Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 50 話  [こころ][]ぐもの[たち]
 これ以上を望むのは、贅沢が過ぎるというものだろう。
 一命を取り留めただけ、奇跡。
 夜半過ぎ。
 皇太子アグディル・ノースの意識が回復したという報せは、瞬く間に宮廷を駆け巡った。その吉報を喜ぶ者、思惑が外れて歯噛みする者……胸の内は様々である。
「そうですか……」
 ユウザの報告を聞いたハシリスは、沈痛な面持ちで呟いたきり、黙り込んだ。
 意識を取り戻しても、手放しで喜べない現実があった。
 アグディルが目を開けた時、一番近くで見守っていたセシリアは、歓喜の叫びを上げた。
 しかし、すぐさま夫の異変を感じ取った。自分を見返す視線が、少しも定まらない。
 やがて、アグディルの口から低い呻きがもれた。
 何も見えぬ、と。
 命は繋ぎとめたものの、数日間続いた高熱と、刺傷による神経の損傷が災いし、アグディルは視力と下肢の自由を失っていた。
 もう、元の体には戻らない。
「それから……皇太子殿下より、こちらをお預かりして参りました」
 ユウザは懐から小さな布包みを取り出すと、皇帝に捧げた。
「何です?」
 受け取ったハシリスが、緩慢な仕草で包みを広げる。そして――。
「これは……」
 一瞬にして、女帝の顔色が変わった。現れたのは、美麗な金細工で縁取られた、紅玉の額飾り。
「本日をもちまして、皇太子の位、及び、皇位継承権を永久にご返還あそばす、とのお[ことづけ]を賜りましてございます」
 父からの伝言を申し述べながら、ユウザは、どうしようもない遣る瀬なさに襲われた。
 身体[しんたい]の不自由を悟って間もなく、アグディルはセシリアに命じて、皇太子の[あかし]たる紅玉の額飾りを持ってこさせた。
『ユウザ、もっと傍へ』
 それから、寝台の上に半身を起こし、ユウザを手招きすると、枕頭に跪かせるなり、こう言った。
『イグラット帝国君主、ノース二十二世が嫡子、ユウザ・イレイズを、今ここに正統なる後継者と認め、証の[ぎょく]を授ける』
『父上!? 何を――!』
 驚き、声を荒げた息子を、片手で制する。
『茶番だ、黙って受けよ。自力で立つこともかなわぬこの身では、よもや国を治めることなど出来はしない。正式な継承式は母上が執り行うことになろうが、そなたに皇太子の位を授ける役目は、本来、帝位を継いだ私が最初に為すべき大儀のはずであった』
 そう言って、アグディルは微苦笑を浮かべた。
『この手で行えなんだは、誠、無念よ』
 だから、せめて真似事だけでもさせてくれ、と達観したように笑う。長年、皇太子として命を狙われ続けた覚悟がなせる笑顔であろうか。
 幻となった、ノース二十二世≠フ称。そして、初仕事……。
 望もうと望むまいと、生まれた時から帝王になるべくして育てられた男の、唯一無二の道を閉ざされた口惜[くちお]しさは、如何[いか]ばかりか。同じ道を歩むユウザには、心中を察して余りあるものがあった。
『……謹んで、承りましてございます』
 こぼれ落ちる涙を拭うことなく一礼すると、真っ直ぐ顔を上げ、セシリアの手を借りたアグディルによって、額に紅玉の飾りを受けた。ひんやりと冷たく、滑らかな感触のそれは、驚くほどすんなり、肌に馴染んだ。
 アグディルは、ユウザの頬を両手で包み込むと、見えぬ両目を細め、小さく息をついた。
『そなたの翠玉の瞳には、王者の[くれない]が、さぞかし映えるであろうな』
 父のこの言葉を聞いた時、ユウザはふと、同じことを誰かに言われたと思った。一体、いつ、どこで聞いたものか……。
『さて、ユウザよ。ここからは、心して聞くがよい』
 ふいに真顔になったアグディルは、凛とした声で告げた。
『私は、たった今、皇位継承権を放棄した。その額の証を、急ぎ、皇帝陛下にお返しせよ』
 そして、一刻も早く皇太子の位に着くのだ。私の命を[おびや]かしたその地位が、そなたの命を守るであろう――。
 そう続けた父の言葉は心に留め置いたまま、ユウザは、ハシリスの指令を待った。皇帝は――祖母は、果たして父と同じ決断を下すのだろうか?
「ユウザよ、長きに渡り、よく[わらわ]に仕えてくれました」
 あまりに唐突な[ねぎら]いの後、ハシリスはおもむろに玉座から立ち上がった。
「只今より、そなたと妾の間で交わしていた主従契約を解消します。空位となった皇太子の座は、イグラット帝国憲法第二条、第三項に従い、直系の嫡子であるそなたに授けます。取り急ぎ継承式を行うゆえ、今すぐ、典礼用の衣装に着替えてきなさい」
「今すぐ、でございますか?」
 あまりの性急さに思わず問い返すと、ハシリスは言下に頷いた。
「そう、今すぐです。早ければ早いほど、良い」
 アグディルも、それを望んでいることでしょう、と囁くように呟きながら。
「モーヴ! 入るぞ!」
 ユウザは老執事の居室を訪れると、返事を待たずに扉を開けた。
「夜分にすまぬが――」
 非礼を詫びかけて、思わず言葉に詰まる。室内に、いるはずのない人間がいた。
「こんな所で何をしている?」
 ユウザの問いに、モーヴ・パジェットと向かい合っていた、サイファ・テイラントが振り返る。
「ああ、お帰り――じゃなくて、お帰りなさいませ」
 こちらを見て、彼女は恭しく……というよりは、ぎこちなくお辞儀した。
「何の真似だ?」
 薄気味悪い、と眉を寄せると、サイファはムッとしたように唇を尖らせた。
「失礼な奴だな! 人がせっかく真心込めて出迎えてやったのに!」
「これは、これは。ご歓待、痛みいる。それより、なぜこんな時間にモーヴの部屋に居る? 気分が優れぬのではなかったのか?」
 言葉自体はサイファに向けているものの、その奥のモーヴに、ユウザは問うた。
「一眠りしたら、元気になりすぎて眠れなくなったと言うものですから。一緒に、明日のユウザ様のご予定を確認していたところでございます」
 目線に気づいた執事が、代わりに答える。どこか、面白がっているような笑顔だ。
「私の予定を? なぜ、サイファが?」
「明日から、あんたの身の回りの世話をしてやろうと思って」
 今度は、サイファが口を挟んだ。
「ミリアが戻るまで、もうしばらくかかるだろう? それまで、あたしが面倒みてやるよ」
 そう言って、胸を張る。
「何を馬鹿なことを。お前は、皇帝陛下の奴隷として召し抱えられている身。私の好き勝手にできる立場にはない。第一、お前に女官の仕事が務まるとは思えぬ」
 彼女の言葉を一蹴したところで、モーヴの部屋を訪ねた理由を思い出した。
「ところでモーヴ、こんな遅くにすまないが、今すぐ正装せねばならなくなった。支度を頼む。儀礼用の最も床しい衣装だ」
「はて、このような刻限に、何の儀式でございましょう?」
「皇太子継承の儀だ」
「何と!!」
 面妖[めんよう]な、と[いぶか]っていたモーヴは、ユウザの一言で絶句した。
「皇太子継承って……あんたのお父さん、助かったんだろう? ついさっき、意識が戻ったって、聞いたばかりだけど?」
 サイファが不安げな顔で、首を傾げた。一般には、皇太子の詳しい容態を伏せたままであった。
「確かに、お命は助かったが、お体は政務に耐えられる状態ではなくてな。先ほど、皇位継承権を完全に放棄あそばされた。――さあ、モーヴ、猶予がない。急いでくれ」
 放心している執事を急かすと、ユウザは着替えるために自室へ向かった。その後を、サイファが小走りについてくる。
「はっきり言うが、お前は邪魔だ。自分の部屋に控えておれ」
「なに言ってんだ! 一人じゃ着替えられないくせに」
 あたしが手伝うって言ってるんだよ! と、彼女が顎をしゃくった先には、もうユウザの居室が迫っていた。
 時々、わからなくなる。
 サイファという小娘が、実は己が思っているような粗野で未熟な人間などではなく、聡明で万能な女神が、戯れに化身となって現れたのではなかろうか?
 そんな気にさせられる瞬間が、間々あった。
 例えば、こんな風に、丁寧に髪を[くしけず]り、香油を伸ばし、器用に整える手つきなどを見ていると、まるで、何年もこの仕事に携わってきた、熟達した女官のように思えてくる。動きに無駄がなく、優美ささえ感じる。
 男性の正装は、女性の場合と違って、かかる手間も半分以下ではあるが、それでも、サイファの仕事ぶりは見事であった。元々、手先が器用なのかもしれない。
 長年、苦楽を共にしてきたセシリアの夫として、並々ならぬ信頼を寄せてきたアグディルの退位が、よほど応えたのだろう。すっかり気落ちして、殆ど役に立たなくなってしまったモーヴを宥め[すか]し、何とか必要な衣装を調[ととの]えさせたものの、ミリアが不在の今、どの女官に命ずればよいのかすら、見当がつかなかった。
 もし、たまたま彼女がいなければ、さぞかし難儀しただろう。これも、天の配剤であろうか?
「何を考えてるんだ?」
 鏡越しにサイファと目が合った。彼女の白い指は、今度はユウザの首に金の鎖を巻きつけている。
 ユウザは微笑んだ。
「このまま、お前が、その鎖を力いっぱい後ろに引けば、私の命は容易[たやす]く奪われるだろうな、と――」
「誰が、そんなことするか!」
 サイファはギョッとした顔になると、鎖から両手を離した。怖いこと言うなよ、馬鹿! と、鏡の中の彼を睨みつけてくる。
「何も怖くはない。人の命を奪うなど、造作ないことだと思うだけだ」
 そう言って、ユウザは立ち上がった。
「あ、待って! 耳飾りが未だ――」
「良い。飾りなら、もう付けている」
 左耳に下がっている金の耳環[じかん]を指し示すと、サイファは一瞬、切なげに目を細めた。
「あんたが、それを大切に扱ってくれてることには感謝するよ。でも、大事な儀式には相応しくないだろう? そんな――」
「大事な儀式だからこそ、意味がある。自分の母君の形見を、そんな物呼ばわりするな。だが――」
 卑下する彼女を[いさ]めながら、ユウザは姿見に映る己と向き合った。
「片耳にしか付けていないのは、問題かも知れぬ」
 彼女の手から一対の耳飾りを取り上げ、その内の一つを右の耳たぶに挟み止める。
「同じ[きん]だ。遠目には、違う物を付けているとはわかるまい?」
 鏡で確かめた後、サイファを振り返ると、いつの間にか、彼女は声を立てずに泣いていた。近頃の自分は、彼女を泣かせてばかりいる。
「……そういえば、代わりの物を渡していなかったな」
 胸を締めつける愛おしさに耐えながら、ユウザはサイファの髪に手を伸ばし、その一筋を耳にかけた。そして、露わになった左の耳朶[じだ]に、残る一方の飾りを優しく留めてやる。皇家の紋である鷲が刻印された、小さな金の雫。
「いつか、お前から預かっているこの耳飾りを返す時まで、それは貸しておく」
 気に入らなければ外せ、と言って、ユウザは背を向けた。そろそろ、行かなければならない。
 そう思った時、背中に、縋りつくサイファの温もりを感じた。
「ありがとう、ユウザ……」
 自分の名を呼ぶ、消え入りそうな声。押し当てられた頬と、両の掌の感触。
 ユウザは静かに息を吐き、唇を引き結んだ。
 今日、皇太子の位を継いだら、サイファの教育係という役は、早くも御免になるだろう。こうして、ゆっくり二人だけで過ごす機会もなくなる。
 最後に、もう一度だけ、彼女を抱きしめておきたい。
 しかし、湧き上がる衝動を押し殺し、ユウザは呟いた。
「もう、行かねばならぬ」
 感情を抑えるあまり、その声は、酷く素っ気なく響いた。
「ごめん」
 サイファが慌てて身を離した。ちょうど、指に留まっていた蝶が飛び去った後のような、そんな侘しさだけが残る。
「世話になったな」
 行ってくる、と言い置いて、ユウザは滅紫[けしむらさき]外衣[マント]を翻した。
 自分の意思の遠く及ばぬところで、どんどん身動きがとれなくなっていく。
- 2009.07.30 -
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