「恋を――してしまったのですね?」
あまりに意外な言葉をかけられ、サイファは呆然と女帝を見上げた。
翌朝、ユウザへ仕えることを願い出た直後、ハシリスの口から発せられた第一声が、これだった。
「隠さずとも良い」
咎めるというよりは教え諭すような口調で、彼女は続けた。
「ユウザは、我が孫ながら、宮廷一の美丈夫。あれだけの器量と男気を併せ持つ者は、国中を探しても、そうは居ないでしょう」
皇帝お墨付きの、最上級の賛辞。
「世の乙女なら、誰もが、あの子に惹かれます。しかし――」
一呼吸置いて、ハシリスは柔らかく、それでいて断固たる口調で言い切った。
「分をわきまえなさい」
その、あまりにもっともな言い分に、サイファは返す言葉を見つけられなかった。
今さらハシリスに言われるまでもなく、身分の違いなど判り切っている。平民である自分をユウザの妃に――などというエリスやセシリアの斬新な考え方は、宮廷の人々に理解されないばかりか、反感を買うのは目に見えている。第一、当事者であるサイファ自身が、一番あり得ない≠ニ思っているのだから。
だが、それとこれとは話が別である。
自分が望んでいるのは、ユウザに対する恋の成就などではない。
彼が生きていてくれたら、それでいい。そのために、力を尽くしたいだけなのだ。
誤解を解かなければ、と口を開きかけた時、ハシリスは更に言葉を繋いだ。
「サイファよ、妾は、そなたを気に入っています。そなたが幸せになる事を願っているのです。今は未だ、妾の手元から離すつもりはありませんが、行く行くは、そなたが安泰に暮らせるよう、然るべき相手と婚姻させ、皇族の一門に加えることも考えております。ですが、その相手はユウザではありません。酷な事を言うようですが、あの子のことは諦めなさい――」
「陛下! 畏れながら、申し上げます」
サイファは無礼討ち覚悟で口を挟んだ。
「私の幸せをお考え下さるのなら、そのようなお心遣いは無用にございます!」
大理石の冷たい床に平伏したまま、声だけは高らかに申し述べる。
「……陛下の仰る通り、私は皇孫殿下が好きです。でも、それだけです。自分の好きな人が、いつも元気で、幸せに暮らしている姿を見ていられれば、私はそれで十分です」
愛する母と死に別れ、郷里にいる大切な父や弟とも簡単に会えない今、サイファのかけがえの無い人々≠フ中で、手が届く距離にいてくれるのは、ユウザ・イレイズ――唯一人なのだ。
その彼を、親族同士の権力争いなどという下らない理由で、見す見す死なせる訳にはいかない。否、一度は放棄しかけ、ユウザに救われた、この命に換えても、絶対に守ってみせる。
サイファは毅然として面を上げた。
自分自身の問題ですら自力で対処できないようでは、ユウザを助けることなど、夢の夢。彼の力になる資格は無いという事だ。
そればかりか、ここで望みが叶わなければ、自分の青春はハシリスに飼われるだけの奴隷で終わる。青い檻の中で、無為に若さを費やす日々。
生きている意義などない――。
そんな、サイファの並々ならぬ決意を感じ取ったのか、ハシリスは、じっと彼女の目を見つめ返してきた。濃い灰色の、鏡のような眼差し。
「……では、そなたはユウザの傍にいるだけで良いと、そう申すのですね?」
暫くして、ハシリスは念を押すように尋ねた。
「はい」
サイファは深く頷いた。迷いはなかった。
「傍にいれば、あの子がいずれ、相応の姫を娶り、子をなし、睦まじく過ごしている姿を、そなたは目の当たりにすることになります。それでも、心の底から、ユウザの幸福を願えるのですか?」
「……はい」
一瞬の逡巡の後、大きく頷く。
ハシリスの言うように、ユウザが他の女性と幸せそうに暮らしているのを見たら、醜い嫉妬を覚えるだろう。でも、一生、彼に会えないことと比べたら、どちらがマシかは明白だった。
「それは、そなたの恋が未だ本物ではないからでしょう」
ハシリスは、短く息を吐いた。
「――とはいえ、口で言っても判らぬのが、この病の困ったところ。宜しい。そなたの望みを叶えてあげましょう。ただし、これまで通り、そなたの真の主は妾であることを忘れてはなりませんよ?」
妾が望む時は何時でも馳せ参じるように、と釘をさし、もう下がってよい、と身振りで示す。
「ありがとうございます!」
サイファは深々と頭を下げると、次の謁見希望者と入れ違いに退出した。
第一関門、突破。
サイファは意気揚々とモーヴの部屋へ向かった。
*
第二の難関は、予想もしないところにあった。
サイファは、一度、大きく深呼吸してから、恐る恐る戸を叩いた。
「入れ」
内側からの許可を得て、扉を開く。
「おはようございます、皇太子殿下」
既に平服に着替え、何やら熱心に書類に目を通しているユウザに向かって、サイファは戸口で一礼した。
「朝食をお持ちしました」
緊張を悟られないよう、わざとらしいくらい明るい声を出し、後ろに控えた II 種の下女を招き入れる。朝食は自室で摂るのが習慣だという彼に給仕をするのが、モーヴから与えられた初仕事だった。
後からついてきた II 種の女は、侍従長の言いつけ通り、料理を載せた手押し車を室内に運び終えるなり、サイファを残して、すぐに部屋を後にした。
「お前……本当に女官の真似事をするつもりなのか?」
長椅子の上に脚を投げ出し、書類に集中していたユウザは、入ってきたのがサイファだと気づくと、驚いた顔になった。その右の耳たぶに金の雫が宿っているのが目に留まり、我知らず胸が熱くなる。
「真似事ではございません。つい先ほど、皇帝陛下より、皇太子殿下の側仕えとなる許可を正式にいただいて参りました」
これまで、気楽にタメ口を叩いていたのを、急に、よそよそしい敬語に改めるのは妙な気分だったが、最後の言葉だけはしっかり心を込めて告げた。
「本日より、誠心誠意、殿下にお仕えいたします」
にっこりと、笑みを浮かべながら。
それなのに――。
「断る」
返されたのは、思ってもみない拒絶だった。
「はぁっ!? 断るって、どういう意味だよ!?」
サイファはユウザに詰め寄り、その胸倉を乱暴に掴んだ。思わず、地が出た。
「言葉通りの意味だ」
激した彼女の手をあっさり払いのけ、ユウザは立ち上がった。
「私は、着替えも、食事も、身の回りのことは全て、自分で出来ることは自分一人で行う主義だ。どうしても手が必要な時以外、女官は置かないことにしている。それに、必要な時も、ミリア一人がいれば、十分、事足りる」
だから、お前は必要ない、と、いつも通りの素気ない態度。
サイファはキッとユウザを睨みすえた。
「要らないって言われて、はい、そうですか、って、あたしが大人しく引き下がるとでも思ってんのか? あんたの傍に居ることが、奴隷の望みだって、この前も言っただろ!」
せっかくハシリスを説き伏せたのに、守ってやろうとしている本人に邪魔されている場合ではないのだ。
だが、彼も退かない。
「あの時は、あんな樹海の真ん中に、お前一人を置いて行くのもはばかられたから、已むを得ず願いを聞き入れてやっただけだ。私は最早、お前の教育係ではない。旅の間に結んだ主従契約も、今すぐ解消してやる。だから、お前が私に忠義を尽くす義務などない」
「……どうして、義務だと思うんだ」
問いかけるというより、サイファは悲嘆に沈む声で呟いた。
今回、女官としてユウザの傍にいられるよう苦心しているのは、確かにエリスの指令である。しかし、その命を受け入れ、尽力しているのは、自分自身の意志≠ナある。
その想いを、単なる義務感≠ニとられるのは、甚だ不本意だ。
それに――。
「あんたは、淋しくないのか? 今後一切、あたしとの関わりがなくなっても」
帝都防衛隊を離れ、教育係の任を解かれ、主従契約を解消し……これで、ユウザがサイファの側仕えを拒めば、二人を繋ぐ接点は、何一つなくなる。皇太子と皇帝の奴隷が相見える機会など、そうあるものではない。
しかし――。
「淋しくはないな」
ユウザは底意地の悪い笑みを浮かべた。
「むしろ、厄介ごとから解放されて、喜ばしい限りだ」
ついぞ見せたことのない晴れ晴れとした表情で、わかったら出て行け、と背を向けられる。
(……可愛くない)
サイファは心中で毒づいた。まさか、こんなところで躓くなんて。
一方、ユウザは彼女を無視して、食器を卓に並べ始めた。銀の水差しを片手で無造作に持ち上げる様など、とても一国の皇太子とは思えない。
何か、良いこじつけ≠ヘないものかと、必死に頭を働かせていたサイファは、ふとハシリスの言葉を思い出した。
『そなたの真の主は妾であることを忘れてはなりませんよ?』
真の主――。
(これだ!)
我ながら、冴えていると思った。これなら、ユウザでも断れない。
「わかってないのは、あんたの方だよ」
つい弾みそうになる声を、サイファは無理に押し殺した。
しかし、それがかえって言葉に重みを増してくれたようで、ユウザがハッとした目をして振り返った。何度見ても決して飽くことの無い、翠緑玉の輝き。
この瞳を――決して曇らせたりさせない。
「あたしの望みは、唯一絶対の支配者である皇帝陛下のお許しを得たんだ」
サイファは、ゆっくりと唇に笑みを湛えて、宣告した。
あんたにも、誰にも、陛下の御意に背く資格はない――。
- 2009.12.24 -