Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 54 話  始動[しどう]
 全く、どうしてあの娘は、こうもこちらの意に染まない、面倒な方向にばかり突き進んで行くのか。
 内心の苛立ちを小刀[ナイフ]に託し、ユウザは、力任せに皿の上の肉に刃を入れた。
 その様子を見ていた怒りの元凶≠ェ、空とぼけた問いを寄こす。
「その肉、そんなに固いのか?」
 何なら台所で切り分けてもらってこようか? と、小首をかしげるサイファを、ユウザは嘆息まじりに一瞥し、無言で首を振った。
 先ほどから、彼女はずっと食卓の傍らに立ち、あれこれと食事の様子に口をはさんでくる。
 ねぇ、水は? 麺麭[パン]の御代わりは? もっと良く噛まないと、消化に悪いぞ?
 手出しは無用と言い渡され、せめて口だけでも出そうという腹かもしれない。
 何にせよ、ユウザは食事を終えたら、真っ先にハシリスに抗議するつもりだった。寵愛している奴隷の達ての望みとはいえ、サイファを自分付きの女官にするなんて、正気の沙汰とは思えない。
 皇太子に立ったばかりの今、自分には遣るべき事が山ほどある。サイファの戯れに付き合ってやる暇などないのだ。
 それに、火急の危険を回避したからといって、新たな地位を手に入れた自分を疎ましく思う人間が大勢いることに変わりはない。自分の傍にいることで、彼女がどんな[とばっち]りを受けるか、想像するだにおぞましい。
 大体、サイファには学習能力というものが欠けている。旅の帰路で、あんな目に遭ったにもかかわらず、自分自身が皇太子暗殺の巻添えとなる危険性を、全く考慮にいれていないのだ。
 恐らくは、こちらの手助けをしようと考えての行動であろうが、自分は端からサイファの力など期待していない。
 むしろ、大人しく皇帝陛下に飼われていてくれた方が都合が良かった。自分を含む誰もが、決して手を出すことのできない、安全な檻の中で。
 それなのに――。
(何が陛下の御意≠セ)
 小癪なことばかり思いつくようになりおって、と眉を寄せた時、きゅるるるる、と、か細く腹の虫が鳴るのが聞こえて、ユウザははたと顔を上げた。自分でなければ、一人しかいない。
 サイファを見やると、彼女は何食わぬ顔で明後日を向いている。
「今、腹が鳴ったか?」
 尋ねると、サイファは、たちまち頬を染めて眉を吊り上げた。
「あのなぁ! そういうこと、普通、聞くか? 気づかないフリするのが礼儀ってもんだろ!」
 そうやって意見している最中にも再び腹が鳴り、彼女は情けない顔になって、両手で腹を押さえた。その恥らう仕種が、愛らしくも可笑しくて、ユウザは思わず笑ってしまった。
「腹が減っているなら、お前も食え」
 空いている皿に肉を取り分け、向かいの席へと押しやる。
 今までは、この時間ともなれば彼女自身の朝食を終えている頃である。腹が減るのも無理はない。
「いいよっ! それは、あんたの分だ」
 腹を抱えたまま、サイファが頑なに首を振る。
「お前は良くても、腹の虫の[]を聴きながらの食事では、こちらの気が引ける」
 いいから食え、と促すと、彼女は不承不承、席に着いた。
「どれ、汁物[スープ]も分けてやろう」
 ユウザが腰を浮かしかけると、サイファは慌てて立ち上がった。
「いい! 自分でやる!」
 給仕しなければならない立場の彼女が、給仕される側の人間に、そこまでされるのは、さすがに[]え兼ねるらしい。
「ならば、ついでに私にも、もう一杯頼む」
 少しは仕事をさせてやらねば気の毒かと思って、ユウザが頼むと、サイファは、たちまち満面に喜色を湛えた。思わず、向けられたこちらがたじろぐほどの、眩い笑顔で頷く。
 その表情は、ディールで彼女手製の麺麭[パン]を馳走になった時の、あの幸福な顔そのものだった。
(……こういうのも、悪くはないかもしれない)
 いそいそと、汁物[スープ]を皿に[よそ]う彼女の手元を見守りながら、ユウザは、ふいに心が和いでいくのを覚えた。
 ハシリスの奴隷としてフラウ城に住まうようになってから、幼い頃をのぞいては、祖母の求めがない限り、ユウザはいつでも一人きりで朝食をとってきた。黙々と食べ物を口に運びながら、その日一日の行動を思い描き、指針を確かめ、または内省する。食事という行為そのものは、単なる栄養補給に過ぎなかった。
「はい、熱いから気をつけてよ?」
 なみなみと[]いだ皿をユウザの前に静かに置きながら、サイファはラヴィにでも言うような調子で注意を促した。それから、何事もなかったように正面の席に戻って、食事を続ける。
 きっと、これが普通――給仕係などいない庶民の、倹しくも温かい朝食の風景なのだろう。
 ユウザは、決意が揺らぎ始めるのを感じた。
『あんたは、淋しくないのか? 今後一切、あたしとの関わりがなくなっても』
 今も耳に残る、サイファの問い。
(そんなこと――)
 淋しいに決まっている。
 サイファに対する熱病のような恋慕とは全く別の次元で、こうして彼女がもたらしてくれる安らぎは、ユウザにとって、今や手放しがたいものになりつつある。
 それが、何より恐ろしい。
 いつか必ず失う日が来ると、わかっているのに。
 わかり切っているのに、自分は――。
「明日からは、朝食を二人前用意するよう、モーヴに伝えてくれ」
 熱い汁物[スープ]を匙ですくいながら、ユウザは唐突に命じた。
「え? それって……」
 大きく目を見開いたサイファに、横柄に頷いてみせる。
「給仕の度に私の取り分を減らされては、迷惑だからな――」
 朝餉だけは、お前と共にしよう。
 最後まで尊大な調子で続けるつもりが、思いもよらず甘やかな口調に転ずるのを、自分でも止められなかった。
 望まぬ地位を早々に押しつけられた哀れな[おのれ]への、せめてもの気慰み。自分はいつから、こんなにも自分に甘くなってしまったのか。
「うん」
 頷いたサイファは、大きな青玉の瞳を柔らかく細めた。
「どうです? サイファの働きぶりは」
 執務室の肘掛け椅子で、ゆったりと扇子を使いながら、ハシリスは悪戯な笑みを浮かべた。
 朝食後、間もなく始まる議会の前に報告をと思い、ユウザは急ぎ皇帝への謁見を申し入れた。午後からは、昨夜、大幅に省略した儀式の続き――主神殿を除く残り六つの神殿への巡礼が待っており、時間を捻出するのも一苦労である。
「可もなく不可もなしです」
 そんな中、サイファの女官騒動まで持ち込んでくれたハシリスに、恨みがましい苦笑を返し、ユウザは早々に本題に入った。
「――早速ですが、明け方、神官長にお会いして参りました」
 まさか、深夜の立太子礼を終えたその足で会いに行ったとは、さすがのハシリスも想像しなかったようだ。
「まあ、手際の良いこと」
 予想以上に素早い行動に、女帝は満足げに微笑んだ。
「少しお痩せになりましたが、お体に障りはないようにお見受けいたしました。それから、神官長からお伺いした話によりますと――」
 ユウザは、昨夜の面会から得られた情報を、掻い摘んで話した。自分の考察は差し挟まず、淡々と事実だけ。
「……判りました。まだまだ、捜査が必要なようですね」
 引き続き事件の真相を追うように、と命じつつ、ハシリスは静かに溜め息をこぼした。
「はっ」
 ユウザは短く応じるに[とど]めた。祖母の胸の内が良く判るだけに、どんな慰めも無意味だ。
「ところで、妾からも話しておきたいことがあります」
 気持ちを切り替えたように、ハシリスは居住まいを正した。その神妙な様子に、例の折り入って話したいことか、と直感する。
「ずいぶん前から持ち上がっていた話ではあるのですが、そなたに、いくつか縁談があります」
「然様でございますか」
 告げられた言葉を、ユウザは冷ややかに受け止めた。
 成人してから、既に三年。この歳まで具体化しなかっただけ、マシである。
「今のところ、候補として上がっているのは、ルノエ家の第一皇女、ティエラ姫とダルネの第三皇女、レジーナ姫。それから、エカリア家の第七皇女、エレミナ姫の三人です」
 上げられた皇女たちの名に、ユウザは微かに眉を寄せた。
「いずれも、極めて直系に近い家柄の姫君ばかりですね」
 人間の血で薄まった血統には濃い血の注入が必要ですかと、つい喉元まで出かかった皮肉を、無理に呑み込む。
「ええ、どの姫も全く申し分のない相手です。特に、エレミナ姫は才色兼備で、琴の名手と聞きます。そなたの笛と合わせて聴くのも、一興でしょう」
 おっとりと微笑むハシリスの態度で、ユウザはピンときた。祖母の中では、既に、相手はエレミナ皇女と決まっている。
「それは困りました。笛は暫く吹いておりませぬゆえ、高貴な姫君に伴奏いただくには忍びないかと」
 ユウザは、にこ、と笑んだ。ハシリスへの返答は、これで十分。
 エレミナ皇女――エカリア家との縁組を、ハシリスが望んでいるのは間違いない。いずれは受けねばならない時がくるだろう。
 しかし、今すぐ応じるつもりはない。
 今、最も優先せねばならない事は、冤罪で囚われたままのバスティルの救出であり、一連の事件の首謀者を炙り出すことであって、皇太子の花嫁選びではない。
 それは、祖母もわかってくれるはず――。
「それでは、致し方ありませんね。可愛いそなたに、恥をかかせる訳にはいきませぬもの」
 案の定、ユウザの拒絶をあっさり受け入れたハシリスは、鷹揚に頷いた。しかし、釘をさすのは忘れない。
「そう遠くない内に聴かせてもらえるのを、楽しみにしておりますよ」
 そうして、つべこべ言わせぬ貫禄で宣告したのも束の間、皇帝は突然、何か良い事でも思いついたかのように目を輝かせた。
「時に――午後からの神殿巡りに、サイファ・テイラントを同行させるつもりですか?」
「まさか!」
 思いも寄らない質問に、ユウザは、とんでもない、と大きく[かぶり]を振った。
「あら、神事の前には身支度が付き物でしょう。女官を連れて行った方が、そなたの為ですよ? それに――」
 言いさして、ハシリスは、ふふ、と笑う。
「フェスタリク神殿にあの子を連れて行くと、面白いものが見られるかもしれません」
「と、仰いますと?」
 訝るユウザに、ハシリスは少女のように片目を瞑って答えた。
「それは、見てのお楽しみという事にしておきましょう」
 困ったことになった。
 このように言われてしまえば、サイファを連れて行かざるを得ない。
「では、その前に、楽しくもない糾弾を浴びて参ると致しましょう」
 渋面のまま、ユウザは席を立った。
 間もなく、午前十時――立太子後、初仕事にして、極めて気乗りのしない、帝国議会の幕開けである。
「とにかく! 一切の告示もなく、いきなり『立太子礼は、もう済んだ』では、誰も納得いたしませぬぞ!」
 そう息巻くは、国務大臣のコルヴェート・ダルネ。内政全般に関わる重臣である彼は、ダルネ一族の家長である。
 派手派手しい[くれない]の長衣に恰幅の良い体を包み、黒光りする自慢の口髭を激しく揺らしながら、若き皇太子を問い質す。
 皇家一門が居並ぶ議事堂内、口汚い野次こそ飛ばなかったが、彼の発言を後押しするように、盛大な拍手が沸き起こる。
 予想通り、議会は大荒れだった。
 開会直後、ハシリスの口から、既にユウザが皇太子となった事実が発表されるやいなや、地鳴りのような不服の唸りが堂内を満たした。そして、そのまま不穏な空気となって滞留している。
[]せぬことを仰る」
 ユウザは良く通る声で、ぽつりと言った。
 これまで、一切申し開きをしようとしなかった皇太子の発言に、一瞬、辺りが静まり返った。皆の視線が彼に集まる。
「前皇太子の独り[]であり、現在、皇位継承権第一位の私が、皇太子の座に就くのは正当なること。納得のいかない理由の方が、見当たらぬが?」
 皇帝の玉座と並ぶ皇太子の席に悠々とかけたまま、ユウザは慇懃に問うた。今の今まで、彼らの鬱憤を晴らさせてやるよう、黙って罵声を浴びていたが、そろそろ潮時だ。
「問題は皇統ではありませぬ! 大事な立太子の礼を、真夜中にこそこそ執り行うなんて、あまりに非常識ではないか、と申し上げているのです」
 コルヴェートは、怒りの色も露わにユウザを睨みすえた。若輩――それも半神≠フ不遜な態度が、お気に召さないらしい。
「こそこそとは、また人聞きの悪い。そもそも、立太子礼に伴う多くの儀式は、民衆に向けてではなく、一族内でのお披露目が目的の全くの無駄――ああ、失礼。形式的なものばかり。それを略すは経費の削減。延いては国益につながるというもの」
 大臣の視線を真っ向から受け止める形で、ユウザは微笑んだ。
「し、しかし! 一国の皇太子がお立ちになったというのに、盛大な儀式の一つもせぬでは、諸外国の物笑いになるとは思われませぬのか!?」
「なに、皇帝陛下がご健勝の今、立太子など、所詮、国内の瑣末事。わざわざ、こちらから宣伝する必要もないでしょう」
 コルヴェートの意見を正面から否定すると、ユウザは反論が出る前に話を打ち切った。
「――とはいえ、皇太子継承の儀の在り方については、私にも些か思うところがあるゆえ、この件については改めて時間を設けたい。よって、今日のところは、これまでということに」
 よろしいですね、議長? と、有無を言わせず閉会を要求する。
 議長を務める、こちらも重臣のゾルグ・ラシオンは、ちらりと窺うように皇帝を見た。
 コルヴェートとは対照的に、背が低く、線の細いゾルグは、一見、ひ弱な印象を与える。しかし、柔和に見える丸顔には、時折、聡明というよりは狡猾さが感じられる、古狸だ。
 彼の視線を感じているはずなのに、ハシリスは何も言わない。その沈黙が、何にも勝る同意の証拠だった。
「それでは、解散!」
 ゾルグが短く宣して、本日の議会は終了した。
(ようやく、半日……)
 肩にのしかかるような疲労を覚えながら、ユウザは議事堂を後にした。
 皇太子という仕事は、思った以上に時間的な制約が厳しい。叔父から預かった名簿を元に調査を進めようにも、主神殿に赴く時間が思うようにとれない。
(早急に、私の手足となって働いてくれる者を集めねば)
 まずは、執事のモーヴ・パジェットに今少し骨を折ってもらわねばなるまい。それから、腹心のナザル・ベークを帝都防衛隊から呼び戻す。
 でも、それだけでは足りない。
 老齢のモーヴは、そろそろ引退の時期を考えてやらねばならないし、忠義に厚く、気性が真っ直ぐ過ぎるナザルでは務まらない後ろ暗い用事が、この先、きっと出てくる。心身ともに強靭で、政治に明るく、酸いも甘いも噛み分けるような、捌けた男が必要だ。
 こうした側近たちを集めるためにも、皇太子に立つまで、もう少し時間が欲しかった。父の急な退位が、よけい悔やまれる。
(とりあえずは、立太子礼にケリをつけねば……な)
 山積した問題を嘆いてばかりはいられなかった。一つずつ片付けていかなければ、前に進めない。
(フェスタリクには、どんな難題が待ち構えていることやら――)
 我知らず、大きな溜め息がもれた。
 これまで、ハシリスが楽しい≠ニ言っていたことで、本当に楽しかった≠アとが、果たして幾つあっただろう。
 ハシリス以上の問題児を伴っての外出[そとで]に大いなる不安を抱きつつ、ユウザは居室へ向かって重たい足を引きずった。
- 2010.01.26 -
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