「でも痕は……残っちゃったよな?」
「まぁな」
「……ごめん、あたしの所為で――」
「謝るな」
 包帯の端を結び終え、ユウザは顔を上げた。
「あれは、私が好き好んで馬鹿をやっただけだ。お前に咎はない」
 薬と包帯を手早く片付けて、すっと席を立つ。
「――さ、食事にするぞ」
 ぶっきらぼうに言ったユウザは、小机の上に置かれた櫛をちらと見下ろし、薄笑いを浮かべた。翅を開いたままの石の蝶は、まるで標本にされた青揚羽のように、冷たく美しい。
「ところで、アンカシタンの求婚の作法を知っているか?」
「は?」
 唐突な問いに、サイファは顔をしかめた。
「男が女の髪に櫛を挿して求愛し、女がそれに応じる場合は、髪に挿したまま櫛を受け取り、その場で婚約が成立する。だが、断る場合――」
 そこまで言って、彼はくすりと笑った。
「女は男に櫛を投げつけるらしい」
 からかうような目をして、サイファを見る。ちょうど、お前がしたようにな、と。
「あたしは別に、そんなつもりで投げた訳じゃ……!」
「では、知っていたら、受け取っていたと?」
 ユウザが意地悪く揚げ足を取る。
「まさか!」
 椅子を蹴立ててサイファが立ち上がると、反対にユウザは腰を屈めて櫛を取り上げた。それを、すいと彼女の髪に挿してよこす。
「ちょっと!」
 サイファは慌てた。今の話の流れからすると、彼の行為は自分に対する求婚を意味する事になるのでは……。
 しかし、当のユウザは涼しい顔で言った。
「一度断られたのに、櫛を投げ返してよこしたくらいだ。あの男、よほどお前が気に入ったのだろうよ」
 せっかくだから使ってやれ、と全く頓着していない様子。
「それもそうだね」
 サイファは、やけっぱちに頷いた。
「あたしは正真正銘のイグラット人だから、異国の流儀なんて関係ないし!」
 櫛を挿したまま、そっぽを向くと、ユウザが、わざとらしい嘆息を漏らした。
「なんだ、櫛を投げつけてこないのはイグラット流だからか」
 首をふりふり、肩を落としたふりをする。
「せっかく婚約が成立したと思ったのに、とんだ糠喜びだ」
 完全に遊ばれている。
「ああ、そうだよ。残念だったね!」
 あっかんべぇをして、サイファは歩き出した。
「まぁ、何にせよ、お前を異国に攫われずに済んで何よりだ」
 後ろに続くユウザが、嘘か真か、しみじみとした口調で言う。
 だが、もう何を言われても気にしない。気にしていたら、間違いなく胃に穴が開く。これからの自分に必要なのは、眠り薬などではなく、胃薬だったのだ。
「そいつは、どうも」
 軽く受け流して部屋を出た時、彼らを乗せた午後一番の早船は、汽笛を鳴らして岸を離れた。
 明日の正午には、帝都に入れるはずである。
- 2007.12.09 -
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