Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 53 話  [まも]りたい者、[まも]るべき者
「恋を――してしまったのですね?」
 あまりに意外な言葉をかけられ、サイファは呆然と女帝を見上げた。
 翌朝、ユウザへ仕えることを願い出た直後、ハシリスの口から発せられた第一声が、これだった。
「隠さずとも良い」
 咎めるというよりは教え諭すような口調で、彼女は続けた。
「ユウザは、我が孫ながら、宮廷一の美丈夫[びじょうふ]。あれだけの器量と男気を併せ持つ者は、国中を探しても、そうは居ないでしょう」
 皇帝お墨付きの、最上級の賛辞。
「世の乙女なら、誰もが、あの子に惹かれます。しかし――」
 一呼吸置いて、ハシリスは柔らかく、それでいて断固たる口調で言い切った。
「分をわきまえなさい」
 その、あまりにもっともな言い分に、サイファは返す言葉を見つけられなかった。
 今さらハシリスに言われるまでもなく、身分の違いなど判り切っている。平民である自分をユウザの妃に――などというエリスやセシリアの斬新な考え方は、宮廷の人々に理解されないばかりか、反感を買うのは目に見えている。第一、当事者であるサイファ自身が、一番あり得ない≠ニ思っているのだから。
 だが、それとこれとは話が別である。
 自分が望んでいるのは、ユウザに対する恋の成就などではない。
 彼が生きていてくれたら、それでいい。そのために、力を尽くしたいだけなのだ。
 誤解を解かなければ、と口を開きかけた時、ハシリスは更に言葉を繋いだ。
「サイファよ、[わらわ]は、そなたを気に入っています。そなたが幸せになる事を願っているのです。今は未だ、妾の手元から離すつもりはありませんが、行く行くは、そなたが安泰に暮らせるよう、然るべき相手と婚姻させ、皇族の一門に加えることも考えております。ですが、その相手はユウザではありません。酷な事を言うようですが、あの子のことは諦めなさい――」
「陛下! 畏れながら、申し上げます」
 サイファは無礼討ち覚悟で口を挟んだ。
「私の幸せをお考え下さるのなら、そのようなお心遣いは無用にございます!」
 大理石の冷たい床に平伏[へいふく]したまま、声だけは高らかに申し述べる。
「……陛下の仰る通り、私は皇孫殿下が好きです。でも、それだけです。自分の好きな人が、いつも元気で、幸せに暮らしている姿を見ていられれば、私はそれで十分です」
 愛する母と死に別れ、郷里にいる大切な父や弟とも簡単に会えない今、サイファのかけがえの無い人々≠フ中で、手が届く距離にいてくれるのは、ユウザ・イレイズ――[ただ]一人なのだ。
 その彼を、親族同士の権力争いなどという下らない理由で、見す見す死なせる訳にはいかない。否、一度は放棄しかけ、ユウザに救われた、この命に換えても、絶対に守ってみせる。
 サイファは毅然として面を上げた。
 自分自身の問題ですら自力で対処できないようでは、ユウザを助けることなど、夢の夢。彼の力になる資格は無いという事だ。
 そればかりか、ここで望みが叶わなければ、自分の青春はハシリスに飼われるだけの奴隷で終わる。青い檻の中で、無為に若さを費やす日々。
 生きている意義などない――。
 そんな、サイファの並々ならぬ決意を感じ取ったのか、ハシリスは、じっと彼女の目を見つめ返してきた。濃い灰色の、鏡のような眼差し。
「……では、そなたはユウザの傍にいるだけで良いと、そう申すのですね?」
 暫くして、ハシリスは念を押すように尋ねた。
「はい」
 サイファは深く頷いた。迷いはなかった。
「傍にいれば、あの子がいずれ、相応の姫を娶り、子をなし、睦まじく過ごしている姿を、そなたは目の当たりにすることになります。それでも、心の底から、ユウザの幸福を願えるのですか?」
「……はい」
 一瞬の逡巡の後、大きく頷く。
 ハシリスの言うように、ユウザが他の女性と幸せそうに暮らしているのを見たら、醜い嫉妬を覚えるだろう。でも、一生、彼に会えないことと比べたら、どちらがマシかは明白だった。
「それは、そなたの恋が未だ本物ではないからでしょう」
 ハシリスは、短く息を吐いた。
「――とはいえ、口で言っても判らぬのが、この病の困ったところ。宜しい。そなたの望みを叶えてあげましょう。ただし、これまで通り、そなたの[しん]の主は妾であることを忘れてはなりませんよ?」
 妾が望む時は何時でも馳せ参じるように、と釘をさし、もう下がってよい、と身振りで示す。
「ありがとうございます!」
 サイファは深々と頭を下げると、次の謁見希望者と入れ違いに退出した。
 第一関門、突破。
 サイファは意気揚々とモーヴの部屋へ向かった。
 第二の難関は、予想もしないところにあった。
 サイファは、一度、大きく深呼吸してから、恐る恐る戸を叩いた。
「入れ」
 内側からの許可を得て、扉を開く。
「おはようございます、皇太子殿下」
 既に平服に着替え、何やら熱心に書類に目を通しているユウザに向かって、サイファは戸口で一礼した。
「朝食をお持ちしました」
 緊張を悟られないよう、わざとらしいくらい明るい声を出し、後ろに控えた II 種の下女を招き入れる。朝食は自室で摂るのが習慣だという彼に給仕をするのが、モーヴから与えられた初仕事だった。
 後からついてきた II 種の女は、侍従長の言いつけ通り、料理を載せた手押し車を室内に運び終えるなり、サイファを残して、すぐに部屋を後にした。
「お前……本当に女官の真似事をするつもりなのか?」
 長椅子の上に脚を投げ出し、書類に集中していたユウザは、入ってきたのがサイファだと気づくと、驚いた顔になった。その右の耳たぶに金の雫が宿っているのが目に留まり、我知らず胸が熱くなる。
「真似事ではございません。つい先ほど、皇帝陛下より、皇太子殿下の側仕えとなる許可を正式にいただいて参りました」
 これまで、気楽にタメ口を叩いていたのを、急に、よそよそしい敬語に改めるのは妙な気分だったが、最後の言葉だけはしっかり心を込めて告げた。
「本日より、誠心誠意、殿下にお仕えいたします」
 にっこりと、笑みを浮かべながら。
 それなのに――。
「断る」
 返されたのは、思ってもみない拒絶だった。
「はぁっ!? 断るって、どういう意味だよ!?」
 サイファはユウザに詰め寄り、その胸倉を乱暴に掴んだ。思わず、地が出た。
「言葉通りの意味だ」
 激した彼女の手をあっさり払いのけ、ユウザは立ち上がった。
「私は、着替えも、食事も、身の回りのことは全て、自分で出来ることは自分一人で行う主義だ。どうしても手が必要な時以外、女官は置かないことにしている。それに、必要な時も、ミリア一人がいれば、十分、事足りる」
 だから、お前は必要ない、と、いつも通りの素気[すげ]ない態度。
 サイファはキッとユウザを睨みすえた。
「要らないって言われて、はい、そうですか、って、あたしが大人しく引き下がるとでも思ってんのか? あんたの傍に居ることが、奴隷[あた]の望みだって、この前も言っただろ!」
 せっかくハシリスを説き伏せたのに、守ってやろうとしている本人に邪魔されている場合ではないのだ。
 だが、彼も退[]かない。
「あの時は、あんな樹海の真ん中に、お前一人を置いて行くのもはばかられたから、已むを得ず願いを聞き入れてやっただけだ。私は最早、お前の教育係ではない。旅の間に結んだ主従契約も、今すぐ解消してやる。だから、お前が私に忠義を尽くす義務などない」
「……どうして、義務だと思うんだ」
 問いかけるというより、サイファは悲嘆に沈む声で呟いた。
 今回、女官としてユウザの傍にいられるよう苦心しているのは、確かにエリスの指令である。しかし、その命を受け入れ、尽力しているのは、自分自身の意志≠ナある。
 その想いを、単なる義務感≠ニとられるのは、甚だ不本意だ。
 それに――。
「あんたは、淋しくないのか? 今後一切、あたしとの関わりがなくなっても」
 帝都防衛隊を離れ、教育係の任を解かれ、主従契約を解消し……これで、ユウザがサイファの側仕えを拒めば、二人を繋ぐ接点は、何一つなくなる。皇太子と皇帝の奴隷が相見[あいまみ]える機会など、そうあるものではない。
 しかし――。
「淋しくはないな」
 ユウザは底意地の悪い笑みを浮かべた。
「むしろ、厄介ごとから解放されて、喜ばしい限りだ」
 ついぞ見せたことのない晴れ晴れとした表情で、わかったら出て行け、と背を向けられる。
(……可愛くない)
 サイファは心中で毒づいた。まさか、こんなところで[つまず]くなんて。
 一方、ユウザは彼女を無視して、食器を卓に並べ始めた。銀の水差しを片手で無造作に持ち上げる[さま]など、とても一国の皇太子とは思えない。
 何か、良いこじつけ≠ヘないものかと、必死に頭を働かせていたサイファは、ふとハシリスの言葉を思い出した。
『そなたの[しん]の主は妾であることを忘れてはなりませんよ?』
 真の主――。
(これだ!)
 我ながら、冴えていると思った。これなら、ユウザでも断れない。
「わかってないのは、あんたの方だよ」
 つい弾みそうになる声を、サイファは無理に押し殺した。
 しかし、それがかえって言葉に重みを増してくれたようで、ユウザがハッとした目をして振り返った。何度見ても決して飽くことの無い、翠緑玉の輝き。
 この瞳を――決して曇らせたりさせない。
「あたしの望みは、唯一絶対の支配者である皇帝陛下のお許しを得たんだ」
 サイファは、ゆっくりと唇に笑みを湛えて、宣告した。
 あんたにも、誰にも、陛下の御意に背く資格はない――。
- 2009.12.24 -
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