ユウザを送り出した後、サイファは深々と息を吐いた。両手に、彼の感触が否というほど残っている。
絹のように滑らかで、しっとりとした黒髪。磁器を思わせる、ひんやりと肌理細やかな肌からは、生来のものなのか、使っている石鹸の匂いなのか、乳香に似た爽やかな香りが、そこはかとなく漂っていた。
彼の傍にいて、軽く肌が触れたことはあっても、ああいう形で体に触るのは初めてのことで、酷く緊張した。
それに――。
「ほんと、罪作りな奴……」
左耳で揺れる雫型の耳飾りに指を伸ばしながら、溜め息をこぼした。
ユウザの指が事も無げに彼女の髪を掻き上げ、耳たぶに触れた時、サイファは体がびくりと震えそうになるのを必死に堪えた。
彼の息吹を首筋に感じ、その眼差しが自分にだけ注がれているのを苦しいほど意識しながら、自分自身に言い聞かせる。
ユウザの行動に他意はない。何かを期待したり、勘繰ってはいけない、と。
それでも、彼の自然な優しさが嬉しかった。あまりに嬉しくて、懲りずに甘えて、拒まれた。
『もう、行かねばならぬ』
あの突き放すような冷たさを、物覚えの悪い頭の代わりに、ちゃんと胸に刻みつけておかなければならない。そうしないと、何度でも、同じ数だけ傷つく。
ユウザが自分の身につけた飾りの片方を遣したのは、単なる思いつきに過ぎないのだと思う。たまたま、一つ余ったのを見たからであって、サイファと揃いの物を分かち合おうという意図はなかっただろう。
しかし、そうとわかっていても、自分は、この耳飾りを大事に持ち続ける。例え、もう一方の飾りが、あっ気なく彼の耳から外され、永遠に捨て置かれたとしても――。
その時、ふと、サイファは母の形見を思った。
これまで身につけていたあの耳環は、母のライアが大切な人から貰ったという、曰く付きのものだった。もしかすると、対となるもう片方が、今も何処かに存在しているのかもしれない。
それは一体、誰の手元にあるのだろう?
母に聞きたいと思って聞けずに終わってしまったことが、たくさんある。サイファの知る限り、ライアは天涯孤独だった。
(一人でもいいから、母さんの昔を知る人がいてくれたら良いのに……)
そんなことを考えながら、サイファは使った櫛や香油の瓶を片付け、ユウザの部屋を後にした。そのままの足で、自室ではなく、モーヴの部屋に向かう。
「モーヴ爺さん? 入るよ?」
合図と同時に扉を開けると、出てきた時と同じく、執務机の前で、しょんぼりうな垂れたままの老爺の姿が飛び込んできた。
「無事、支度してやったよ」
サイファは、そっとモーヴの肩に手を置いた。ついさっきまで、あんなに朗らかで元気だった彼が、急に小さくなってしまったように見える。
「ああ……ご苦労でしたね」
顔を上げたモーヴが、ぼんやり目を向けた。
「お茶でも飲もうか」
にっこり笑って、サイファは、さっさと戸棚から茶器を持ち出し、卓に並べた。
その様子を、モーヴが心ここに在らずといった顔で眺めている。そうして、温かな湯気が立ち昇り、目の前に紅玉色の茶が差し出されたところで、彼は重たげに口を開いた。
「セシリア様は、こうなることを見越して、貴方を私の元に遣したのですね」
受け取った茶碗に軽く口をつけ、諦めの混じった声で独り言つと、やがて踏ん切りがついたようにサイファを見据える。
「そういうことであれば、私は全力で貴方をお助けするだけですよ、サイファ・テイラント」
共に御役目を果たしましょう、と、いつもの叡智を湛えた面差しに戻って。
*
エリスに与えられた使命は、簡単なようでいて、極めて難しいものだった。
それは、状況が許す限り、いつでもユウザの傍に居る≠アとだった。
そして、彼に会いに来た人間の氏素性を始め、話した内容や表情に到るまで事細かに観察し、記憶する。どんなに些細な用事や、無駄話に思えても。
その情報の積み重ねこそが、何にも勝る武器になるのだ、とエリスは言った。
『まずは、この書状をモーヴ・パジェット殿に渡して、助力を仰ぎなさい』
そう言って渡されたのは、封蝋に皇太子妃の印で封緘された薄紫色の封筒だった。
『我がイレイズ家とパジェット家は、古くから昵懇の間柄。特に、ユウザ様の執事役を務めてらっしゃるモーヴ殿は、皇孫殿下付の侍従長でもあらせられます。あの方なら、きっと良い策を講じて下さるでしょう』
ベーク邸からフラウ城に戻ってすぐ、モーヴに手渡したその手紙の内容を、サイファは知らない。
しかし、文字を追う老人の目が、時折、驚いたように見開いたり、瞬きを繰り返すさまを、近くで見ていた。恐らく、自分には知らされていないことまで、細かく記されていたのだろう。
『なるほど。この役が務まるのは、確かに貴方だけかもしれませんな』
手紙を封筒に戻し、彼女の目の前で火をつけて燃やしながら、モーヴはどこか愉しげだった。
『力を、貸してもらえる?』
不安げに尋ねたサイファに、彼は笑顔で請け合った。
『善は急げです。早速、始めましょう』
四六時中、ユウザの傍に居るための第一条件――皇孫殿下付きの女官になるための特訓が、始められた矢先のことだった。
主たるユウザが、モーヴの部屋を訪れたのは。
「後は、明日だ……」
白み始めた空を露台に出て眺めながら、サイファは気を引き締めた。
もう一つ、課せられた大仕事が待っていた。
*
明け方、夢を見た。
微睡の中、やけに鮮明な絵が浮かぶ。
サイファは樹海にいた。
そして、獲物と相対している。
それは黄色い瞳の大蛇で、するすると音もなく近づいてくる。
サイファは蛇に向けて矢を射かけた。
一本、二本、三本……。
しかし、いつもは難なく獲物を射止める矢が、少しも当たらない。
段々、焦りを感じ始めた。
矢筒に残された矢は、残り僅か。
それなのに、自分と蛇の距離は、見る見る縮まるばかり。
やがて、最後の矢も外れ、サイファは不本意ながら逃げ出した。
敵に背を向け、全速力で。
振り返るな。
振り返ったら、追いつかれる。
頭では、そう思っているのに、恐怖が振り向かせた。
ほんの少し省みた、その目前――。
『また会えたな、女』
黄玉色の瞳が笑っていた。
いつの間にか、大蛇は姿を変え、先日出会った砂漠の民になっていた。
はっとした時には既に遅く、サイファの体は男の諸腕の中に閉じ込められた。
『絶対に逃がさぬ』
もがく彼女を力ずくで押さえつけ、男は笑う。
『お前は、私のものだ』
その腕の傷が、所有の証。
『傷なんか、もう消えてる!』
巻き締められた腕を引き剥がそうと暴れながら、サイファは叫んだ。
『消えてなどおらぬ』
よく見ろ、と嘲る声に、反論しようと腕に目をやった瞬間――。
「嘘だっ!!」
サイファは悲鳴と共に飛び起きた。おぞましい夢の名残が、脳裏にこびりついて離れない。
サイファは浅く、荒い呼吸を繰り返した。
額に浮いた汗を拭おうと無意識に左腕を上げかけ、ぎくりと身をすくませる。
夢の中で、彼女の手首は、噛まれたところから指先まで、どす黒く変色し、今にも腐り落ちそうになっていた。
今のは、ただの夢だ。
自分を落ち着かせ、サイファは左腕を持ち上げた。
思い切って薄明かりに晒した手首は、夢の中で主張した通り、暗赤色の瘡蓋と、ほんの少しの引き攣れが残るだけで、ほぼ完治している。
サイファは、ほっと息を吐いた。
あの男の捨て台詞が、ずっと引っかかっていた。
『いずれ、また会おう。その腕の傷が治り切らぬ内に、な』
一言一句、違えずに言えるほど、しっかり記憶に焼きついている。
こうして、都へ帰り着いた今、再び、あの男と見える機会が巡ってくるとは、到底、思えない。思えないのに、拭い去りがたい危機感があった。
それは、不思議な感覚だった。かつて、数多の猛獣と差し向かい、幾度となく命を落としかけた時に味わった、本能的な恐怖に似ている。
あの男との強烈で不快な出会いが、これほど胸の奥深いところにまで影を落としているなんて、サイファ自身、思ってもみなかった。夢にまで立ち現れるなんて。
(早く、忘れよう)
軽く頭を振り、再び横になった。しかし、とても寝つけそうにない。
何度も寝返りを打ちながら、サイファは、ひたすら朝日が昇るのを待った。
(朝が来れば、もう大丈夫)
いつものように、ハシリスに朝の挨拶をしに行き、何気ない口調で言えばいい。
皇帝陛下に、お願いがございます。
私を、皇孫殿下付きの女官の一人にお加え下さい。
里帰り中にいただいた数々の御恩を、ぜひお返ししたいのです――。
使命を全うするために捻り出した、大義名分。
でも、嘘じゃない。
サイファは体を起こした。悪夢の原因は、恐らく、あの男のせいだけではない。
ユウザが言っていたように、自分が彼の側近く控えるためには、女官でも何でも、それなりの身分をハシリスから頂戴しなければ、筋が通らない。しかし、自分が用意した名目で、果たして、それが叶うものか……。
(もし、陛下のお許しが出なかったら、どうしよう?)
他に、ユウザの傍にいる手立てはあるだろうか?
細波のように絶え間なく押し寄せる不安を、サイファは無理やり打ち消した。
悩んでいられる状況ではないのだ。何としても、お許しをいただかなければならない。
サイファは上掛けを跳ね除け、寝台を下りた。
窓掛けの隙間から、一条の陽光が射し込んでいる。
- 2009.08.27 -