Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 48 話  暁月[ぎょうげつ][]つる[さき]冥界[めいかい][もん]
 日付が変わって深夜、ユウザは、廊下を行き交う船員たちの、只ならぬ気配で目を覚ました。枕元の時計は、午前二時を指している。
 ちょうどオーランブールに寄港する予定の時刻だったが、港に着いただけにしては様子がおかしい。
 ユウザは夜着の上から外套を羽織り、廊下に出た。すると、既に様子を見てきたらしいクロエが、難しい顔をして戻ってくるところだった。
「何かあったようだな」
 声をかけると、彼はハッとしたようにユウザを見た。
「お目覚めでしたか」
「これだけ騒々しければな。して、何事だ?」
 クロエの表情を見れば、良くない事態である事は一目瞭然であった。
 しかし、返ってきた答えは、こちらの予想を遥かに超えたものであった。
「昨日、ザルツファスト渓谷で崖崩れが起きたとかで……」
 水路を断たれました。
 オーランブールとコメンタヴィアの中間に位置するザルツファスト渓谷は、タンブル川随一の難所として知られている。川幅が、そこだけ極端に狭く、両側が切り立った崖からなるこの谷は、行き交う船が互いに路を譲り合い、擦れ違うのも一苦労である。
 その峡谷の三分の一を崩れ落ちた土石が覆い、復旧は容易でないという。
 一行は、すぐさま船を下り、進路を陸へと切り替えた。
 ザルツファストを迂回して、次の港町ロゼワイヤルから再び船路に戻るつもりである。
 オーランブールからロゼワイヤルまでは、天馬で馳せれば二時間あまり。とんだ回り道だが、このまま留まっている訳にはいかない。
「……もう、半時になるか」
 天馬の様子を見ながら、ユウザは呟いた。
 何だかんだ言っても、オーランブールを発ってから、間もなく一時間が過ぎようとしていた。このまま先を急ぎたいのは山々だったが、そろそろ、天馬を休ませるべきだろう。
 濃い闇の中、周囲に気を配りつつも、ユウザは、これまでに起きた事件を頭の中で整理していた。
 ルファーリで刺客に囲まれた一件、外衣[マント]に縫い付けられていた炎舞石の発火、そして、今回――。
 ザルツファストの崖崩れは、天災ではなかった。炎舞石を使った故意の爆破――即ち人災である。
 詳しい原因は調査を待たねばならぬが、崩落した岩の一部が、極度の高温により、飴のように溶けていたという。これだけの熱量を瞬時に発生させられるのは、炎舞石以外には考えにくい。
 またしても、炎舞石。
 不吉な予感が胸を塞ぐ。
 誰が、なぜ、ここまでするのか?
 その疑問に対する明確な答えは出ていないが、何者かが自分の帰還を阻止しようとしていることだけは間違いなさそうだ。その証拠に……。
「……囲まれましたね」
 並走するクロエが、声を低めて話しかけてきた。
 いつの間にか、三人を挟み込むように、前方に二騎、後方から一騎の天馬が忍び寄っていた。つけられた気配はなかったので、待ち伏せされていたと思われる。
「天馬が三騎、地上にも……普通の馬が八、九……十騎、いや、それ以上か?」
「十五」
 地上に目を凝らし、誰にともなく洩らしたユウザの問いに、後方のサイファがきっぱり断言した。いつだったか、職業柄、夜目が利くのだと語っていた彼女の言葉が、実感を伴って思い出された。
「如何いたしますか?」
 クロエは、先ほどより更に低く押し殺した声で問うた。
「下りるより、道はあるまいな」
 少しずつ弱まっていく天馬の羽ばたきを感じながら、ユウザは腹を括った。墜落するよりは、斬り結ぶ方が未だ良い。
 敵も、天馬が疲弊する頃合いを見計らって、この場所で待ち構えていたものとみえる。
「サイファ、地上に降りたら、お前は、そのまま駆け抜けろ」
 ユウザは前を見据えたまま命じた。
 いくら天馬が疲れていようとも、飛ぶのと違って、走るくらいの余力はあるはずだ。それに、これだけの人数を、彼女を庇いながら捌き切る自信はなかった。
 しかし――。
「馬鹿いってんじゃないよ!」
 彼の指示を、サイファは撥ねつけた。
「こんな時こそ、あたしが役に立つんじゃないか!」
 憤慨した口調で言うなり、彼女は目にも留まらぬ早業で背負っていた弓に矢を番え、瞬く間に右前方の一騎を射落とした。続けて、二の矢、三の矢を、左方の天馬目がけて連射した腕の確かさ。ディールのツェラケディア≠ヘ健在であった。
 思わぬ先制を受け、地上の敵が色めき立つ。月光を受けて、いくつもの白刃が煌いた。
 たまらず下降した敵の天馬を追うように、ユウザたちも高度を落とした。
「クロエ、抜かるなよ!」
 ヘラネスの前脚が地面に着くのと同時に、ユウザは腰の得物を抜き放った。
 左右から一斉に斬りかかられたところを、刀身と鞘を使って押し戻し、返す刀で一人の腕を切りつけた。悲鳴と血飛沫が上がる。
 ユウザは躊躇わずに斬った。
 深追いはしないが、手加減もしない。必要最低限の攻撃で、最大の効果を上げるだけだ。
 そうやって、敵と対峙しながらも、ユウザの意識の一片は、常にサイファの動きに向けられていた。彼女もまた、無駄のない動きで矢を射ては、適度に敵から距離を置いた。
 サイファは、彼が思っていた以上に戦闘慣れした、有能な射手だった。狩りでの実戦によるものか、なまじの弓衆より、よほど機転が利く。
 ユウザはヘラネスの手綱を操りながら、かなりの広範囲を移動しつつ敵を討った。そんな彼の動きに合わせるように、サイファも巧みについて来る。
 一方、クロエの姿は見えない。しかし、闇の中、確かに刃物の交わる音がする。
 こうして、どれほどの時が過ぎたろう。
 少しずつ、動く影が減ってきたのを感じ始めた頃、辺りに甲高い指笛が響いた。その音色は、いつかルファーリの裏道で聞いた、あの合図に酷似していた。
 ユウザは、最後に自分に向けられた凶刃を力強く撥ね上げ、そのまま円を描くように刺客の脇腹を切り裂いた。鋭い悲鳴を上げて、男が膝を落とし、音立てて倒れる。
 それを潮に、辺りに静寂が戻った。
 深く息を吐き、ユウザは馬を下りた。両腕に、人を斬った後の重苦しさが残っている。
 しかし、ぼんやりしてはいられない。うつ伏せに事切れている男の遺体を仰向けにし、懐を探るも、身元がわかるような所持品は何一つなかった。
 月明かりに薄ぼんやりと照らされた顔にも、もちろん見覚えはない。何処にでもいそうな、平凡な顔をしたイグラット人だ。
 ユウザは、ゆっくりと立ち上がると、刀身に拭いをかけた。
「怪我は無いか?」
 鞘に収めながら、サイファを顧みる。
「あたしは大丈夫! それより、あんたは?」
 スゥーラから飛び降りて、サイファが駆け寄ってきた。
「ああ、特に何処も……」
「嘘つけ! 血が出てるじゃないか!」
 おざなりに返したユウザの言葉を、彼女の怒声が遮る。
 言われてみると、左の肩口が薄く切れて血が滲んでいた。衣服の上からだし、掠っただけだったので、痛みも殆どない。
「これくらい、どうという事はない」
 本心から言ったのだが、サイファは真顔で首を振った。
「駄目だよ、放っておいちゃ!」
 裂けた上着の隙間から用心深く怪我の度合いを検分した後、彼女は何を思ったか、いきなり傷口に唇を寄せ、柔らかな舌を這わせた。
 その瞬間、全身を甘美な戦慄が貫いた。
「何をするっ!」
 反射的にサイファの肩を押し、乱暴に引き離す。
「だって、こうするより他ないだろう? 消毒薬なんて持ってないんだから」
 彼女はやれやれと言わんばかりに眉を寄せて、少しくらい我慢しろよ、と逆にユウザを窘めた。
 その、あまりにも平然とした様子に、返す言葉を失った。サイファの真心から出た行為に官能を覚えた己の方が、よほど淫らだ。
「……お前の気遣いには感謝するが、本当に平気だ。それより、クロエは?」
 彼女から庇うように、右の掌で肩の傷を覆いながら、ユウザは闇夜に視線を彷徨わせた。激しく遣り合っている内に、どうやら逸れてしまったらしい。
「クロエ! 何処にいる!?」
 大声で名を呼ぶも、答えがない。
(まさか――)
 不吉な想像が頭を過ぎった。まさか、敵の刃を受けて――?
「捜しに行こう」
 ユウザと同じ考えに至ったのであろう。サイファの声は微かに震えていた。
「いや、それは止めた方が良い」
「どうして!?」
「この闇では、我々まで道に迷う恐れがある」
 自分でも冷たいと思うが、下手に動き回って全滅したのでは元も子もない。
「夜明けまで待とう」
 ユウザは東の空を仰ぎ見た。明けの明星が顔を出すまでには、今少し間がある。
「……何事もなければいいけど……」
 サイファは声を曇らせた。
「少し、休んでおこう」
 彼女の言葉には応えず、ユウザは傍らの木の根元に腰を下ろした。サイファも、黙ってそれに倣う。
 静かな夜だった。
 先刻までの立ち回りのせいか、虫の音すらも聞こえない。
「眠っても良いぞ。私は起きているから」
 本来ならば眠りについている時間である。ましてや病み上がりの人間に、徹夜は酷であろう。
「ううん、大丈夫」
 サイファはゆるりと[かぶり]を振った。眠れそうにないから、と。
 再び、静けさが辺りを包む。
 この襲撃には明らかな殺意があった、とユウザは思った。
 先日、ルファーリで相対した時は、真剣を振り翳してはいたものの、命の危険を感じる程ではなかった。やはり、他に目的があったと見るべきだろう。
 では、あの日、あの時、あの場所で、自分を襲わねばならない理由とは、一体、何だったのであろうか?
 そして今、水路を断ってまで自分の命を討たんとするのは、単に旅の途中という好機を逃すまいと、躍起になっているだけなのか?
 いや、そうではあるまい。
 恐らくは、父を襲った時機と、叔父が軟禁されているという現状とが、何かしらかかわっているに違いない。
(都では、何が起きているのか……)
 たった数日、不在にしていただけなのに、まるで隠遁者にでもなったような気分だ。
「……今の奴らも、あんたが皇帝になるのに反対なのか?」
 ふと、サイファが沈黙を破った。
「さぁな。私にも良く判らない」
「そっか……」
 あっという間に会話が途切れる。
「……あ、そうだ!」
 よほど沈黙が嫌なのか、彼女は思い出したように手を打つと、ごそごそと荷を[ほど]き始めた。そして、鞄の底から何やら引っ張り出す。
「腹、減ってないか?」
 そう言いながら差し出してよこしたのは、ユウザがアグディルから貰った金平糖[こんぺいとう]の缶だった。ミリアに預けっ放しにしておいて、すっかり忘れていた。
「空腹ではないが、腹の足しになるとも思えぬな」
 薄桃色の一粒に手を伸ばし、ユウザは微苦笑した。口に含むと、優しい甘さが広がり、思いの[ほか]ほっとした。
「甘い物を食べると疲れが取れるし、幸せな気分になるんだよ」
 サイファはにっこりすると、いつぞやと同じように水色の粒を摘み上げ、問わず語りに続けた。
「あたしの家では、金平糖の事を魔法の薬≠チて呼んでたんだ。何か悪い事をして怒られたり、怪我をして痛い思いをしたり、悲しくて、しょんぼりした時には、いつも母さんが金平糖を出してくれてね。心の病気は体の病気よりも大変だから、魔法の薬で直ぐに治さなくちゃ駄目なのよ、って、大真面目な顔で言って……」
 途中で、彼女は言葉を詰まらせた。温かな思い出は、失った悲しみに直結する。
 手の甲で軽く両の目頭を押さえる仕草をしてから、サイファは顔を上げた。
「あんたの心の疲れも、さっさと取らなきゃダメだぞ」
 そう言って、無理に笑顔を作る。
「そうだな。確かに、疲れた……」
 頷いて、ユウザは木の幹に頭を[もた]せかけた。目を瞑ると、斬り合った男たちの影が残像となって、浮かんでは消えた。
 何人、[あや]めたか――。
 最後に斬り捨てた男の他に、致命傷を負わせた自覚のある者は二人。自覚していないだけで、実際は、もっと多いかも知れない。
 人を殺したのは初めてではないが、この感覚ばかりは、何度くり返しても慣れるものではない。自分の身を守るためには仕方のない事であり、その事に対する罪悪感はないが、命を奪う虚しさと、遣る瀬無さは、どうにもならない。
 自分の主義主張を通すのに、何ゆえ命≠フ遣り取りが必要なのか。
 言葉≠ニいうものがありながら、最後は力≠ナ解決しようとする。政治も宗教もあったものではない。
 せめて、罪人[つみびと]たちの魂が、惑う事なく冥界の門を[くぐ]れるよう、祈るばかりだ。
 無意識に眉を寄せた時、ふと肩先に温もりを感じ、ユウザは薄目を開けた。
 見ると、目を閉じたのを眠ったものと勘違いしたらしいサイファが、そっと彼の体を傾けて、横たわらせようと苦心していた。
 その真剣そのものの表情に、唇に笑みが浮かぶのを感じながら、ユウザは狸寝入りを決め込んだ。今さら起きているのがバレたら、お互い気まずい。
 大人しく彼女の腿を枕に借りながら、束の間の安息に身を委ねる。
 このまま、刺客に討たれたことにして、サイファと二人、雲隠れ出来たなら、どんなにか――。
 あまりに不謹慎な願望に、自嘲した時だった。
 パキリと枯れ枝を踏みつける音がして、ユウザは剣の柄に手を伸ばした。それと、サイファが傍らの弓を引き寄せたのが、ほぼ同時。
 たちまち、張り詰める空気。
「少々、戻るのが早過ぎたようですね」
 暗がりの中、抜き身を引っ提げたクロエ・カートラムが、揶揄するような笑顔をのぞかせた。その足取りはしっかりとして、負傷した様子は見られない。
「これ以上遅ければ、置いて行くところであった」
 むくりと上体を起こし、ユウザは東の空に向けて顎をしゃくった。いつの間にか暁月[ぎょうげつ]は落ち、山の稜線が薄っすらと明るみ始めている。
「さぁ、行こう」
 東雲[しののめ]の空の下、一行は再び旅路を急いだ。
 全ては、帝都に戻ってからだ――。
- 2008.09.21 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL