Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 52 話  [くれない]皇統[こうとう]
(全く、皇帝陛下には、まだまだ頭が上がらぬ)
 儀礼用の仰々しい外衣[マント]を歩きながら脱ぎ、ユウザは軽くなった肩を、ゆるりと回した。その拍子に、額の紅玉がシャラリと音を立てる。
 同乗してきた馬車からハシリスを降ろし、無事、居室まで送り届けると、その足でミストリア宮へ向かった。フラウ城の敷地内、叔父のバスティルが軟禁されている離れである。
『今宵は、たいそう疲れたでしょう。戻ったら、すぐに休むが良い』
 神殿からの帰り道、一頭立ての小さな箱馬車に揺られながら、ハシリスは、自身も疲労の滲む瞳を[しばたた]かせた。それから、[]も、さり気ない声音[こわね]で付け足す。
『神官長への報告は、明日でも構わぬでしょう』
 それは、一つの言葉から十も二十も悟れ、というのが口癖の、いかにも祖母らしい言い回しだった。
 明日で構わない≠フは言葉通りと思われるが、言い換えれば、明日、必ずバスティルの元へ行くように≠ニいう婉曲な命令だ。
 国内で行われるあらゆる神事は、全て、神々の歴史として、神官長の監督の[もと]、神書へ記述する決まりとなっている。神官長への報告は義務なのだ。
 しかし、ハシリスの[めい]には、それ以上の強い意味が込められている。自分に代わって、息子の様子を見てきてほしい――。
 母親としての、口に出せない懇願だ、とユウザは察した。
 今現在、バスティルの身柄は、帝国軍の一組織である都市防衛隊の監視下に置かれている。イグラットでは、帝国の軍隊が警察権も有しているからだ。
 公共の秩序を守り、国家の安全を維持することが軍の目的ではあるが、逆賊を厳しく取り締まりたいがため、国防≠ニいう言葉をいかなる犯罪をも防ぎ、国を守る行為≠ニ、拡大解釈させた結果でもある。
 軍と帝国議会の結びつきは強く、連携も取れているが、私情が罷り通るほど、なあなあではない。
 そのため、いくら皇帝であっても、己の一存で容疑者を如何斯[どうこ]うすることは出来なかった。例えそれが、同じ神の一族の、ましてや、我が子であろうとも。
 しかし、皇帝の手足として、国政は勿論、外交にも深く関わる皇太子は、有事に備えて、帝国軍の最高司令官を兼任する。取り調べと称すれば、見張りなしでの面会くらいは可能となるはずだ。
 バスティルが幽閉されてから、既に五日が経つ。いくら拘束の程度が緩いとはいえ、相当、滅入っているに違いない。
 叔父の身を思うと、ユウザの足は自然と速まった。明日になるまで、待っていられなかった。少しでも早く、悪化した事態を終息させたい。
 その第一歩が、先ほどの儀式であった。
 皇太子継承の儀≠ヘ、真夜中のソルヴァイユ神殿で、粛々と終了した。
 位を授ける皇帝と、授かる皇子。
 たった二人で執り行われる立太子礼など、前代未聞である。
 アグディルの後を嫡男のユウザが継ぐのは、あまりにも正当であったが、それでも、何かしら口を挟めると密かに時機を窺っていた縁者にとっては、とんだ肩透かしとなるだろう。
 しかし、それこそがハシリスの狙いだった。
 本来、新皇太子のお披露目を兼ねて、盛大に執り行われる立太子の礼は、式典の準備などに配慮し、少なくとも三週間前には全国民に告示される。その[かん]、たったの三週間ではあるが、形式上、皇太子の座が完全に空位となる。
 この空白が曲者で、皇太子を正式に継ぐ数日前に、正統な第一継承者が不慮の事故に遭う事例が少なくない。
 酷い時代など、皇位継承権第六位の皇女が、繰り上げで皇太子を継ぐ羽目になった事もある。何を隠そう、その皇女こそがマティナ・ハシリス――現皇帝、ハシリス四世だった。
 イグラット皇家直系の七人兄妹で、その第五子として生まれたマティナは、四人の兄と唯一の弟を、皇位継承権順に次々と惨殺され、自身も、あわやという状況まで追い込まれた。しかし、当時、未婚だった皇女は、何とか継承の儀まで命を長らえ、皇太子の座に着いた。その後、有力皇族のノース公と婚姻し、程なく、実父である先帝の崩御を受けて後を継ぎ、現在に至っている。
 そのような苦い実体験があってこその奇策であろう。一刻も早く、とハシリスが望んだのは、このためだった。
 また、それと同時に、ユウザが皇太子になったことで、皇位を巡る権力闘争の勢力図も、大きく描き替えられることとなった。
 男尊女卑の傾向にあるイグラット皇家において、妻子持ちのアグディルが皇太子だった頃は、次代の皇太子候補である皇子≠ェ多い家の方が優位であった。しかし、独身のユウザが皇太子となれば、未婚の皇女≠持つ家の方が、俄然、有利になる。娘を嫁がせることで、皇太子妃から皇后へ、延いては王母となって、宮廷を長期に渡って取り仕切ることが可能になるからだ。
 暗殺の標的だったユウザが、正に、一夜にして取り入るべき対象へと変貌した。アグディルの言う、命を守る≠ニは、この事を指している。
 だが、それも所詮、ユウザが妃を迎えるまでの一時凌ぎに過ぎず、根本的な解決にはならない。
 とは言え、皇太子≠ニいう餌≠ぶら下げたまま独り身を続ければ、政略結婚の渦中で揉まれる煩わしさはあるものの、自分自身の命が狙われる機会は減り、親族間での無闇矢鱈な暗殺工作が影を潜めるのも確かだった。
(いっそ、生涯、独身を貫くか)
 半ば本気で選択肢に入れつつ、ユウザは素早く思考を切り替えた。
 目指す宮殿が、視界に入った。
 白壁に、蔦の鮮やかな緑が美しいミストリア宮。
 その優美な佇まいに全くそぐわない、物々しい警備が敷かれていた。しかも、それを担当しているのは、都市防衛隊の中でも帝都≠管轄している部隊――皮肉にも、ユウザが鍛え上げた帝都防衛隊である。
 ユウザは萎えそうになる気力を何とか振り絞り、篝火の揺れる正面玄関へ歩を進めた。足音を立てたつもりはなかったが、気配を感じた兵の一人が、素早く反応する。
「何者だ!?」
 誰何[すいか]と同時に突き出された槍の先が、赤い炎を映した。
「私だ」
 敵意のなさを見せつけるように、ユウザはわざとのんびりした口調で答えた。しかし、演技する必要はなかった。久しぶりに見る馴染みの面々に、つい笑みがこぼれる。
「スゥオル・ユウザリウス!?」
 槍を向けた兵士が、目を見開いて叫んだ。
 その呼び名は、最強の剣士の称であるスゥオル≠戴き、また冥王ユウザリウスの化身と畏れられている、ユウザの[あざな]である。誰が最初に呼んだかは定かでないが、隊員たちの間では、自分の将に対する愛称として、好んで使う者が多かった。
「え!? ユウザ様!?」
「何だって!?」
 声を聞きつけて、辺りは騒然となった。しかし、彼らが、一斉にその場を離れて集まってくるような醜態を晒さなかったことに、満足を覚える。自分が隊を離れた後も、しっかり教えが息衝いていることが嬉しい。
 いつ如何なる時も、不確かな情報に踊らされるな。反射的な行動が許されるのは、その瞬間に事を起こさねば己が死ぬ――そう判じた場合のみ。
「久しぶりだな、同志たちよ」
 ユウザは微笑んだ。皆、息災そうで何より、と周囲の者にも声をかける。
 その時、暗がりから屈強な影が進み出てきた。
「お久しゅうございます、殿下」
 そう言って、ユウザの前に膝を着いたのは、現在の帝都防衛隊副隊長、ファルス・クラウゼ少尉だ。
 期せずして、ユウザと同じ黒髪緑眼の彼は、今年、三十六歳になる老練な仕官だ。背が高く、精悍な体つきの、苦み走った好い男である。
 ユウザが十五歳で隊長として着任した時の前任者で、こんな子供に従えるか! と正面切って反抗したのがこの男で、また、逸早くその才に気づき、潔く敬服したのも彼だった。
「少し肥えたか、ファルス?」
「ご冗談を。スゥオル・ユウザリウスの抜けた巨大な穴を埋めるべく、日夜、身の細る思いを致しております」
 ユウザの問いに、彼は軽口で答えた。気取らぬ物言いが小気味[]く、異性だけでなく同性からも好かれる質の男である。
「良く言う」
 くすりと笑って、ユウザはファルスを立たせた。
「いつまでも、そなた達と戯れていたいのは山々だが、バスティル神官長に急ぎの用で参った。面会を所望する」
「お言葉ではございますが、何人たりとも面会は許さぬと、コルテ・エカリア中将、直々の司令を受けております。例え皇孫殿下でも、お通しする訳には参りませぬ」
 ファルスが心苦しげに、しかし、きっぱりと言い切った。任務に私情を交えないのはさすがである。
「命令が絶対であることは、わかっている。だが、コルテ殿の上官の命とあらば、そちらを優先するのが筋であろう?」
「いや、しかし、上官と仰っても……アグディル皇太子殿下は、未だ病床に伏せておいでのはず。先ほど、意識をご回復されたとの報は承っておりますが、いくら何でも、そのようなご命令を下されたとは、とても……」
「ファルスよ、状況は刻々と変化するものだと、何度、言ったらわかる? もっと、物事を注意深く観察せよ」
 短く舌打ちし、ユウザは彼の鼻先にずいと額を近づけ、上目遣いに見た。自分から言わずとも、誰か気づくかと期待したが、いつまでも待っていたら夜が明けてしまう。
「殿下っ!? 何を考えておいででっ!?」
 そちらこそ、一体、何を勘違いしたのか。赤面したファルスが大きく飛び退いた。皇子ともあろうお方が色仕掛けはいけません、と。
 周りの隊員達も、皆一様に動揺している。
「……愚か者どもが」
 ユウザは深々と嘆息をこぼすと、黙って額の紅玉を指し示した。
「うおあっ!!」
 やっと彼の意図に気づいたファルスが、素っ頓狂な叫びを上げる。
 日頃、女っ気のない兵士達の中には、そちらの道に走る者も少なくないとは聞くが、この状況で、なぜ、そんな誤解が生じるのか理解に苦しむ。
「全く、時と場所を[わきま]えて、間違え」
「やあ、面目次第もない」
 ユウザの皮肉に、ファルスは照れくさそうに頭を掻くと、改めて敬礼した。
「皇太子、並びに、イグラット帝国軍最高司令官へのご就任、誠におめでとうございます」
「状況が状況ゆえ、あまり気分の良いものではないがな」
 ファルスの心からの祝辞に微苦笑で返すと、ユウザは表情を引き締めた。
「すまないが、時間がない。早速、通してもらうぞ」
「はっ!」
 ファルスの案内の[もと]、ユウザは薄暗い館の中へ堂々と足を踏み入れた。
 燭台の拙い明かりの下で、バスティル・ノースは、一心不乱に祈りを捧げていた。
 ファルスの話では、拘束された日から、ほとんど飲まず食わず、不眠不休で祈り続けているという。
 来客を告げたファルスの声にも、入室したユウザの足音にも、全く振り向かない。
 しかし――。
「叔父上……」
 遠慮がちにかけた声に、バスティルは勢いよく反応した。
「ユウザ!?」
 振り返った彼は、もつれるような足取りで駆け寄ると、泣き笑いの顔でユウザに縋りついた。すっかり痩せ細ってしまった体の何処に、こんな力が残っていたのかと驚くほど、しっかり抱きしめられる。
「お帰り。無事で何よりだった」
 一頻りの抱擁の後、バスティルはユウザの顔をつくづく眺めて微笑した。だが、それも一時[いっとき]のことで、たちまち悲痛な表情に変わる。
「ところで……兄上のご容態は、如何であろう?」
「お陰さまで、先ほど、意識を回復いたしました」
 ユウザはにっこり笑ってみせた。叔父自身の体調を慮って、本当のことを話すのは控えるつもりだった――が、その甲斐なく、バスティルの口から悲嘆の溜め息がもれる。
「……だが、政務への復帰は、難しいのだね?」
 彼の視線が、しっかりと自分の額に――皇太子の証に据えられていた。
「残念ながら」
 あきらめて、ユウザは言葉少なに頷いた。
「今の状況を、聞かせてもらえるかい?」
 ほんの数日のこととはいえ、外界から隔絶されていたバスティルの情報は、ミストリア宮に連行された時点で止まってしまっている。
 求めに応じて、ユウザは時系列に沿って話し始めた。
 そして今度は、全てを聞き終えたバスティルが、アグディル襲撃当日の様子を語り出した。
「今になって思えば、私は、まんまと嵌められたのだよ――」
 バスティルは、毎日、主神殿であるソルヴァイユ神殿で、朝晩二回ずつ祝詞を唱える。
 その礼拝は一般市民も参加することができ、神殿の前には、連日、熱心な信者達で長蛇の列ができる。
 そして、朝の礼拝が終わると、社務所へ行き、神殿宛ての書簡や参拝者からの供物の一覧に目を通す。その際、よほどの掘り出し物があれば皇帝陛下へ献上するが、穀物や果物といった食物類に限っては、バスティルの神官長就任以来ずっと、都内の孤児院や養護施設へ施し物として送り届けることにしている。
 この供え物の寄付に関しては、当初、一部の高級神官たちから反対の声が上がった。神々への捧げ物を下賤の者に下賜するのは、不敬に当たるのではないか、と。
 しかし、彼らの意見に対して、バスティルは笑顔で反論した。
『その日の食事にも事欠くような、困窮する民を救うためならば、父なる神は、進んで自らの食事を分け与えて下さるでしょう』
 その言葉に、これ以上の異を唱えられる者はいなかったという。
 あの日の朝も、バスティルはいつも通り祈りを捧げた後で、社務所へ引き上げた。そこで、自分宛の一通の書簡を目にした。
 何処ででも手に入る白い封筒に、美しい女手でバスティル・ノース様≠ニ宛名書きされたものだ。
 通常、バスティル個人への手紙は、フラウ城の彼の居室に届けられる。しかし、その手紙に消印はなく、直接、神殿の郵便箱へ投函したものと思われた。
 不審に思いつつも、バスティルは封を開けてみた。
 そこには神々への賞賛と感謝の言葉が延々と綴られており、最後に、素晴らしい風の矢を手に入れたので、信心の証として、ぜひソルヴァイユ神殿にお納めいただきたい、と結ばれていた。バスティル宛にも関わらず、彼個人に対する言伝[ことづて]は一切ない。
 ますます胡乱[うろん]に思って、バスティルは、本当に風の矢が献上されているのか、供物の一覧を調べた。すると、確かに風の矢、三十本≠ニ記載がある。
 狩猟の女神、ツェラケディアを祀るツェラケスタ神殿への奉納品であれば、全くあり得ない話ではないが、ここソルヴァイユ神殿は、至上神ソルティマが祭神である。熱烈なソルティマ信奉者であれば尚の事、生き物を殺傷するための武具を奉納するなど、常識的には考えにくい。
 [たち]の悪い悪戯かもしれない。
 そう考えた彼は、念のため、現物を確かめておくことにした。もし、本物であれば、帝国軍に寄贈し、国防に役立ててもらえば良い。
 バスティルは、神殿の宝物庫に納める前の、供物の一時保管場所に向かった。その部屋には、奉納品の管理を専門に受け持つ神官が常駐している。
 バスティルが訪ねた時、担当者は二人いた。その内の一人に、風の矢と[おぼ]しき荷が届いているか確認したところ、すぐさま実物を見せられた。
 黒い矢羽に、黒い矢柄[やがら]。その矢筈[やはず]には、澄んだ風狼石の結晶が惜しげもなく使われている。
 文句のつけようのない、名品揃い。どうやら、狂信的で非常識な信者の仕業に間違いなさそうだ。
 バスティルは、当初の考え通り、全ての矢を帝国軍に寄贈することに決め、宝物庫に仕舞う荷物とは別にしておくよう、係に指示した。
 それから、急ぎ、次の仕事場となるイグラティオヌ神殿へ移動した。毎月恒例の、皇太子の参詣に備えるためだ。
 神殿内を隈なく清めさせ、バスティル手ずから手水鉢[ちょうずばち]に聖水を満たし、後は皇太子――兄のアグディルが到着するのを待つばかり。
 しかし、バスティルの前に現れたのは、軍装に身を包んだ、コルテ・エカリア中将――帝国軍の事実上の首脳だった。
「――では、宝物庫に、矢が納められた事実はないのですね?」
 ユウザは慎重に尋ねた。クロエから聞いた話では、叔父が疑われているのは、彼だけが宝物庫の鍵を自由に扱えるという理由からだった。
「ええ、そのはずです。しかし、私がソルヴァイユを出た後のことは、誰からも聞かされていないので、何とも……」
 バスティルは哀しげに首を振った。
「叔父上、あの日、奉納品の管理をしていた者が誰であったか、覚えてらっしゃいますか?」
「ええ。一人は、シラヌ・ドヌークという古参です。後の一人は、入ったばかりの見習いとかで名前は知りませんが、シラヌが一緒に作業しながら、仕事を教えていたようです」
「見習い……」
 ユウザは強い引っかかりを覚えた。
 とにかく、一度は神殿内に運ばれた矢が、いつ、誰の手によって持ち出されたのかを確かめねばなるまい。解決の糸口は、そこにある。
「叔父上、すぐにも寝殿へお戻りいただきたいところですが、残念ながら、今の状況では為す術がござりませぬ。一日も早く、叔父上の容疑を晴らしてみせます。どうか、今しばらくのご辛抱を」
 バスティルの痩せ衰えた手を取り、ユウザは、その甲に軽く口づけた。必ず、救い出す誓い。
「心得ております」
 バスティルは大きく頷いた。ユウザの言葉を信じて疑わない、揺るぎない眼差し。
 やはり、叔父を疑った己が愚かだった。
「それから、どうぞ、これからは毎日、日に三度のお食事と、睡眠を欠かさずお取り下さいませ。お祈りは、程々になさいますよう」
 ユウザは、無礼を承知でずけずけと言いつけた。今のお姿を陛下がご覧になったら、卒倒なされますよ? と、眉を吊り上げてみせる。
「心配してくれて、ありがとう」
 このような事態にあっても、あくまで穏やかなバスティルの笑顔。ユウザは、再び叔父の抱擁を受けた。
 しばらくして、バスティルは名残惜しげに腕を[ほど]くと、首の後ろに手を回し、服の下に隠すように下げていた真鍮の鍵を外した。
「これは、私の居室にある、机の鍵です。抽斗の中に、私が個人で編纂した神職者名簿が入っています」
 何かの役に立つかもしれません、と言って、託してよこす。
「お心遣い、ありがとうございます」
 ユウザは敬意を込めて一礼した。
「ユウザ、一つ、頼まれてくれませんか?」
「何でございましょう?」
 軽く首をかしげた彼に、バスティルが真剣な目を向ける。
「今の私に出来るのは、ただ願う事だけ。毎日、神のご加護と癒しの風が兄上の元に吹くよう、お祈り申し上げている。そう、伝えてほしい」
 その強い熱意のこもった瞳に、見覚えがあった。炎と生命を司る、男神バスティラヌスの瞳。
 その時、ふいに叔父の声と父の声が、頭の中で重なり合った。
『そなたの翠玉の瞳には王者の[くれない]が良く似合う』
『そなたの翠玉の瞳には、王者の[くれない]が、さぞかし映えるであろうな』
 ああ、この二人は実に似た者同士なのだ。
 誰の目にも激しく映る、兄皇子アグディルと、その熱を内に秘めた弟皇子、バスティル。一見、正反対に見える二人は、物の考え方や感じ方など、本質的な部分で、とても良く似ている。
 その気性は恐らく、皇帝――母である、マティナ・ハシリス譲り。
「必ずや、お伝えいたします」
 もう一度、深く礼をして、ユウザは暇を告げた。
 廊下に控えていたファルスと共に表に出ると、暁の女神が最後の微笑を投げかけて、朝の光に消え行くところだった。
 長い長い、一夜が明けた。
- 2009.11.26 -
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